膨大な数のスタジオ・ワークをこなしたマルチ・インストゥルメンタリスト、ヴィクター・フェルドマンの柔軟な音楽性が見事にアライヴした一枚『ジ・アライヴァル・オブ・ヴィクター・フェルドマン』
Album : Victor Feldman / The Arrival Of Victor Feldman (1958)
Today’s Tune : Waltz
モダン・ジャズの帝王のセッションに参加したことがあるミュージシャン
みなさんは、ヴィクター・フェルドマン(1934年4月7日 – 1987年5月12日)というミュージシャンをご存知だろうか。もちろん知ってはいるけれど、その存在をすっかり忘れていたというひとが多いのではないだろうか。かく云うぼくも、たまたま手にしたレコードのクレジットに彼の名前を発見して「ああ、このアルバムにも参加していたのね」と、あらためてその稀有な存在感に軽い驚きを覚えたりすることがある。それも思いのほか、そういう機会がままあるのだ。そういうとき、フェルドマンが参加したレコーディングを挙げようとすると、汲めども尽きぬ泉のごとくキリがないことに気づく。それにもかかわらず、彼自身の存在感はというと、なぜか甚だ希薄だから不思議だ。腕が立つひとなのにね。
そんなフェルドマンは、モダン・ジャズの帝王のセッションに参加したこともある。云うまでもなく、帝王とはジャズ・トランペット奏者、マイルス・デイヴィスのこと。マイルスの『セヴン・ステップス・トゥ・ヘヴン』(1963年)において、フェルドマンのピアノ演奏を聴くことができる。ただ彼がマイルスと関わったのは、このとき限り。理由はわからないが、フェルドマンのほうが、帝王のバンド・メンバーになることを拒否したという噂もある。爽快感が横溢する「天国への七つの階段」の邦題で知られるタイトル・ナンバーはマイルスとフェルドマンの共作。モーダルな「ジョシュア」はフェルドマンのオリジナル。この2曲は 1960年代の帝王にとって、ライヴでの重要なレパートリーとなった。
それにしても興味深いのは、この2曲が実はお蔵入りになったということ。当初、この『セヴン・ステップス・トゥ・ヘヴン』のレコーディングでは、マイルス・デイヴィス(tp)、ジョージ・コールマン(ts)、ヴィクター・フェルドマン(p)、ロン・カーター(b)、フランク・バトラー(ds)といったメンバーで、7曲吹き込まれた。1963年の4月16日と17日、ハリウッドでのことである。でも、実際アルバムに採用されたのは3曲のみ。ハリー・ウォーレン&アル・デュービンによるスタンダード「サマー・ナイト」ドラマーのトニー・クロンビーとサクソフォニストのベニー・グリーンといった英国のジャズ・ミュージシャンによる共作「ソー・ニアー・ソー・ファー」とあわせて、フェルドマンが作曲に関わった2曲はボツとなった。
しかもマイルスは、不採用とした4曲のうち「セヴン・ステップス・トゥ・ヘヴン」「ジョシュア」「ソー・ニアー・ソー・ファー」といった3曲を、およそ1ヶ月後に録り直している。こちらは1963年5月14日、ニューヨークにおいて。そのときメンバーに加わったのは、ハービー・ハンコック(p)とトニー・ウィリアムズ(ds)。つまりこの吹き込みは、俗に云うセカンド・グレート・クインテットまでの道のりの第一段階だったわけだ。それにしても、ふたりとも若さが弾けているな。確かにハンコックのピアノ・プレイはイノヴェイティヴに響くし、ウィリアムズのドラミングもエッジが効いていて痛快。いずれにしてもこのセッションでは、それまでの帝王のアルバムにはなかったフレッシュなサウンドが展開されている。
結局、名盤『セヴン・ステップス・トゥ・ヘヴン』は、ハリウッドとニューヨークとのふたつのセッション(各3曲ずつ)でまとめられたわけだが、ハンコックとウィリアムズがシャープであるのに対しフェルドマンとバトラーはソフト。フェルドマンが参加した3曲は、落ち着いた感じのバラードやミディアム・スウィング。どの曲でもマイルスはミュートを使用し、いつになくリラックスしたプレイを聴かせている。ニューヨークの若手による演奏とのコントラストが、アルバムをとおして聴いたとき、最後まで飽きのこないものにしている。さすが帝王!なお、ボツになった4曲のうち「サマー・ナイト」は、なぜか『クワイエット・ナイト』(1963年)に収録。残りの「セヴン・ステップス・トゥ・ヘヴン」「ジョシュア」「ソー・ニアー・ソー・ファー」は、ボックス・セット『セヴン・ステップス』(2004年)で聴くことができる。
