日本サイドのプロジェクトによって実現されたデヴィッド・ベノワの名作『サマー』
Album : David Benoit / Summer (1986)
Today’s Tune : Stages
1986年の夏──当時の音楽とともにバブル時代を回顧する
最初にお詫びしておく。ゴメンナサイ。まことに恐縮ながら、はじめから本筋から外れたおはなしになる。ああ、いつものことか──。ときは1986年の夏。大学生のぼくは、そのまえの年からたゆまず、バンド活動に明け暮れていた。高校時代にジャズ・ピアノとアレンジを独学していたが、バンドではどちらかといえば、シティ・ポップに近いことをやっていた。レパートリーは、インストゥルメンタルもあったけれど、ヴォーカル曲が主体となっていた。当時のぼくは、ちょこざいなヤツで、ジャンルにとらわれないバンドをつくる──などという、まったく自分の分際をわきまえない理想を掲げていた。だからそれは、ぼくの長い人生において、なんでも取り込んでやれと、様々な音楽に関心を寄せていた時期ということになる。
バンドでは、フュージョン風のインストやソウル・ミュージックのカヴァーに加え、(女性シンガー用の)日本語の歌詞のオリジナル曲も演奏したので、キーボードと作編曲を務めていたぼくは、当時のアイドル・ソングでさえ真剣に研究していた。思い返せば、いわゆる“アイドル冬の時代”に突入する直前だったが、灯滅せんとして光を増すというコトバがあるように、音楽的には実に充実した作品がけっこうあった。たとえば、バンドのマネジメントやミキシング、それに作詞もしてくれた、アイドル通のSくんから借りた、新田恵利の『ERI』(1986年)というアルバムから、密かに影響を受けたりもした。主役の歌唱のほうはともかく(失礼!)、山川恵津子の曲作りのセンスには目を見張るものがあった。
ほかにも、原田知世の『撫子純情』(1984年)や、松本典子の『Straw Hat』(1985年)は特に好きで、何度も聴いた。僭越ながら、名盤として太鼓判を捺させていただく。それはともかく、当時の日本はバブル景気の時代にあり、音楽に関してもまさにバブルだった。たとえば、J-WAVEというFM放送局の登場は、まさに音楽におけるバブルの象徴だったように思われるし、音源内蔵のミュージック・シーケンサーや、FMアルゴリズムを使用したデジタル・キーボードがメジャーになったのも、ちょうどこのころの出来事だ。バブル時代に音楽は、お洒落なものであることが望まれると同時に、ぐっと手軽で身近なものになったのである。
また、俗に云う“第二次バンドブーム”のはじまりも、まさにこのころ。それまで、どちらかといえば内向的にジャズに取り組んでいたぼくが、アイドル・ソングの要素まで採り入れたバンドで活動したのも、実はジャンルにとらわれないという理想はタテマエで、ただ単に世の中の風潮に流されただけのことだったのかもしれない。いずれにしても、当時の音楽のトレンドといえば、ジャンルにおいては非常に幅が広かった。わるい云いかたをすれば、様々な音楽が無秩序に混在していた。もうゴチャゴチャのチャンポン、グシャグシャのごった煮なのだ。音楽雑誌「ADLIB」(2010年に休刊)では、1973年の創刊当初はジャズ/フュージョンの情報ばかりが取り扱われていたが、このころはAOR、ソウル、ニューエイジ、ワールドもマゼマゼされて、まさに五目炒飯状態。
もちろんぼくは、それを批判するつもりはなく、単純に幸せな時代だったと回顧しているのだ。多種多様の音楽を楽しむことができるばかりでなく、それが日常生活にまで溢れかえっていたのだから──。あのころの日本は、ホントよかった。その数年後に未曾有の不景気がやってくるなんて知る由もなく、ほとんどのひとがすっかり浮かれていた。いずれにしても1986年は、ぼくにとってとても思い出深い年となった。感慨に浸るような出来事はいくつもあるが、そのひとつにこんなことがあった。ある日、見るともなしに見ていたテレビから、聴き覚えのある曲が流れてきた。画面には当時の人気フリーアナウンサー、楠田枝里子が映っている──。
フュージョン・シーンに颯爽と現れたピアニストの新星?
