Junior Mance / Junior (1959年)

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第一線級のソウルフル・ピアニスト、ジュニア・マンスの節度を保持した極上の語り口が遺憾なく発揮された、デビュー作にして貫禄のある名盤『ジュニア』

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Junior Mance / Junior (1959)

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決して弾きまくらないソウルフルなジャズ・ピアニストのトップランナー

 

 ジュニア・マンスというと、すぐに思い浮かぶのは『ジュニア』(1959年)というアルバム。ことあるごとにリイシューされる、日本でもたいへんな人気を誇るいわゆる名盤だ。マンスにとっては初リーダー作に当たるが、一般的には彼の最高傑作と云われている。これにはいささか問題がある。マンスはそれ以降も2010年代まで50枚以上のアルバムを発表しているのだけれど、取り沙汰されるのは常に『ジュニア』なのである。かくいうぼくも、いままさにこのアルバムを採り上げているのだから、ひとのことは云えないな。まあそれだけ『ジュニア』が素晴らしい作品ということになるのだが、ではジュニア・マンス自身は、人気の点ではどうかというと、レッド・ガーランド、トミー・フラナガン、レイ・ブライアントといった同時代のピアニストと比較すると、やや後塵を拝するように思われる。

 

 いま思いつくままに3人のピアニストを挙げてしまったが、それはぼくがマンスのアルバムを集中的に聴いていた時期が、ちょうどこの3人の演奏に親しんでいたときと重なるからだ。ガーランドのことはご多分に漏れず、マイルス・デイヴィス・クインテットのメンバーとして認知し、にわかにその独特のブロック・コード奏法やコンピングの仕方に聴き馴染んだ。フラナガンの場合は、ほどよいスウィング感と洗練された美しいタッチ、さらにその卓越した音楽性に強く惹かれた。そしてブライアントはといえば、ファンキーでブルース・フィーリング溢れる歌ごころも然ることながら、特にゴスペルとブギウギとが交錯するような個性的な奏法に圧倒された。彼らのプレイはほとんどの場合、一聴でそれとわかる魅力に溢れている。

 

 そのいっぽうで、マンスはいくぶん地味に映る。むろん上記の3人に比べて魅力や活気に欠けているわけではなく、云うなれば上品で落ち着いているのである。マンスにとって、若いころのアイドルはブギウギ・ピアニストだったという。その後、アート・テイタム、バド・パウエル、オスカー・ピーターソンといった、どちらかというとヴァーチュオシックなピアニストから影響を受けている。つまり彼は高度な演奏技術を身につけているし、そのパフォーマンスには人間味溢れるアーシーでダイナミックな味わいがある。その点、ソウルフルなジャズ・ピアニストとしては、トップランナーのひとりと云っても過言ではないだろう。そうかといってマンスは、決して行き過ぎた演奏をしない。ひとことで云うと、弾きまくらないひとということになる。

ピアノを弾く犬のぬいぐるみ

 実は当時ヴァーヴ・レコードの所属アーティストとして先輩に当たるオスカー・ピーターソンが、同レーベルから『ジュニア』がリリースされた際、マンスを絶賛するコメントを寄せている。まあプロデューサーのノーマン・グランツに頼まれて、多少のリップサービスもあったのかもしれないが、なかなか示唆に富んだものだ。ピーターソンといえば、鍵盤の皇帝の異名をとるほどの圧倒的な超絶技巧の持ち主。その10本の指は、凄まじい音数とスピードで鍵盤上を縦横無尽に駆け巡る。つまりマンスとは反対に、弾きまくるピアニストだ。そんな彼が抑制を利かせながら端正に弾くマンスのことを高く評価しているのが、実に興味深い。しかもピーターソンの見解はまさに云い得て妙で、マンスのジャズ・ピアニストとしてのチャームポイントを、非常に巧みに、そのうえ的確に云い表しているのだ。

 

 せっかくだから、ピーターソンのコメントをここに引用させていただく。まず彼は「実験的な試みに走るもの、あるいは単に拙いだけのプレイヤーが溢れるジャズの世界において、ジュニア・マンスが自身の楽器を通じて提示するアイディアの明快さと瑞々しさは、実に新鮮な響きをもっている。彼はジャズに不可欠かつ根源的な要素であるスウィング感をしっかりと保持しながら、同時に圧倒的な情感を演奏に込めるという、稀有な才能の持ち主だ」といった具合に、マンスの音楽性を評価している。つまりマンスは奇をてらったりせずに、既存の枠組みのなかで新しい音や手法を試みるスタンスをとっているのである。したがってアルバム『ジュニア』は、ジャズの醍醐味であるスウィング感、即興演奏をストレートに楽しむことができる作品と云うことができる。