とにもかくにも、ぼくはこのマイルスのアルバムにおいて、ヴィクター・フェルドマンというミュージシャンをはじめて知った。彼は「セヴン・ステップス・トゥ・ヘヴン」「ジョシュア」という名曲を提供しておきながら、マイルスのもとからひっそりと去っていったわけだが、そんなことからしばらくの間、ぼくにとって彼は神秘のベールに包まれた存在となる。おそらく帝王の信奉者たちにとっても、マイルスにかかる人名録において、フェルドマンはとりわけ不思議な存在感を与えるひとなのではないだろうか。ずっとあとになってのことだが、ぼくも前述のボツになったテイクを聴いたとき、アルバムに収録されたものと比較するとテンポから全体の雰囲気までまったく異なるので、かなり驚いたもの。ひとことで云えば、とても鷹揚な演奏なのだ。
そのゆったりとしてこせこせしない、終始寛いだセッションは西海岸のジャズを象徴するもののようにも思えるが、同時にそれをそのままフェルドマンの魅力と、ぼくは捉えている。ひょっとすると、フェルドマンがマイルスによるレギュラー・メンバーへの勧誘を断ったのも、ストイックなまでに探究的な音楽を演りたくなかったからかもしれない。モダン・ジャズの帝王には、時代に応じて様々な音楽性をとり込みながらジャズ・シーンを牽引していくようなところがあったからね。フェルドマンにとっては、マイルスのツアー・ミュージシャンとしてキャリアアップすることよりも、燦々と陽光が降り注ぐ土地で、しかも安定したスタジオ・ワークのなかで悠然と音楽に興じることのほうが性に合っていたのだろう。実際彼は、マイルスの申し出を辞退したあと、幅広い音楽作品で活躍することになる。
スティーリー・ダンの作品で活躍したマルチ・インストゥルメンタリスト
それからというもの、ぼくはうかつにもフェルドマンのことをしばし打ち忘れていた。彼との再会は突然に、しかも予想だにしなかったレコードで果たされる。それは、ニューヨーク出身のロック・バンド、スティーリー・ダンのデビュー・アルバム『キャント・バイ・ア・スリル』(1972年)において。ぼくは、つい先日職場の女の子に好きなロック・バンドはと訊かれて、少しも逡巡することなくスティーリー・ダンと答えた。まあバンドといっても、実質ドナルド・フェイゲンとウォルター・ベッカーによるデュオみたいなものなのだけれど、とにかく大好きなのである。このバンドはレコーディングの際、レギュラー・メンバー以外に外部のスタジオ・ミュージシャンを積極的に起用する。それが原因でメンバー間に軋轢が生まれるのだけれど、アンサンブルのクオリティが高くなっているのもまた事実。
ところで、はじめて『キャント・バイ・ア・スリル』を入手したとき、ぼくはアディショナル・ミュージシャンのなかにヴィクター・フェルドマンの名前を発見した。そのときは、パーカショニストとしてクレジットされていた。それだけではない。実はフェルドマンは、7作目の『ガウチョ』(1980年)までスティーリー・ダンのすべてのスタジオ・アルバムに参加しているのだ。彼は作品によって、キーボード、ヴィブラフォン、マリンバ、パーカッションなど、複数の楽器を演奏している。どの楽器においても片手間仕事ではなく、確たるテクニックを披露している。ということで、ぼくがフェルドマンをマルチ・インストゥルメンタリストと認識したのも、スティーリー・ダンのアルバムを聴きはじめてからのことだった。
ただ、スティーリー・ダンの作品でのフェルドマンは、どちらかといえば簀の子の下の舞となるばかり。ぼくが、彼のマルチプルなプレイヤーとしての才能が遺憾なく発揮されるのをはじめて目の当たりにしたのは、日本でも堂々と発売された『ロスアンジェルス特急』(1976年)というレコードにおいて。西海岸の人気フュージョン・グループ、L.A.エクスプレスのサード・アルバムである。フェルドマンはこの作品で、キーボード、ヴィブラフォン、パーカッションをプレイしている。このグループ、もともとはウェスト・コースト・ジャズやフュージョンで功名を立てたサックス奏者、トム・スコットがフィーチュアされたバンドだった。当時、日本でもかなり評判が高かったと記憶する。でも、スコットは多忙を極めていたせいか、最初の2枚を吹き込んだらさっさとバンドから離れてしまう。
スコットの後釜に座ったのは、デヴィッド・ルエル。彼のことはよく知らないけれど、スコットと同様に各種のサックスをなかなかいい具合のファンキー・テイストで歌わせている。考えてみれば、このバンドのブルー・アイド・ソウルに通じるような、ファンキーでありながらソフィスティケーテッドでもあるリフレッシングなサウンドは、首尾一貫している。その点で、不動のメンバーであるマックス・ベネット(b)、ジョン・ゲラン(ds)のふたりが、実はグループの中心人物だったのかもしれない。フェルドマンはこのアルバムからの参加。彼のプレイは、ジョー・サンプル、ラリー・ナッシュといった歴代のキーボーディストよりはブルース・フィーリングが薄いけれど、トータル・サウンドにおいてはもっとも調和がとれていると、ぼくは思う。