それは、花王のヘアケア商品「エッセンシャル」のCMだった。問題はそのBGM──アコースティック・ピアノによって奏でられる、清涼感に溢れながらも、ちょっと愁いを含んだメロディ・ラインが印象的な「ステージズ」という曲。これは、この年にリリースされたばかりのデヴィッド・ベノワのアルバム『サマー』(1976年)に収録されているトラックだ。ベノワはいまでこそジャズ/フュージョンの大御所ピアニストとして知られているが、当時の日本では音楽界に颯爽と現れたピアニストの新星というような扱いをされた。本作は、彼の日本におけるデビュー作であると同時に、日本のキングレコード傘下のフュージョン系レーベル、エレクトリック・バードのプロジェクト作品だった。
まさかベノワの曲が、日本のテレビCMで使われるなんて思いもよらなかったので、ぼくはちょっとした衝撃を受けた。それは正確には、驚きを感じるというよりは、ある種の爽快感を覚えるような出来事だった。なにしろ、それまで輸入盤でしか聴けなかったベノワの音楽が、日本の企画で気軽に楽しめるようになったばかりでなく、ときを移さずCMソングとしてお茶の間に届けられたのだから──。やはり、時代だ。日本の音楽業界、それに消費者のキャパシティが甚大だったのだろう。あのころの大衆は、アイドル・ソングもフュージョンも分け隔てなく楽しんでいたように思う。そんな状況で、音楽産業は売り手市場で活況を呈し、リスナーが楽しむべき音楽作品も選り取り見取りだったのである。
日本のフュージョン・シーンにおいては、ザ・スクェアやカシオペアなどが商業的にもっとも成功していた時期で、インスト・バンドでありながら、彼らのアルバムは度々チャートの上位に顔を出していた。いま思い返すとかなり恥ずかしいのだが、タンクトップに短パンという出で立ちで、ノリノリで演奏しているその姿に、ぼくも当時はまったく違和感を感じなかった。繰り返すが、時代なのだね。彼らが奏でるサウンドも、このころにはジャズ色がすっかり薄くなり、ポップ・インストゥルメンタルといった趣きを呈していた。さらにおなじころ、日本のレコード会社は、イギリスのシャカタク、アイスランドのメゾフォルテ、オランダのフルーツケーキといった、アメリカ以外のフュージョン系バンドまで引っ張り出してきていた。
フュージョンではないがベノワの国内盤がリリースされるちょっとまえに、ブラジルのシンガーソングライター、イヴァン・リンスのアルバムが日本で発売されたことが、個人的にとても嬉しかった。それは『歌の仲間たち(原題=“Juntos”)』(1984年)という作品だが、販売元の日本フォノグラムがリンスに注目したのは、デイヴ・グルーシン&リー・リトナーのアルバム『ハーレクイン』(1985年)において、彼のヴォーカルがフィーチュアされて話題になったことに端を発するのは明らかだ。それまでリンスの日本での知名度は低かったが、ぼくはことあるごとに誰はばかることなく声を大にして、その音楽を高く評価していたもの。
ところでベノワのほうだが、彼もまたぼくにとっては、作品の日本国内発売を切望していたアーティストのひとり。当時の彼は、前述のように日本ではニューフェイスのような扱いをされたが、実はそのときの年齢は32歳で、すでに音楽家としてのキャリアをかなり積んでいた(13歳でピアノをはじめ18歳からプロとして仕事をしていた)。ぼくが彼の名前をはじめて知ったのも、それより10年くらいまえで、ウェザー・リポートの初代ドラマー、アルフォンス・ムザーンの4枚目のリーダー作『ザ・マン・インコグニート』(1976年)でのこと。ぼくがこのポップでダンサブルなブルーノート盤を手にしたのは、敬愛するデイヴ・グルーシンがお目当てだったから。そしてグルーシンとともに、曲によってアコピとエレピを仲良く交代しながら弾いていたのが、誰あろうベノワだったのである。
2023年の夏──いまもフレッシュなベノワ・サウンドを聴く
それでもベノワの名前は、しばらくの間ぼくの記憶の片隅に追いやられたままだった。それがにわかに蘇ったのは、ちょうどぼくがバンド活動をスタートさせた年のこと。彼の7枚目のリーダー作『ディス・サイド・アップ』(1985年)が輸入盤を扱うショップを賑わせ、ぼくもすかさず入手した。それから間もなく、収録曲の「ライナス・アンド・ルーシー」と「ビーチ・トレイル」がそれぞれ、ニッポン放送のラジオ番組『斉藤由貴 ネコの手も借りたい』のOPとEDで使用され、さらに本盤の人気に拍車がかかった。アメリカはテキサス州オースティンのマイナー・レーベル、スピンドルトップからリリースされたこのレコードは、モノクロームの地味なジャケットとはウラハラに、中身のほうはメジャー・レーベルの作品にまったく引けを取らない贅沢で華やかな出来栄えだった。
