アメリカのフュージョン・シーンで成功した数少ない邦人ミュージシャン、コンポーザー、アレンジャー、キーボーディスト、シンガー、箏奏者、音楽プロデューサー、レコーディング・エンジニアとして、マルチプルな活動をする横倉裕のGRPレコード移籍第1作『YUTAKA』
横倉裕 / YUTAKA (1988)
Today’s Tune : Warm And Sunny Sunday Morning
不世出の天才音楽家のこれまでの歩みを振り返る① 日本編
久しぶりに、横倉裕のアルバムについて語ってみたい。横倉さん本人名義のアルバムは、実はたったの4枚しか存在しない。ファースト・アルバムの『ラヴ・ライト』(1978年)は、このサイトでもご紹介したことがあるので、今回は順序よくセカンド・アルバム『YUTAKA』(1988年)についてお伝えする。念のために云っておくと、アルファレコードからリリースされた『ラヴ・ライト』は、アメリカ西海岸のラジオ・ステーションにおいてヘヴィ・ローテーションとなり人気を博した。まもなくレコードが廃盤になると、未使用盤はもちろんのこと、中古盤でさえ高額で取り引きされるようになった。本盤は長い間クレート・ディガー垂涎のアイテムとなっていたが2023年、日本において最新のリマスターでリイシューされた。廃盤にならないうちに購入されることをお勧めする。
ところで横倉裕はアメリカ西海岸において、コンポーザー、アレンジャー、キーボーディスト、シンガー、箏奏者、音楽プロデューサー、レコーディング・エンジニアとして、マルチプルな活動をするミュージシャン。とはいっても横倉さんは、紛れもなく日本人アーティストであり、そのキャリアも相当長いのにもかかわらず、いまもって知るひとぞ知る存在なのだ。彼の音楽にたまたま触れることができたひとは、かく云うぼく自身も含めて、ほんとうに幸運だと思う。なぜなら、最初に断言してしまうけれど、横倉さんは世界にただひとりの音楽家であり、彼が創造する音楽は際立って個性的で、だれにも真似することのできないものだからだ。しかもそのサウンドはとにかくハイセンスで、BGMとしてもアーバン・ライフスタイルによくマッチする。
にもかかわらず、横倉さんの音楽はいまだに一部の音楽通から高く評価されるのみにとどまり、日本の音楽ファンの間で語られる機会がほとんどない。そしてその原因は、彼のキャリアを振り返るとよくわかる。かいつまんで云うと、実は横倉さんは、高校時代から音楽業界の注目を集めるほどの実力者で、20歳でプロデビューを果たしている。その後の活躍が期待されたが1973年、突然、在籍していた成蹊大学を中退して単身渡米、活動の拠点をロサンゼルスに移してしまう。1988年には、YUTAKA名義で自己の音楽作品を制作するようになる。さらに2006年以降は、なんとカルロス “ユタカ” デル・ロザリオという別名で活動するようになり、いまでは日本語を使うことがままならないくらい、あちらのひとになっているのである。

ぼくはこれまでこのブログにおいて、事あるごとに横倉さんについて語ってきた。ずっと横倉さんの音楽を追いかけてきたものからすれば、ひとりでも多くのひとに彼のことを知ってもらいたい──そう思うのは、当然の心理ではなかろうか。だから何度でも、自分がもっている情報や記憶に限られるけれど、横倉さんについて繰り返してお伝えしようと、ぼくは思うのである。ということで早速、この不世出の天才音楽家のこれまでの歩みを振り返ってみよう。横倉裕は1952年6月26日、東京都世田谷区にある代々つづく旧家の子どもとして生まれた。いやいや、もう74歳にもなるのか──。それはともかく、横倉さんは3歳からクラシック・ピアノのレッスンを受け、10代の半ばには本格的に作曲もはじめていたという。