 

 さらにピーターソンは「現代のジャズ・ピアニストという枠組みで捉えるならば、ジュニア・マンスこそが新たな方向性を示していると確信している。というのも彼のアイディアには一貫性と多様性があり、それが演奏にあたかも物語を語るような深みを与えているからだ。アルバム『ジュニア』を聴けば、彼が音楽を通じて語りかけるすべてのことに魅了されるはずだ。そして信じてほしい、この若き才能には、まだ語り尽くされていない豊かな可能性が秘められているということを」と述べている。マンスも尊敬おく能わざるピーターソンの称賛に、さぞや喜んだことだろう。いやはや、ピーターソンにここまで見事に語られてしまうと、もはやこれ以上補足することはないように思われるのだけれど、マンスのいちファンとして、ぼくなりにおさらいをさせてもらう。

 

 ジュニア・マンスというジャズ・ピアニストは、ピーターソンのコメントに従ってひとことで云い表わすと、トラディショナル・モダニストと呼ぶことができるのではなかろうか。まず彼のスタイルは、実験主義へのアンチテーゼと捉えることができる。アヴァンギャルドで難解になりつつあった当時のモダン・ジャズ・シーンにおいて、マンスのプレイは明快かつ新鮮、しかもこころが洗われるように爽やかだ。アルバム『ジュニア』の人気は概ねこの点にあると思われるのだけれど、本作ではわかりやすくて心地いいという、音楽鑑賞においてなにものにも代えがたい聴きやすさが、圧倒的なアドヴァンテージとなっている。個人的にも、本盤をターンテーブルに載せる機会がきわめて多いのは、そういう理由からだろう。

 

 そして、さらにつけ加えるべきマンスの魅力といえば、エモーションとスウィングとの両立である。彼の演奏では、ブルース・フィーリングに代表される強い感情が表現されながらも、ジャズの根底にあるスウィングという躍動感が是が非でも失われることがないのだ。しかもそのパフォーマンスには、ある種のドラマ性がある。感情の動き、あるいは平場と山場とのコントロール、そしてそれらに伴う展開の面白さは極上だ。マンスが繰り出すフレーズには一貫性と多様性があり、過言を恐れずに云うと、まるで音楽で物語を語っているかのようなところがある。ぼくはさきにマンスのことを、弾きまくらないひとと云った。本人が意識しているのかどうかは定かでないが、彼の演奏は無駄な部分をもたない、実に細部まで注意が行き届いたものなのである。

 

幼少期から抜きん出た才能を発揮し10歳からプロとして活動する

 

 これはときどき耳にすることなのだけれど、おそらくこの『ジュニア』におけるマンスのプレイがその後のアルバムでのそれと比較すると、いささか控えめに聴こえるからだろう、このパフォーマンスについて、初リーダー作での演奏であるが故に彼の本領はまだ発揮されていないという声がある。確かにジャズ・ミュージシャンの初リーダー作のなかには、レコード会社やプロデューサーの意向によって、本人が本当にやりたいプレイが制限されて制作されるものもあるのだろう。また、ミュージシャン自身の気負いから、安全運転になり過ぎたり、逆に手数が多くなり過ぎたりして本来の個性が埋もれてしまうケースもあると思われる。しかしながら、この『ジュニア』の場合は例外で、マンスのプレイは大人しいというよりは、細かいところまで入念に整っているのである。

 

 そういう意味では、やはり『ジュニア』をマンスの最高傑作と云いたくなってしまう。つまり本作は、第一線級のソウルフル・ピアニストの節度を保持した極上の語り口が遺憾なく発揮された、デビュー作にして貫禄のある名盤なのである。実際このアルバムは発売当初から、日本だけでなくアメリカ本国でも高い評価を得た。マンスはこのあとオリン・キープニュースとビル・グラウアーとによってリヴァーサイド・レコード傘下に創設されたばかりのレーベル、ジャズランド・レコードに移籍。セカンド・アルバム『ソウルフル・ピアノ』(1960年)を発表するが、タイトルどおりここでの彼は、ビターなブルース・フィーリングを十二分に発散しながら、それでもオーヴァーな表現をせずシンプルなフレーズを粛々と綴っている。実に快調である。

 

