Ivan Lins / Daquilo Que Eu Sei (1981年)

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リオデジャネイロが生んだブラジルの至宝、MPBを代表する世界的メロディメーカーであり、ジャズ/フュージョン・シーンの数多くのアーティストに多大な影響を与えたシンガーソングライター、イヴァン・リンスの1980年代の傑作『ダキーロ・キ・エウ・セイ』

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Ivan Lins / Daquilo Que Eu Sei (1981)

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ブラジルの音楽への興味──端緒を開いたのは妹が弾いていたエレクトーン

 

 ここのところ、日中ちょっと汗ばむような日がつづいている。その日差しの強さは、もう初夏の気配さえ感じさせる。そんなこともあり、ここのところブラジルの音楽を集中的に聴いていたりする。夏にはブラジルの音楽がよく似合う。精神的に暑さをクールダウンさせる、“涼”のイメージがあるからだ。たとえば1950年代末にリオデジャネイロで生まれたボサノヴァは、その静かで囁くようなヴォーカル・パフォーマンスと軽快なアコースティック・ギターによるリズムとによって、暑さで疲れた心身を癒やしてくれる。さらに穏やかに波間を揺蕩うような独特のハーモニーは、情緒的で洗練された雰囲気を醸成する。そこに生まれるサウダージという感覚は、その境界がはっきりしないのだが、懐かしさ、切なさ、愛おしさが入り混じったブラジルの音楽特有のもの。そして実は、その曖昧さが心地よさを作り出しているのである。

 

 そういうふうにぼくが感じるようになったのはわりと早い時期で、小学生高学年のころ。ぼくがジャズを長年愛好するようになるキッカケといえば、10歳以上年長の従兄の家でビル・エヴァンスのレコードを聴かせてもらったことだが、実はそれ以前にブラジルの音楽に興味をもちはじめていた。その端緒を開いたのは、ぼくより3つ下の妹がエレクトーンで弾いていた曲だった。念のために云っておくと、エレクトーンとは、楽器や音響機器の製造発売で知られるヤマハが開発した、(リズム機能も装備された)電子オルガンのこと。妹は幼少期からヤマハ音楽教室に通い、エレクトーンのレッスンを受けていた。彼女はぼくがピアノをはじめるまえから、鍵盤、ベース・ラインを奏でる足鍵盤、それにエクスプレッション・ペダルを流暢に操っていたのである。

 

 妹の演奏能力はぼくのそれよりもずっと優れていて、彼女は高校に進学するとあっけなくヤマハの指導グレードを取得してしまった。演奏が上手いことにもいささか嫉妬心を抱いたけれど、それよりもぼくはそのレパートリーに羨望の眼差しを向けていた。エレクトーンはもともとソロ・パフォーマンス用の楽器だから、1台でバンドやオーケストラのような演奏をすることが可能。したがってプレイヤーが採り上げる楽曲においては、クラシック、イージーリスニング、映画音楽などはもちろんのこと、ポップス、ロック、ジャズ、ラテンなど、その音楽ジャンルは多岐にわたる。クラシック・ピアノのレッスンを受けていたぼくが、ポピュラー・ピアノも弾くようになったのは、それらの楽曲に感化されたからだ。そんななか、妹のレパートリーでことにぼくの琴線に触れたのがボサノヴァ・チューンだった。

 

 妹がよく弾いていた曲で、ぼくのこころを奪ったのは「イパネマの娘」「おいしい水」「想いあふれて」といった曲で、どれも作曲をアントニオ・カルロス・ジョビン、作詞をヴィニシウス・ジ・モライスが手がけたものだった。ブラジルの音楽といえば、ぼくは1970年の大阪万博におけるセルジオ・メンデスの演奏において、すでに体験済みだったのだけれど、その特有の味わいに強く惹かれたのはジョビンの曲を聴いたときが最初だったと思う。もちろんそのときのぼくは、ジョビンの音楽がボサノヴァというもので、ショーロ、サンバ、ノルデスチとともにブラジルの音楽のひとつであるなどとは、まだ知る由もなかった。ただ、その簡素で美麗なメロディック・ラインと心地いいテンション・コードとに、ぼくの感性がいたく刺激されたことはハッキリ覚えている。

 