フェルドマンは『ロスアンジェルス特急』において、演奏だけでなく「知らないそぶり」「西部の地平線」といった楽曲も提供している。特に後者は、ブラジルのフュージョン・グループ、アジムスの『涼風』(1977年)に収録されている「地平線上を飛ぶ」「たそがれ」といった名曲を彷彿させる清涼感に溢れた曲。偶然にも題名も似ているが、夏の夕涼みによく合う素敵なナンバーだ。それこそNHK-FM放送の『クロスオーバーイレブン』のテーマ曲として使われたとしても、しっくりくるであろう隠れた名曲と、ぼくは思う。機会があったら、ぜひ聴いていただきたいもの。なおフェルドマンは、L.A.エクスプレスにとっては4枚目にしてラスト・アルバムとなった『シャドウ・プレイ』(1976年)においても、ひきつづきプレイヤー、コンポーザーとして確たる存在感を示した。
その後のフェルドマンといえば、L.A.エクスプレスと関係の深いカナダのシンガーソングライター、ジョニ・ミッチェルをはじめ、グレッグ・オールマン・バンド、ドゥービー・ブラザーズ、ボズ・スキャッグス、ザ・ビーチ・ボーイズ、クリストファー・クロス、エルトン・ジョンなど、主にポップスやロックのレコーディングに参加。このころリリースされた、クレジットに彼の名前を発見することができるアルバムを挙げようとすると、まだまだ思いつくのだが、まことにキリがないのでやめておく。そういった数多くのサイドマンとしての仕事を経て、フェルドマンは1980年代には自己のバンド、L.A.スーパー・リズムで人気を博す。このバンド名、実は日本独自のネーミングで、アメリカ本国ではジェネレーション・バンドという。
このジェネレーション・バンドは、バンド名からもわかるようにもともとフェルドマンとその3人の息子によって結成された。ちなみにその息子たちといえば、ドラマーのトレヴァー、ベーシストでミキシング・エンジニアでもあるジェイク、マネジャーのジョッシュ。とはいうものの、レコーディングにおいて彼らはあまり目立っておらず、いずれの作品でもロサンゼルスの名うてのスタジオ・ミュージシャンたちのほうに感興をそそられるてしまう。そういう意味では、ビクター音楽産業(現在のビクターエンタテインメント)が名づけたL.A.スーパー・リズムというバンド名のほうが、結果的には名詮自性だったように思われる。しかもジャケットのデザインも、どのアルバムも日本盤のほうが瀟洒でいい。
天才でありながら生涯音楽に対して鷹揚に構えたアーティスト
L.A.スーパー・リズムのアルバムは、ぜんぶで6枚。アメリカ盤とはタイトルやリーダーの名義が異なるので、参考までに以下に簡単なレコード・リストを記載しておく(英語表記は米国盤のタイトル)。①『L.A.スーパー・リズム』(Victor Feldman『Secret Of The Andes』1982年)、②『L.A.スーパー・リズム・フィーチャリング・アーニー・ワッツ&トム・スコット』(Generation Band『Soft Shoulder』1983年)、③『チェイシン・サンボーン』(Generation Band『Call Of The Wild』1984年)、④『フィエスタ』(Victor Feldman『Fiesta』1984年)、⑤『ザ・ラスト』(Victor Feldman’s Generation Band『High Visibility』1985年)、⑥『スムース』(Victor Feldman’s Generation Band『Smooth』1986年)。なおアメリカでは、①と②はパロ・アルト・レコード、③から⑥まではTBAレコードからリリースされた。
それから間もなく、このヴァーサティリティに富んだ稀代の音楽家は1987年5月12日、心筋梗塞のためロサンゼルス、ウッドランド・ヒルズの自宅にて急逝する。53歳であった。一部では彼のことを、英国出身のピアニストとしてはジョージ・シアリング以来の才人、ヴィブラフォニストとしてはゲイリー・バートンと同等に称賛されるべき技巧家とも云われた。そう、あとになったが、フェルドマンはロンドンのエッジウェアに生まれている。彼は6歳でドラムスを、9歳でピアノを、14歳でヴィブラフォンをモノにするという、ローティーン時代からその天才ぶりを発揮した。10歳のときには、グレン・ミラーのアーミー・エアフォース・バンドに参加し、レジェンダリー・ドラマー、ジーン・クルーパになぞらえられて“クルーパ坊や”と紹介されたとのこと。