横倉さんは、幼少期から日常的に音楽や楽器に触れられる、実に恵まれた家庭環境で育った。両親が所持していた、ジャズ・ピアニストでシンガーのナット・キング・コール、女性ポップ・シンガーのパティ・ペイジ、さらには諸々のビッグ・バンド・ジャズなどのSPレコードを、横倉さんは2歳のころから聴いていたのだという。またそのいっぽうで、ピアノのこころえのある母親が弾いていたことから、フレデリック・ショパンのエチュードにも親しんでいたとのこと。ちなみにピアノを嗜んだものとして云わせてもらうと、ショパンの全27曲の練習曲はどれも、演奏するにあたって高度な演奏技術と深い芸術性が要求される。それはさておき、ティーンエイジャーとなった横倉さんは、ザ・ビートルズからモータウン・サウンドまで幅広く音楽を聴いていたそうだが、日本の作曲家に注目することは一度もなかったという。
横倉さんの音楽は、ブラジリアン・ミュージックからの影響が強いが、やはり2歳のころから聴いていた両親所蔵のSP盤が幼い彼に刺激を与えたのだった。ルイス・ゴンザガとウンベルト・テイシェイラとの名コンビによる「バイアォン・ジ・ドイス」やアントニオ・カルロス・ジョビンとヴィニシウス・ジ・モライスとによる名曲「イパネマの娘」などが、当時の愛聴曲だったとか──。興味深いのは、前者のノルデスチのリズムと後者のボサノヴァのハーモニーとをかけ合わせると、にわかに横倉さんがクリエイトするサウンドがイメージされるということ。彼の音楽が孕むブラジリアン・テイストが、にわか仕込みでないことは明らかだ。そうしたなかで横倉さんがもっとも影響を受けたブラジルの音楽家といえば、ブラジリアン・ポップを世界的なものにしたセルジオ・メンデスだった。
そんな横倉さん、中学生のころにはロック・バンドでドラムを叩いたりしたこともあるそうだが、成蹊高等学校に進学すると自己の音楽性をアピールしたバンド、ザ・マザーズ・ウォーリーを結成。同バンドで、1970年にヤマハ音楽振興会が主催する第4回全日本ライト・ミュージック・コンテストに出場し、自作曲「ジャスト・アフター・ザ・レイン」においてフォーク部門の第1位を獲得した。ただしこの曲、フォークではなく英語詞の爽快なボサノヴァ・ナンバーだ。幸いなことにこの音源は、1971年にポリドール・レコードが発売した『第4回 全日本ライト・ミュージック・コンテスト・グランプリ1970』(CD化済み)というアルバムで聴くことができる。まだ高校1年生だった杉山美奈子のリード・ヴォーカルをはじめ、バンド・パフォーマンスのクオリティの高さに驚かされる。
ちなみに杉山さんは、1973年にワーナー・パイオニア(現ワーナーミュージック・ジャパン)から「雨のハーバーライト」というEPレコードをリリース、プロデビューを果たしている。リズム・アンド・ブルース色の強い楽曲をソウルフルに歌い上げていて、その後の活躍が期待されたが、惜しくも若くして亡くなられたそうだ。いっぽう横倉さんのほうも、それにさき駆けて20歳にしてプロデビューを果たしている。日本ではまだ歌謡曲が全盛だった1972年に、本格的なブラジリアン・グルーヴをサウンドの主軸に据えたポップ・グループ、NOVOを結成し、コンポーザー、アレンジャー、キーボーディスト、そしてシンガーとしてプロ活動を開始した。ところが、EPレコード2枚をリリースするもヒットに恵まれず、ほどなくしてバンドは自然消滅。リーダーである横倉さんが、単身渡米し活動の拠点をロサンゼルスに構えたからだ。
その後、NOVOあるいは横倉さんが発信した、その新し過ぎた高い音楽性について触れられる機会は、ほとんどなかった。ところが2003年、ジャンルに囚われない音楽を提供するというコンセプトで立ち上げられた、キングレコード傘下のPOP SHOPレーベルが、EP盤の既発音源をリマスターした4曲とお蔵入りした未発表音源8曲をすべて収録した『NOVO コンプリート』をリリースしたのだ。楽曲の内訳は、カーリー・サイモン、ミシェル・ルグラン、アントニオ・アドルフォ、そしてジョアン・ドナートといったジャンルを超えた4曲のカヴァー、コンポーザー、プロデューサー、そして後のアルファレコードの創設者でもある村井邦彦のペンによる2曲、そして横倉さんのオリジナル6曲となっている。どのトラックも、半世紀以上もまえの音楽とは思えないくらい新鮮に響く。
不世出の天才音楽家のこれまでの歩みを振り返る② アメリカ編