 このころのマンスはすでに、アメリカのジャズ・シーンではもちろんのこと、世間一般でも大きな期待を寄せられる存在となっていた。それもこれも彼が発表した『ジュニア』によって、一躍脚光を浴びたことによる。ちなみにマンスは1961年、ジャズ、ブルース、そしてジャズの範疇を超えたそれ以前の音楽を専門に扱うアメリカの音楽雑誌「ダウン・ビート」の国際批評家投票による新人ピアニストの第1位に選ばれている。これは日本のジャズ・ファンにとっては、ちょっと意外なことかもしれない。わが国では間違いなく、マンスよりもレッド・ガーランド、トミー・フラナガン、そしてレイ・ブライアントのほうがずっと人気があるからだ。もしこの拙文を読んでマンスのことが気になったら、ぜひ『ジュニア』以外のマンスのアルバムにも手を出していただきたい。

コントラバスを演奏する犬のぬいぐるみ

 むろん『ジュニア』はマスターピースと云えるのだが、くれぐれも、これだけ聴けば十分などとは思わないでいただきたい。彼は速いペースではないけれど、50年以上にもわたり高品質の作品を世に送り出してきたのである。なかにはハープシコードが採用された作品やフュージョン・アルバムもあるが、概してソウルフル・ジャズ・ピアニストのトップランナーとしての面目躍如たるプレイが披露されている。個人的によく聴いているのは、前述の『ソウルフル・ピアノ』をはじめ『ビッグ・チーフ』(1961年)『ハッピー・タイム』(1962年)といった、ジャズランド・レーベルのトリオ作品。ミシガン州デトロイトのマイナー・レーベル、チューバ・レコードからリリースされた『ザ・グッド・ライフ』(1967年)もまた、ポップなセンスが際立った、それでいてエレガントな魅力に溢れた佳作である。

 

 ジュニア・マンスは1928年10月10日、アメリカ、イリノイ州エヴァンストンに生まれた。本名はジュリアン・クリフォード・マンス・ジュニアというのだが、家族の間ではピアニストだった父親と区別するためにジュニアと呼ばれていた。そしてその愛称がそのまま、プロとしてのキャリアを通じて定着したのだった。マンスは5歳のとき、自宅にあったアップライト・ピアノで演奏をはじめた。父のジュリアンは、彼にストライド・ピアノやブギウギの弾きかたを教えていたが、マンスが10歳になると、シカゴでプロのピアニストとして演奏することを許可した。この出来事は、おなじアパートメントの上階に住むサックス奏者が、病気になったピアニストの代役を探していたことに端を発する。マンスは幼少期から、抜きん出た才能を発揮していたのである。

 

 そうはいっても母親のほうは、地元エヴァンストンにあるノースウェスタン大学で医学を学ぶよう、マンスに勧めた。しかしながら彼は結局、シカゴのルーズヴェルト大学へ通うことになった。しかもマンスは医学部進学課程の履修を強く勧められていたのにもかかわらず、最終的に音楽の授業に登録してしまった。ところが彼は、学部の方針でジャズが禁止されていることを知り、その年を終えることなく大学を退学してしまう。在学中の1947年、マンスはシカゴではじめてテナー奏者のジーン・アモンズと共演。彼は練習室でジャズを演奏しているところを見つかり停学処分を受けた1週間には、アモンズとともにニューヨークに赴き演奏活動を行った。そして1949年、マンスはテナー奏者兼クラリネット奏者のレスター・ヤングと出会うことになる。

 

 それはヤングがシカゴのコンゴ・ラウンジに、アモンズの演奏を聴きに訪れたときのこと。ヤングは、自己のバンドのピアニストを務めていたバド・パウエルがシカゴ行きの飛行機に乗り遅れたため、その代役を探していたのだが、マンスのプレイを気に入って彼をピンチヒッターとして起用したのである。その際ヤングは、マンスのことをアモンズのバンドの専属ピアニストではなく、単なる代役と思い込んでいたらしい。しかしながら、アモンズはちょうどスタン・ゲッツの後任としてウディ・ハーマン楽団への加入を打診されていたところだったので、喜んでマンスをヤングのもとへ送り出したのだという。マンスはその年、サヴォイ・レコードにおいてヤングとレコーディングを行い、翌年の1950年にはプレスティッジ・レコードにおけるアモンズとソニー・スティットとの共演盤のレコーディングにも参加した。

 