フェルドマンは、1955年10月にアメリカに移住し、ウディ・ハーマン(cl, ts, vo)やバディ・デフランコ(cl, bcl)のバンドで演奏した。その後もロサンゼルスに永住し、ハリウッドを中心に数多くのスタジオ・ワークをこなした。なお作曲やアレンジのメソッドについては、西海岸を代表するコンポーザー、アレンジャー、プロデューサー、そしてピアニストのマーティ・ペイチに師事した。いま思えば、ジャズにとどまらず、ポップス、ロックなど、幅広い音楽ジャンルで活躍したという点で、フェルドマンはペイチと似ている。とにかくその早世が惜しまれるし、当然のごとくリーダー作も少なめなわけだが、まったく遺憾でならない。ただ、フェルドマンの作品は水準を上回るものばかり。しかも彼の楽才と音楽に対する姿勢が、いつも変わることがないのが素晴らしい。
そのなかでおすすめのアルバムといえば、前述のフュージョン作品以外では以下のとおり。まずピアノ演奏に集中したければ、モンティ・バドウィッグ(b)、シェリー・マン(ds)を従えたトリオによる『トゥゲザー・アゲイン』(1978年)だろう。アップテンポからスロー・バラードまで、フェルドマンの鮮やかなピアニズムを堪能することができる。ヴィブラフォンの妙技を楽しむのなら『ヴィクター・フェルドマン・オン・ヴァイブス』(1957年)が、ジャケット同様なかみのほうも全体的にリラックスしたムードが横溢していていい。ライヴ盤なら『ユア・スマイル』(1973年)を推す。4ビート、ボサノヴァ、ジャズ・ロックと幅広く演奏しているが、セルフカヴァーの「セヴン・ステップス・トゥ・ヘヴン」が、とにかく楽しい仕様となっている。
そして決定盤とも云えるのは、やはり『ジ・アライヴァル・オブ・ヴィクター・フェルドマン』(1958年)だろう。サイドにスコット・ラファロ(b)、スタン・レヴィ(ds)を迎えてのトリオだが、本作でのフェルドマンはピアノとヴィブラフォンとをもち替えでプレイしている。早世の天才、ラファロの初期のプレイが聴けるということもあり、日本でも人気盤となっている。ジャケットもコミカルで楽しい。冒頭のマイルスの「蛇の歯」では、ヴァイブがビバップ・スタイルで駆け抜ける。この演奏を聴いただけで、フェルドマンが実は技巧派でもあることがわかる。つづく「ワルツ」は、フレデリック・ショパンの「ワルツ第9番 変イ長調作品69-1」がアレンジされたもの。構成の妙が際立つ。フェルドマンはピアノとヴァイブを交互に演奏。力強いベースのアタックにもしびれる。
フェルドマンの自作曲「チェイシング・シャドウズ」では、ピアノの快適な速弾きが魅力的。ブルージーなフレーズとソリッドな音色がクールだ。テッド・グルーヤのミュージカル・ナンバー「フラミンゴ」では、ヴァイブが愁いを帯びたチルアウト感覚を見事に表現している。この都会的なムードもまた、フェルドマンらしい。ポール・デニカーの「スポージン」では、4本のマレットが小粋に跳ねる。歌ごころいっぱいのベース・ソロの際、コンピングはピアノに替わる。後半ではディジー・ガレスピーの「ビバップ」がヤバイ。テンポが超高速。3人揃って飛翔するけれど、特にレヴィのドラムスがキャッチー。アイシャム・ジョーンズの「ノー・グレイター・ラヴ」では、ちょっとひと休み。なにせ、まえの曲がスゴすぎたから。ピアノもヴァイブもよくスウィングしていて寛げる。
さらにフェルドマンのオリジナル曲「トゥー・ブルー」でも、リラックスしたムードはつづく。シンプルなブルース・ナンバーで、流麗なフレーズを紡ぐヴァイブの音色が涼感を誘う。引用をうまく使ったラファロのソロの進行も、気が利いている。さらなるフェルドマンの自作曲「マイナー・ラメント」はタイトルどおり、メランコリックなバラード。映画音楽のように美しいこの曲において、フェルドマンはひたすらリリカルでピアニスティックなプレイを聴かせる。ラストはデューク・エリントンの「サテン・ドール」だが、イントロとインタールードはフェルドマンのオリジナル。プレイフルなテーマ部、ピアノとヴァイブとがもち替えられるアドリブ・パートが効果的。とてもスタイリッシュなアレンジだ。ということで本作は、天才でありながら生涯音楽に対して鷹揚に構えたフェルドマンの、柔軟な音楽性が見事にアライヴした一枚。本作とともに彼のことを、ぜひお忘れなく──。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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