 それを機にぼくは、すっかりブラジルの音楽のとりこになった。その影響力は、計り知れない。そんな自分を年代別に俯瞰すると、1960年代のアントニオ・カルロス・ジョビン、1970年代のミルトン・ナシメント、1980年代のイヴァン・リンスからは、特に刺激を受けたと云える。これは余談だが、高校の音楽の授業で作曲の課題が出されたとき、先生がぼくの書いた曲について「君の曲はフランス印象音楽みたいだね」と感想を述べた。でも、実際はそうではない。あれは完全にジョビンだった。バンドを組んでいたときも、サビで転調したりするとメンバーから、ジョビンの曲に似ていると指摘され気恥ずかしくなることがあった。ただぼくはジョビンの音楽に関しては、ジャズの場合とは異なり一度も研究したことがない。彼の音楽は、ぼくのなかにいつの間にか染みわたっていたのである。

 

 というのも、小学校高学年のころから中学校を卒業するまでの間にぼくは、1960年代にヴァーヴ、CTIといったレーベルからリリースされたジョビンのボサノヴァ作品に、すっかり馴染んでいたからである。また、中学時代にはすでにジャズやフュージョンを聴くようになっていたが、サクソフォニストであるウェイン・ショーターのアルバム『ネイティヴ・ダンサー』(1975年)でフィーチュアされたことから、ミルトン・ナシメントに注目するようになった。ナシメントはMPBの代表的なシンガーソングライターだが、このアルバムにおけるショーターとナシメントとのコラボレーションが生み出す、2種類の芳醇なミュージカリティがよくブレンドされた上質な音楽に、ぼくはこころを揺さぶられた。個人的には、はじめてのMPB体験だったと思うけれど、いまもことあるごとに手にとる愛聴盤となっている。

 

 ちなみに、MPBとはポルトガル語のムジカ・ポプラール・ブラジレイラの略で、ブラジリアン・ポピュラー・ミュージックという意味。MPBは、1960年代後半に起こったブラジルの温故知新的な芸術運動である、トロピカリズモが発祥とされているけれど、むろん当時はそんな出来事はおろかその名称すら知る由もなかった。それはともかく、ぼくはショーターのアルバムを体験したすぐあと、偶然にもふたたびナシメントがフィーチャリング・アーティストとして迎えられた作品に出会う。それは、キーボーディストであるジョージ・デュークの『ブラジリアン・ラヴ・アフェア』(1980年)というアルバム。ブラジル原産の素材がデューク流に味つけされ、ワン・アンド・オンリーなブラジリアン・サウンドが創出されたフュージョンの名盤である。

 

 このアルバムに収録されている、タンボーリス・ジ・ミナスのリズムが活かされた「クラヴォ・イ・カネーラ」やラテン・エッセンス溢れるフォルクローレ調の「アオ・キ・ヴァイ・ナセール」といったナシメントの自作曲では、彼のヴォーカルがまさに独擅場でその存在感の大きさと影響力の強さを、あらためて感じさせられる。この2曲の原曲は、ナシメントとやはりシンガーソングライターのロー・ボルジェスとのコラボレーション・アルバム『街角クラブ~クルービ・ダ・エスキーナ』(1972年)で聴くことができる。ブラジルの南東部に位置するミナス・ジェライス州出身のふたりによる、ローカル・フレーヴァーが香るいわゆるミナス・サウンドが全開したこのアルバムを聴いて、ぼくはその豊かな音楽性にいたく感銘を受けた。云うまでもなく、本作もまた愛聴盤である。

 

 ふたりの少年が写った写真がジャケットにあしらわれた2枚組のレコード『街角クラブ~クルービ・ダ・エスキーナ』は、ブラジル音楽を語る上で絶対に外せないアルバムだし、実際あらゆるジャンルの音楽家に影響を与えた作品だ。いささか余談になるが、名曲「クラヴォ・イ・カネーラ」は、リー・リトナーデイヴ・グルーシンのコラボレーション・アルバム『ブラジル』(2024年)で採り上げられたことが記憶に新しい。ギタリストのリトナー、キーボーディストのグルーシン、どちらもぼくの敬愛する音楽家だが、もはやレジェンダリー・ミュージシャンと呼ぶべき存在であり、アルバムが発表された2024年当時、それぞれ72歳と90歳という高齢だった。それにもかかわらずふたりは、ブラジルのミュージシャンが紡ぐ清涼感に溢れるリズムに乗って、ジャズのエッセンスを感じさせる洗練されたプレイを展開している。

 

ブラジルの音楽において、もっともこころを打たれたのはリンスの曲

 