 これは余談だが、アモンズとスティットの共演といえば、ヴァーヴ・レコードからリリースされた『ボス・テナーズ』(1962年)がよく知られている。ところで、このアルバムはふたりの10年ぶりの再会セッションとして企画されたもので、このプロジェクトの原点となるのが、上記のプレスティッジ・レコードにおけるレコーディングなのだ。再会セッションに収録されているバトル・チューン「ブルース・アップ・アンド・ダウン」は、もともとプレスティッジの10インチ盤『バトル・オブ・ザ・サクセス』(1951年)のオープナーの再演である。この10インチ盤には、アモンズとスティット以外のクレジットが記載されていないが、マンスのプレイは全8曲のうち2曲で聴くことができる。残りの6曲でピアノを弾いているのは、スティットのバンドの当時のピアニスト、デューク・ジョーダンだ。

 

ジャズ・ファーストタイマーにも親しみやすいこと請け合いのアルバム

 

 それはさておき、アモンズ vs. スティットの『バトル・オブ・ザ・サクセス』がリリースされた1951年、マンスはアメリカ陸軍に徴兵された。基礎訓練を終えたあと朝鮮半島へ派遣される予定だったが、その2週間まえに当時、第36陸軍ダンス・バンドのリーダーを務めていたアルト奏者、キャノンボール・アダレイの尽力により、同バンドのメンバーとなる。その流れから彼は、ケンタッキー州のフォート・ノックス陸軍基地で、中隊の事務係を務めることになった。そして1953年、マンスは除隊すると、ときを移さずシカゴのジャズ・クラブ、ザ・ビー・ハイヴ・ラウンジで働きはじめる。イスラエル・クロスビー(b)、バディ・スミス(ds)とともに、同店のハウス・リズム・セクションを掌った。フロントプレイヤーのなかには、ビバップの父、アルト奏者のチャーリー・パーカーもいた。

 

 マンスはザ・ビー・ハイヴ・ラウンジで1年近くハウス・ピアニストを務めたが、1954年にパーカーの勧めでニューヨークへ移る。時をおかず、ブルースの女王の異名をとるジャズ・シンガー、ダイナ・ワシントンのバッキング・バンドで、アカンパニストとして活動を開始する。それまでバンドのピアニストは、あのウィントン・ケリーが務めていたのだが、彼が徴兵されたのを機にマンスがその後釜に座った。マンスはワシントンのアルバム『アフター・アワーズ・ウィズ・ミス “D”』(1954年)のレコーディングに参加したあと、2年間にわたり彼女とツアーを行い、その間にバンドのアレンジャーだったピアニスト、ジミー・ジョーンズから伴奏の技術を学んだりもしている。そして1956年には陸軍時代の恩人、キャノンボール・アダレイのグループに合流する。

 

 マンスはアダレイのアルバム『イン・ザ・ランド・オブ HI-FI ウィズ・キャノンボール・アダレイ』(1956年)のレコーディングに参加したあと、サム・ジョーンズ(b)、ジミー・コブ(ds)、ナット・アダレイ(cor)らとともに、キャノンボール・アダレイ・クインテットの正式メンバーとなる。ちなみにマンスとキャノンボール・アダレイは、エマーシー・レコードが展開した共通タイトルの企画シリーズにおけるワシントのアルバム『イン・ザ・ランド・オブ HI-FI』(1956年)のレコーディングにも、仲良く参加している。クインテット解散後のふたりといえば、アダレイは1957年にマイルス・デイヴィス・セクステットに、いっぽうマンスは1958年にディジー・ガレスピーのバンドにそれぞれ参加。奇しくもこのとき、マンスはまたもやウィントン・ケリーの後任だった。

ドラムスを叩く犬のぬいぐるみ

 マンスは、ガレスピーのリーダー作『ハヴ・トランペット・ウィル・エキサイト』(1959年)のレコーディングに参加する。ガレスピーのアルバムにしては珍しく積極的にジャズ・スタンダーズが採り上げられており、しかもそれらには彼なりの新しい解釈が施されている。クインテット(1曲のみカルロス “パタート” バルデスがコンガで加わる)での演奏だが、ガレスピーの切れ味の鋭いソロも然ることながら、マンスの弾けるようなスウィング感とスピード感が光る、アーシーでソウルフルなタッチが痛快。さらにレス・スパンのギター&フルートがフレッシュで、本作は胸のすくような好盤となっている。とにもかくにも、ここでのマンスのプレイは、そのキャリア初期を代表する圧倒的な名演と云っても過言ではないだろう。