いま聴いてもフレッシュなのだから、歌謡曲全盛時代にはひときわ異彩を放っていたであろうNOVO、新すぎたが故に当時の大衆には受け入れられなかったのだ。トラックダウンまで済んでいながら長い間世に出ることのなかった音源が『NOVO コンプリート』として日の目を見るにあたり、ブラジル音楽を吸収したポップ・ユニット、オレンジ・ペコーのギタリスト、藤本一馬が「大先輩に大きなリスペクトの気持ちを感じています」と、DJでプロデューサーの須永辰緒が「今ここできっちりと再評価してあげよう」と、それぞれコメントを寄せているが、ぼくもまったく同感だった。AIまで導入されて刹那的な需要に応えるだけの音楽が粗製濫造されるいまの情報化時代において、このNOVOの音楽はまるで限りなく硬度が高く光を失わない宝石のように、ぼくには思われて仕方がない。
そして、NOVOのサウンドの完成度の高さは間違いなく、ひとえに横倉さんの音楽を創造するうえでの、尋常ではないこだわりによるものだろう。たとえば、そのリズム・セクションのアレンジやオーケストレーションの秀逸なマナーは、おそらく独学によるものなのだろうが、その後彼が出会うことになるメンターたちへの憧憬と敬意とが生み出した青春の日の軌跡なのだ。この奇跡的な音楽はPOP SHOP盤が廃盤になったあとにも、名盤発掘で定評のあるウルトラ・ヴァイヴによって、メンバーの意向に沿った曲順に改められたうえでリイシューされた。この『ラヴ・イズ・ゼア – NOVO コンプリート・ワークス –』(2013年)で特筆すべきは、この再編にあたり2012年と2013年の新規録音2曲が追加収録されたこと。特に現役から離れていたシンガー、藤川あおいの新たな歌唱が披露されたことは、まさに奇跡と云うしかない。
いささか長くなってしまったが、横倉さんはNOVO時代に、たまたま来日していた憧れの存在、セルジオ・メンデスと面会し(のちに横倉さんは1991年から2011年までセルメンのグループのキーボーディストを務めることになる)、その後、やはりカーペンターズとともに来日していた、クワイアマスターのフランク・プーラーとコンタクトをとり、その伝手で1973年ついに渡米する。彼はプーラーが教授を務めるカリフォルニア州立大学で作曲とピアノを専攻。やがて、当時セルメンのオーケストレーションを担当していた、デイヴ・グルーシンに師事するようになる。さらにグルーシンの仲立ちで、ジャズからポップスまで歌う人気シンガー、ペギー・リーのアレンジャーとして6年間働いた。それから数年後、横倉さんはいよいよソロ・アルバムの制作に取りかかる。

横倉さんは1978年、当時、海外向けの戦略としてフュージョン作品を活発にリリースしていたアルファレコードと契約する。さきにも触れたが、アルファの創始者であるとともに、シティ・ポップの先駆的メロディメーカーでもあった村井邦彦は、NOVOがカヴァーしたトワ・エ・モア の「愛を育てる」と赤い鳥の「窓に明りがともる時」の作曲者だ。そして横倉さんのファースト・アルバム『ラヴ・ライト』は、歴史的な観点からもハイクオリティなジャパニーズ・フュージョンのエクスプローラーと云える、村井氏が自らエグゼクティヴ・プロデューサーを務める、アルファレコードからリリースされる運びとなった。なおレコーディングは、1978年の6月から7月にかけて、ロサンゼルスのラスク・サウンド・スタジオとニューヨークのエレクトリック・レディ・スタジオにおいて行われた。
この『ラヴ・ライト』はアルファレコードの1枚であるとともに、もとはデュオ・クリエイティクスという名称の原盤制作会社で、当時アリスタ・レコード傘下でGRPレーベルを立ち上げる直前だった、グルーシン/ローゼン・プロダクションによって制作された作品でもある。プロデューサーのデイヴ・グルーシンと元ドラマーでレコーディング・エンジニアのラリー・ローゼンは、すでにアール・クルー、ノエル・ポインター、パティ・オースティンをデビューさせており、横倉さんの場合もそれに追随する形となった。先蹤同様、本作は素晴らしい出来映えとなったが、まさか将来、クレート・ディガー垂涎のアイテムになるなんて、当時はだれも想像しなかっただろう。しかも『ラヴ・ライト』は、レコーディングにおいて琵琶、箏、尺八といった和楽器が採用されたことにより、ひときわ異彩を放つ作品に仕上がった。