 このアルバムの冒頭を飾っているのが「クラヴォ・イ・カネーラ」なのだが、リトナーとグルーシンとによるヴァージョンは、ほぼ原曲どおりのアレンジで進行する。リトナーのエレクトリック・ギターがシングル・トーンでシンプルにテーマとサビを提示したあと、そのクリスタル・ヴォイスが話題となったサンパウロの新進女性シンガー、タチアナ・パーハのヴォーカルが入ってくる。彼女の抑えめのパフォーマンスが、アンサンブルに溶け込む。グルーシンのアコースティック・ピアノ、リトナーのギター、そしていまは亡きトゥーツ・シールマンスの後継者と目されるスイス出身のジャズ・ハーモニシスト、グレゴア・マレのハーモニカがソロをとるが、平明で落ち着いた感じのアドリブ・プレイに、熟成香が漂う。機会があったら、ぜひ聴いていただきたい。

 

 実はナシメント自身も「クラヴォ・イ・カネーラ」をソロ名義の『ミルトン』(1976年)というアルバムでセルフカヴァーしているのだが、こちらではジャズ・ピアニストのハービー・ハンコックがピアノを弾いている。なにを隠そう、このアルバムにはウェイン・ショーターも参加していて、ナシメント、ハンコック、ショーターといった3人の共演という共通性において本作は、前述の『ネイティヴ・ダンサー』と関係が深い。ちなみに、あとになったが「クラヴォ・イ・カネーラ」の原曲を収録した『街角クラブ~クルービ・ダ・エスキーナ』のタイトルとなっている“クルービ・ダ・エスキーナ”とは、ミナス・ジェライス州のベロ・オリゾンチ市に集うミュージシャンたちの呼び名である。トニーニョ・オルタフラヴィオ・ヴェントゥリーニヴァグネル・チゾらもその一員である。

 

 ハナシが前後するが、リトナーとグルーシンの『ブラジル』では、ナシメントの自作曲「カタヴェント」もカヴァーされている。曲名はポルトガル語で、“風車”を意味する。ナシメントのデビュー・アルバム『トラヴェシーア』(1967年)や、彼がCTIレコードに吹き込んだ『太陽の歌』(1969年)などに収録されている。リトナーとグルーシンは、原曲の鷹揚な律動をストレートに際立たせている。グルーシンはアコースティック・ピアノでゆったりと玉を転がすように鍵盤を動かしているが、ブラジルの音楽特有の爽快感と清涼感を手堅く引き立てている。いずれにしても、リトナーとグルーシンが過去の作品において、ここまでブラジルに寄り添ったことはなかったかもしれない。変な云いまわしかもしれないが、本作におけるふたりのブラジルの音楽に対する斟酌の仕かたが、実に思慮深いのである。

 

 というのも、グルーシンはこの「カタヴェント」という曲を、自己のソロ名義のアルバム『ジェントル・サウンド』(1978年)ですでにカヴァーしている。ところが、そちらのヴァージョンは、おなじサンバでもリズムがタイトになっている。スティーヴ・ガッドの軽快なドラミング、フランシスコ・センテーノのフレキシブルなベース、そしてグルーシンの小気味いいフェンダー・ローズと、とにかくソフィスティケーテッドな印象を与える。もっとも軽妙なのは、デイヴ・ヴァレンティンのフルートによるグロウル奏法。彼はグルーシンがプロデュースを手がけた、ジャズ・ヴァイオリニスト、ノエル・ポインターの『ファンタジア』(1977年)でレコーディング・デビューを果たしたばかりだったが、のちにGRPレコードの看板ミュージシャンとなる。そういう点でもこのトラックは、ブラジル志向よりもコンテンポラリー・ジャズ色が強い。

 

 長々とナシメントについて語ってしまったが、さきに触れたジョビンもそうだが彼もまた、ジャズやフュージョンの飛躍に大きな影響を与えたブラジルの音楽家と云える。というか、概してブラジルの音楽は、このジャンルとは切り離せないものと云っても過言ではないだろう。実のところブラジルの国内経済が立ち遅れていた時代から、音楽の分野に関しては世界的な注目を集めていたのである。そして日本でも1960年代のボサノヴァ・ブームの到来、1970年代から1980年代にかけてのブラジリアン・フュージョンの流行、1990年代以降の渋谷系サウンドとの連動による再評価といった具合に、ブラジルの音楽の受容は常に盛んだ。ことに渋谷系のムーヴメントから、日本ではブラジル本国でもなかなか入手困難な音源が多数発売された。よく日本を訪れたブラジルのミュージシャンが、日本盤CDを大人買いしていくのだという。

 