西海岸の名うてのミュージシャンにストリングスが加えられた豪華な編成も然ることながら、チャールズ・M・シュルツのアニメ『ピーナッツ』の音楽、ブレイク直前のダイアン・リーヴスをフィーチュアしたヴォーカル・ナンバー、ビル・エヴァンスのカヴァーなど、ベノワの音楽を形成するファクターが渾然一体となったサウンドスケープが、とにかく魅力的だった。それまでのフュージョンといえば、どちらかといえばジャジーでファンキーなサウンドが主流だったが、彼のアコースティック・ピアノを中心に据えた音の景観は、とにかく明るく透明感に溢れている。メロディ、ハーモニー、リズムと、どこをとっても難解なところがない。曲ごとに様々な変化を見せるが、常にメロディアスなテーマで、リスナーのこころを優しくさせるのである。
そのピアノのテクニックにおいても、フレージングやレンディションの選択に実に細やかな配慮がなされている。彼が敬愛するエヴァンスとスタイルこそ違うが、一音一音を丁寧に紡いでいくような真摯なスタンスには、同種のジャズ・スピリッツが感じられる。そんな確固たる実力に早くから注目していたのは、当時、青山にあったミュージック・カフェ「Paul’s Bar」のオーナーで、ベイクド・ポテト・レーベルのエグゼクティヴ・プロデューサーも務めたポール森田と、前述の「ADLIB」誌の編集長、松下佳男だった。ふたりがそれぞれ、エグゼクティヴ・プロデューサー、スーパーヴァイザーとして尽力し、完成させたアルバムがまさに『サマー』である。収録曲は、上記のふたりとエレクトリック・バードのプロデューサー、川島重行によって、ベノワの過去のアルバムからチョイスされた。
レコーディングでは、ボブ・フェルドマン(b)、トニー・モラレス(ds)、サム・ライニー(sax)といった、当時のベノワのグループのレギュラー・メンバーが中心となり『ディス・サイド・アップ』にも参加したロサンゼルス・モダン・ストリング・オーケストラがサポートを務めた。特筆すべきは、本作が2トラック・デジタル・レコーディングの方式で吹き込まれたということ。当然のことながら、ミキシングもオーヴァーダビングもないので、通常の録音よりも演奏にライヴ感が増している。そのせいか、今回は全曲、ロサンゼルスのマイナー・レーベル、AVIレコード時代のベノワの旧作のリメイクという体裁がとられているが、どの曲においてもオリジナルよりサウンドにエッジが効いている。慣れた曲ということもあり演奏は極めて安定しており、アレンジも細かい修正が施され完成度がぐんと上がっている。
曲目は──1st『ヘヴィアー・ザン・イエスタデイ』(1977年)から、DJ御用達の軽快なサンバ「ライフ・イズ・ライク・ア・サンバ」──2nd『キャン・ユー・イマジン』(1980年)から、哀愁が漂うメロディ・ラインが印象的なサンバ「オシアーナ」ゆったりした2拍子からアップテンポの4ビートへ移行する「キャン・ユー・イマジン」──3rd『ステージズ』(1982年)から、ショパンの曲をボサノヴァで演奏したような「サム・アザー・サンセット」ピアノが静謐で透明感のある空気を醸し出す「オスロ」MIDIピアノの両手のコンビネーションによるリフと3拍子のラテン・タッチのサビがグルーシンを彷彿させる「ハーモサ・スカイライン」壮麗なストリングスのイントロ、爽快な16ビート、小気味いいフェンダー・ローズのソロと、ひたすら清涼感に溢れた「ステージズ」リリシズムに富んだソロ・ピアノ「アイ・リメンバー・ビル・エヴァンス」──4th『ディジッツ』(1983年)から、ベノワのトレードマーク的な変拍子が印象的なバラード「レインボー」──と、全9曲、名曲揃いだ。
本作のあと、ベノワはグルーシンの誘いでGRPレコードに移籍、すぐに『フリーダム・アット・ミッドナイト』(1987年)を発表。あっという間にスターの座へ駆け上がった。まあ、ベノワの実力からすれば、世の中がどんな状況にあっても、早晩大スターになっていただろう。しかしながら──二度と帰らざる1986年の夏。すべてがすっかり舞い上がって、われを忘れていたとき。そして、誰もが無秩序に音楽を求めるような空気が、確かに存在したあのころ。そんな時代がもしなかったら、この『サマー』のようなアルバムが制作されることはなかったのではないだろうか──。ときは2023年の夏。いまもまったくフレッシュな本作を聴きながら、ついそんなことをしみじみと考えてしまった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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