横倉さんは、コンテンポラリー・ジャズのサウンドに和楽器の音色を加えることによって、異国に身を置く日本人としての自己のアイデンティティを表現したのである。とはいっても、それはキワモノ的なオリエンタル・ミュージックではなく、むしろアーバンなムードが横溢する洗練された音楽なのだ。いまあらためて本作を聴き直してみると、どの楽曲も即興演奏は控えめで、メロディとアンサンブルが重視されていることがわかる。しかも、終始ミッド・テンポの曲で構成されているところが、非常に現代的であるようにも感じられる。このあたりに『ラヴ・ライト』がシティ・ポップとして、世代を超えて再評価されるに至った要因があるのかもしれない。いずれにしても、ここにあるサウンドが時代を超えて愛される良質の音楽であることは間違いない。
ただこの『ラヴ・ライト』は、卓越した音楽作品であることには違いないのだが、横倉さんの音楽を長期的な視点で考えると、過渡期におけるひとつの成果のように思われる。というのもこのレコーディングでは、横倉さん自身がリズム・セクションのアレンジを一手に担っているのだが、ストリングス、ホーンズ、それにバッキング・ヴォーカルのアレンジにおいては、半数近くの曲で彼の師匠であるデイヴ・グルーシンに協力を仰いでいるからだ。さらに、のちに横倉サウンドのトレードマークのひとつとなる、箏の演奏もロサンゼルス在住の日本人ミュージシャン、喜多嶋修や、日系アメリカ人三世によるバンドHIROSHIMAのメンバー、ジューン・クラモトによるもの。おそらく当時の横倉さんは、まだ箏のインストゥルメンタル・テクニックを身につけていなかったのだろう。
そしてなによりも『ラヴ・ライト』では、NOVOのもち味だった本格的なブラジリアン・グルーヴが、サウンドの主軸に据えられる場面は一切なかった。唯一グルーシン/ローゼンに見出されたばかりの、R&B系の女性シンガー、パティ・オースティンと横倉さんとがデュエットした、アルバム・タイトル・ナンバー「ラヴ・ライト」は、テンポといいコード進行といい、その後大きく進化する唯一無二の横倉サウンドを彷彿させる。しかしながらアルバムの全体像を捉えると「ラヴ・ライト」は、グルーシン所縁のミュージシャンたちに囲まれたエマージング・アーティストの、ハイクオリティなフュージョン作品といった印象を与える。横倉さんのアイデンティティが目に見えて確立されるようになるのは、やはり1988年にGRPレコードと契約したあとの作品においてである。
横倉さんは、グルーシンがオーナーを務めるレーベル、GRPレコードにおいて心機一転YUTAKA名義で『YUTAKA』(1988年)『ブラゼイジア』(1990年)『アナザー・サン』(1993年)といった高品質のリーダー・アルバムを発表していく。作品を重ねるごとにそのサウンドは、オリエンタル・ムードが薄らぎブラジリアン・グルーヴが際立つようになる。横倉さんのヴォーカルがフィーチュアされる場面も徐々に増えていき、作品は次第にジャズ/フュージョンというよりも、どちらかというとニュー・アダルト・コンテンポラリーのフォーマットに収まるような様相を呈していく。それは原点回帰というわけではないが、かつてNOVOで横倉さんが繰り広げていたサウンドの発展系のように思われる。その点、横倉さんが自分の目指す道がなにかをポジティヴに見出したのだと、ぼくは解釈した。
アルバム『YUTAKA』とリリースに至るまでのおよそ10年間
ところで『ラヴ・ライト』がアメリカ西海岸のマーケットを賑わせてから『YUTAKA』のリリースに至るまで、およそ10年のスパンが空く。横倉さんはもともと音楽に対する姿勢がストイックというか妥協知らずのひとだから、その仕事量は決して多くはなかった。そのぶん手がけた作品は、どれも極めて完成度が高い。この期間、横倉さんはニューヨーク在住の日本人ジャズ・ギタリスト、増尾好秋のフュージョン・アルバム『ソング・イズ・ユー・アンド・ミー』(1980)のレコーディングに、コンポーザー、アレンジャー、キーボーディストとして参加。また、キーボーディスト兼シンガーのグレッグ・フィリンゲインズのアルバム『処女航海』(1981年)の冒頭を飾る「ガール・トーク」で、スタイリッシュなホーンズ&ストリングスのアレンジを披露した。