 さて、末尾にはなったが、以下はイヴァン・リンスについて集中的ご紹介する。ブラジルの音楽において、ぼくがもっともこころを打たれたのは、実は彼の曲なのである。リンスの音楽との出会いは、ちょうど高校に進学する直前のことだったと記憶する。キッカケは、ギタリストのジョージ・ベンソンがヴォーカリストとしての側面を前面に押し出したアルバム『ギヴ・ミー・ザ・ナイト』(1980年)だった。リンスのことを知ったのは、このアルバムに収録されている「喝采」と「ラヴ・ダンス」という曲のソングライターとして、彼のクレジットを見つけたとき。それまでぼくは、リンスのことをまったく知らなかったのだが、この2曲を聴いて彼のことが気になりはじめた。特に「ラヴ・ダンス」の独特のコード進行に、強く惹きつけられた。

 

 このアルバムのプロデュースを務めたのは、グラミー賞をはじめとする音楽賞を多数受賞するクインシー・ジョーンズ。彼はこのころ、マイケル・ジャクソンの『オフ・ザ・ウォール』(1979年)、ルーファス&チャカの『マスタージャム』(1979年)、ザ・ブラザーズ・ジョンソンの『ライト・アップ・ザ・ナイト』(1980年)など、次々にヒット・アルバムを世に送り出していたが、ベンソンのアルバムも含めたこれらの作品において、ソングライター兼アレンジャーとしてイングランド、リンカンシャー出身のキーボーディスト、ロッド・テンパートンを起用している。もともと彼は多国籍バンド、ヒートウェイヴのメンバーとしてファンク、R&B、ソウルといった音楽を展開していたが、当時のジョーンズ作品の特徴とも云えるポップなディスコ・サウンドにおいて、大きな功績を上げた。

 

 テンパートンは、その後もクインシー・ジョーンズの『愛のコリーダ』(1981年)、ジョーンズがプロデュースを手がけたR&B系シンガー、パティ・オースティンの『デイライトの香り』(1981年)に参加している。彼の書くソウルフルかつソフィスティケーテッドな楽曲は相変わらずスタイリッシュなのだけれど、ぼくにとってはイヴァン・リンスのペンによる浮遊感のあるコード進行が際立ったナンバーのほうが、ずっと魅力的に感じられた。具体的には、前者に収録されている「ヴェラス」と後者のラストを飾る「白い波」という曲だ。ただ、この2曲に触れたときのぼくといえば、浅学菲才の身でお恥ずかしい限りなのだが、リンスがMPBの人気シンガーソングライターであるとはつゆ知らず、彼のことをラテン系アメリカ人の作曲家と勘違いしていた。

 

 まあ、釈明するようで恐縮だが、そのころのリンスといえば、日本ではまったく無名の存在だったのである。ぼくがリンスのことをブラジルのシンガーソングライターであると認識したのはそれよりちょっとあとのことで、ブラジルの女性シンガー、エリス・レジーナの『エラ 1971年』(1971年)に収録されている「マダレーナ」や、女性ジャズ・シンガー、サラ・ヴォーンの『コパカバーナ』(1979年)のなかの「スマイリング・アワー」を聴いたときのこと。その後、セルジオ・メンデスが『愛をもう一度』(1983年)で「ヴー・ドゥー」を採り上げたときは、わが国の音楽ファンの間でもリンスのことが取り沙汰されるようになっていた。ぼくがリンスのアルバムを求めて、ブラジルの輸入盤を取り扱うレコード店を何件も渡り歩くようになったのはこのころだ。

 

愛聴盤はリンスのもっとも勢いがあったころの4枚のアルバム

 

 ちなみに、さきに挙げたベンソンの「喝采」と「ラヴ・ダンス」の原曲は、それぞれ「ジノラー・ジノラー」「レンブランサ」という。さらに「ヴェラス」は「ヴェラス・イサーダス」「白い波」は「コメサール・ジ・ノーヴォ」「スマイリング・アワー」は「アブリ・アラス」「ヴー・ドゥー」は「クエーロ・ジ・ヴォウタ・オ・メウ・パンデイロ」という原題である。どれもリンスの代表曲と云っていい。むろん原曲は、リオデジャネイロ出身のリンス自身によって歌われているのだから、歌詞はポルトガル語で書かれている。当時高校生だったぼくは、歌詞の内容を理解する言語スキルをもち合わせていなかったけれど、それでも高度なジャズ・ハーモニーを孕んだ洗練されたアダルト・オリエンテッドな音楽として、深く寄り添うように熱心に聴いていた。

 