 

 この『ハヴ・トランペット・ウィル・エキサイト』はヴァーヴ・レコードからリリースされたのだが、同レーベルの創設者でもあるプロデューサーのノーマン・グランツは、このセッションでのマンスのプレイにいたく感激した。そしてグランツは、即座にマンスのリーダー・アルバムを制作することを決意。ガレスピーのアルバムが吹き込まれた1959年2月からおよそ1か月半ののち、1959年4月9日ニューヨークにおいて、マンスの初リーダー作『ジュニア』のレコーディングが行われた。サイドにオスカー・ピーターソン・トリオのベーシスト、レイ・ブラウン、ガレスピー・バンドの僚友でもあるドラマー、レックス・ハンフリーズを迎えた、当時のマンスにとっては、これ以上ない最高峰のクオリティを備えたピアノ・トリオでの吹き込みとなった。

 

 いずれにしても、はじめてマンスの演奏を聴くのなら、まずはこの『ジュニア』を手にとるべきだろう。マンスのアルバムのなかでも特に本作はブルース・フィーリングとアーシーな魅力に溢れた、それでいて楚々たる佇まいが深みを感じさせる、ファンキー・ジャズの傑作だからだ。なによりも、小難しさや近寄りがたさがないのがいい。その点、ジャズ・ファーストタイマーにも親しみやすいこと請け合いである。オープニングを飾るベニー・グッドマン作の「ア・スムース・ワン」から、マンスの軽快で洗練されたスウィング感と滑らかなタッチに惹きつけられる。ソウルフルなイントロからリラクゼーションに富んだテーマへ移行。テンポはオリジナルとほとんど変わらないが、ブルージーなムードはこちらのほうが圧倒的だ。

 

 この曲、シンプルなリフがベースとなっているのにもかかわらず、最後までまったく飽きさせられることはない。それはひとえに、マンスのリスナーの気持ちを徐々に刺激し高めていくようなフレージングによるもの。かといって気負わないところが、いかにも彼らしい。つづく「ミス・ジャッキーズ・ディライト」は、デイヴ・ブルーベック・クァルテットのベーシストを長く務めた、ジーン・ライトの曲。マンスはこの曲をすでに、キャノンボール・アダレイのエマーシー盤『ソフィスティケーテッド・スウィング』(1957年)でプレイしている。そのせいかここでの彼は泰然自若で、明るく弾むようなリズム感をもってして、玉を転がすようにブルージーなフレーズを繰り出しつづける。ブラウンの強靭なベース・ワークも圧巻だ。

 

 テナー奏者、ベニー・ゴルソンの代表曲「ウィスパー・ノット」では、メランコリックでレイジーな曲調に、マンスの上品なブルース・フィーリングにマッチしている。マイナー調の曲でも彼の手にかかると、重苦しさがなくなるどころか、軽やかで爽やかにすら響く。つづくコール・ポーターの有名曲「ラヴ・フォー・セール」では、アルバム中もっとも速いテンポに乗って、マンスが軽妙に疾走する。ブロック・コードとシングル・トーンとを織り交ぜた展開が、なんともグルーヴィーだ。A面を締めくくるピーター・デ・ローズのバラード「ライラックス・イン・ザ・レイン」では一転して、マンスがほどよくブルージーに豊かなリリシズムを発揮する。B面トップのホーギー・カーマイケル作の「スモール・フライ」では、マンスのウィットに富んだタッチにこころがほぐれる。

 

 マンスの自作曲「ジュビレイション」では、彼のゴスペル・スピリッツが溢れるエクスプレッションが、ハッピーなファンキーネスを生み出している。ブラウンの巧妙なサポートもスタイリッシュな彩りを添えている。ディジー・ガレスピーの有名曲「バークス・ワークス」では、マンスのブルース・フィーリングが全開。ここでの彼は豪快にスウィングするが、アルバム中もっともエキサイティングな演奏となっている。トリオの一体感も素晴らしい。マンスのオリジナル「ブルース・フォー・ビヴァリー」では、スローテンポでの彼のダウンホームなブルース・プレイを、ひたすら堪能することができる。ブラウンのソロも秀逸だ。やはりマンスの自作曲である「ジュニアズ・チューン」では、マンスの軽妙洒脱なスタイルが顕著に現れる。コン・コンラッドの「ザ・コンチネンタル」の引用まで飛び出してくる。この曲のスッキリしたあと味が、アルバムに好印象を与えているようにも思われる。

 

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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