そしてこの長いスパンにおける横倉さんの音楽活動といえば、ぼくの知る限りでは、あと彼が敬愛するセルジオ・メンデスの音楽を、その洗練されたアレンジメントでコンテンポラリー・ジャズ風に再現してみせたL. A. トランジットのアルバム『ジ・ノヴォ』(1986年)くらいのもの。しかしながらこの作品は、横倉さんの音楽を愛するものにとってはマストアイテムとも云うべきもので、重要なコンテンツを抱えている。本作のラインナップは、セルメン所縁のナンバー主体で構成されているのだが、そのなかに横倉さんのオリジナル・ナンバーが2曲交えられている。具体的には「ムイト・マイス」と「サマー・ウィズアウト・ユー」という曲で、ともに横倉さんの代表曲と云える。しかも両者ともこのアルバムのヴァージョンが初出となっている。
ブラジルの女性コーラス・グループ、クアルテート・エン・シーのメンバーだったレジーナ・ヴェルネッキが作詞を手がけた「ムイト・マイス」は、独特のバランス感覚を有するサンバのリズム、意匠が凝らされたコード進行、テンション・ノートが多用された絶妙なハーモニーと、横倉サウンドが最大出力となったナンバー。1970年からセルジオ・メンデス&ブラジル ’66のリード・ヴォーカリストを務めたグラシーニャ・レポラーセが歌っている。レポラーセはセルメンの奥さまだ。この曲はのちに横倉さんがプロデュースを手がけたブラジリアン・フュージョン・グループ、ヴェラスのアルバム『イーリャ・ドス・フラージス』(1989年)というアルバムでカヴァーされた。そちらのリード・ヴォーカルは、ケヴィン・レトー。レトーもまた、セルメン・ファミリーのひとりだ。

いっぽうハーブ・アルパートの奥さまで、セルジオ・メンデス&ブラジル ’66の初代リード・ヴォーカリストだったラニ・ホールが歌詞を付けた「サマー・ウィズアウト・ユー」は、スローなボサノヴァのリズム、美しいコード進行、ノスタルジックなメロディック・ライン、そしてなんとも感傷的な歌詞がこころを揺さぶる名曲中の名曲。しかもこのヴァージョンでは、横倉さん自身が個性的なソフト・タッチの歌声を披露している。この曲ものちに、女優でシンガーの藤田朋子のファースト・アルバム『ザ・ウーマン・イン・ミー』(1989年)、そしてフィリピンのシンガー、チャド・ボルハの4枚目のアルバム『ショウ・ミー・ザ・ウェイ』(2000年)においてカヴァーされている。むろんどちらも、プロデュースとアレンジは横倉さんが手がけている。
さらにもうひとつ付言すると、この「サマー・ウィズアウト・ユー」は一般的に、NOVOの1973年のEPレコードとしてリリースされた「この星の上で」が原曲と観られている。確かにメロディック・ラインに類似する箇所があるのだが、キーがDからFにチェンジされる感動的なサビは「サマー・ウィズアウト・ユー」だけのものである。いずれにしても、この『ジ・ノヴォ』というアルバムは、マストハヴな1枚。また本作では、その時代を映し出す電子楽器、FMアルゴリズムを使用したデジタル・キーボード、音源内蔵のミュージック・シーケンサー、それに六角形のパッドを使用したエレクトロニック・ドラムなどが使用されている。本来それらは、いまとなっては旧時代的なサウンドとして響くのだろうが、ここで繰り広げられている音楽の普遍性の高さから、まったく違和感なく聴こえる。
このことはひとえに、横倉さんの高度なミュージカリティを明示するものと云っても過言ではないだろう。そしてそのサウンドは、満を持して発表された『YUTAKA』のコンテンツに直結するものであるのだ。横倉さんのGRPレコードにおける最初のリーダー作『YUTAKA』では、横倉さん本人とデイヴ・グルーシンの7歳下の弟でキーボーディストのドン・グルーシンとが共同でプロデュースを手がけている。吹き込みはグレンデールのモンタレー・スタジオ、ハリウッドのオーシャンウェイ・スタジオ及びサンセット・サウンド、そして横倉さんが所有するアルハンブラのダブル “Y” スタジオなどで行われた。レコーディング・エンジニアは、ジェフリー・ジレットと横倉さんが務めた。ミキシングは、キャピトル・レコーディング・スタジオにおいてドン・マレーによって行われた。
主なレコーディング・メンバーは、横倉裕(key, koto, perc, vo)、ドン・グルーシン(key),ジェフ・フェア(synth prog)、オスカー・カストロ・ネヴィス(g, Cavaquinho)、カルロス・リオス(g)、ポール・ジャクソン・ジュニア(g)、ティム・ウェストン(g)、フレディ・ワシントン(b)、エイブラハム・ラボリエル(b)、ジミー・ジョンソン(b)、カルロス・ヴェガ(ds)、ジョン・ロビンソン(ds)、ヴィニー・カリウタ(ds)、ルイス・コンテ(perc)、パウリーニョ・ダ・コスタ(perc)、エヴェラルド・フェレイラ(perc)、松居和(Shakuhachi)、ポーリーン・ウィルソン(vo)、グラシーニャ・レポラーセ(vo)、バニー・ハル(vo)。さらに、シーウィンド・ホーンズの面々によるホーン・セクション、シド・シャープをコンサートマスターとするストリング・セクションが加わる。
アルバムのオープナー「カラーズ・オブ・ザ・ウィンド」は、横倉さんのオリジナル。シンコペーテッドなリズムと軽やかな箏のフレージングとが爽快感を与えるインスト。のちにシンガーのモーガン・エイムズによって歌詞が付され、ポーリーン・ウィルソンのアルバム『愛の瞬間』(1992年)でカヴァーされた。横倉さんの曲にHIROSHIMAのリーダー、ダン・クラモトが歌詞を付けた「ウォーム・アンド・サニー・サンデイ・モーニング」では、横倉さんとウィルソンとのデュエットがフィーチュアされる。ゆったりとしたAORから高速サンバへのメトリック・モジュレーションが効果的だ。横倉さんとカストロ・ネヴィスとの共作「ピーチ・ブロッサム・スプリング」では、箏と尺八とが絡み合って、麗らかな日和をイメージさせるような閑麗な演奏が展開される。
横倉さんの曲にバニー・ハルが歌詞を付した「ドリームランド」は、ソフィスティケーテッドなコード進行のアダルト・コンテンポラリー。ヴァージョンは異なるが、過去に大京観光のCMで使用されていた。横倉さんのソフトでエアリーなヴォーカルが際立った、横倉サウンドが遺憾なく発揮されたナンバーだ。山田耕筰作曲、三木露風作詞の「赤とんぼ」では、ソロ・ピアノと柔らかなシンセとの絡み、美しいリハーモナイゼーションがノスタルジックなムードを醸成する。横倉さんの「ナイト・ウェイヴ」では、ホーンズ&ストリングス、リズム・セクション、シンセサイザー、和楽器など、総力が結集され、アーバンかつダイナミックなフュージョン・サウンドが展開される。アルバム中、もっとも聴き応えのあるナンバーだ。
横倉さんとハルとの共作「リヴィング・インサイド・オブ・ユア・ラヴ」は、ウィルソンのヴォーカルが弾けるディスコ・インフューズド・ポップ。横倉さんとドン・グルーシンとの共作「ザ・シャドウズ」は、箏が前面に押し出されたリフレッシングでブリージーな1曲。フュージョン・ギタリスト、エリック・ゲイルのアルバム『レッツ・ステイ・トゥゲザー』(1988年)でも採り上げられた。ドン・グルーシンの「アウトドア・ライフ」は、日本的情緒とデジタル・サウンドとが交錯するファンキーな曲。横倉さんの「オーロラ」は、サウンド・プログラミングのセンスが光る躍動感溢れるナンバー。師匠デイヴ・グルーシンからの影響が強く感じられる。そしてドン・グルーシンの「リフレクションズ」では、メランコリックなソロ・ピアノが美しくも影のある余韻を残す。全体的にはまだブラジリアン・グルーヴが控えめな本作ではあるが、横倉裕という音楽家がいかに逸材であるかを知るには、十分過ぎる1枚である。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。







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