 あとでぼくは、ソフィスティケーテッドでアーバンなブラジリアン・サウンドと、こころもちアーシーな香りを放つヴォーカル・パフォーマンスが交錯するリンスの楽曲の歌詞の内容を知って、それがハーモニーやメロディック・ラインから想像していたものとまったく違っていたので愕然としたものである。当時リンスの曲の作詞を一手に担っていたのはヴィトール・マルティンスで、彼はさきに挙げた「マダレーナ」や「クエーロ・ジ・ヴォウタ・オ・メウ・パンデイロ」の作詞を手がけたMPBではお馴染みのロナウド・モンテイロ・ジ・ソウザに次いで、1970年代初頭からリンスのよきパートナーとなった。この名コンビはソングライティングに止まらず、1991年にブラジルのレコード・レーベル、ヴェラス・プロドゥソンイスを設立したりもしている。

 

 ところで、マルティンスの書いた歌詞だが、実は社会的なメッセージを発信するものだった。ブラジルは1964年からおよそ20年間、軍事政権の支配下に置かれていた。さらに1970年代からはじまった経済の悪化は止まるところを知らず、インフレが進み失業者が急増した。そんな状況下で多くのMPBのアーティストたちが軍部の検閲によって表現の自由を制限されていたのだが、実のところマルティンスは、作詞において比喩表現を多用し検閲を巧みにすり抜けていた。つまりマルティンスの最大の理解者であるリンスは、優れたメロディメーカーかつサウンド・クリエイターであると同時に、社会派のアーティストでもあり、云ってみればブラジル国民の声なき声の代弁者だったのである。そういう背景に注目すると、彼の音楽がより味わい深いものと感じられる。

 

 ときに、ぼくが高校時代にショップ行脚の末、手に入れたリンスのレコードといえば、奇しくも彼のもっとも勢いがあったころのアルバムばかりだった。個人的には、当時はリンスの音楽を深掘りするための格好の材料でもあったし、いまもことあるごとにターンテーブルに載せる愛聴盤となっている。ついでに云うと、前述のジョビンとナシメントの音楽がぼくのなかにいつの間にか染みわたっていたのに対し、リンスのそれは能動的に自分の音楽性に採り入れたものだった。特にEMIレコード時代の『ある夜』(1979年)『ノーヴォ・テンポ』(1980年)、フィリップス・レコード移籍後の『ダキーロ・キ・エウ・セイ』(1981年)『デポイス・ドス・テンポライス』(1983年)といった4枚は、決して上質とは云い難いブラジル産の音盤がそれこそ擦り切れるほど、ぼくが聴き込んだアルバムである。

 

 なおリンスは、上記のアルバムにつづいて多数の豪華ゲストを迎えたセルフカヴァー集『ジュントス(歌の仲間たち)』(1984年)を発表したあと、デイヴ・グルーシンリー・リトナーによってロサンゼルスに招聘され、彼らのコラボレーション・アルバム『ハーレクイン』(1985年)のレコーディングに参加。既存の自作曲をポルトガル語で歌った。この出来事によって、リンスの日本での知名度は一気に上がった。そのときに採り上げられたのは『ある夜』収録の「アンチス・キ・セージャ・タルジ」『ノーヴォ・テンポ』収録の「アルレキン・デスコニェッシード」そして『デポイス・ドス・テンポライス』収録の「デポイス・ドス・テンポライス」といった3曲。各々「ビフォア・イッツ・トゥー・レイト」「ハーレクイン」「ビヨンド・ザ・ストーム」という英題が付された。

 

 おわかりのとおり『ハーレクイン』では『ダキーロ・キ・エウ・セイ』からは選曲されていない。これは推測の域を出ないが、このアルバムの楽曲のうち「レンブランサ」は前述のとおりジョージ・ベンソンが、そして「アモール」をバイーア州サルヴァドール出身の女性シンガー、シモーネが『個人生活』(1982年)というアルバムですでにカヴァーしていたからだろう。実はこの『ダキーロ・キ・エウ・セイ』は、上記の4枚のうちもっとも明るく爽やかな印象を与える。それこそ精神的に暑さをクールダウンさせる、“涼”のイメージがあるので、この季節にお薦めの1枚だ。残念ながら、なぜか日本ではいまだに発売されていない(ブラジルでは2002年にCD化済み)。せっかくの機会なので、最後にこのアルバムの詳細について触れておく。

 

 収録曲はすべて、リンスとマルティンスとの共作。プロデュースとアレンジは、リンスの作品ではお馴染みのキーボーディスト、ジウソン・ペランゼッタが手がけている。彼のアレンジはブラジリアン・テイストをキープしながらも、コンテンポラリー・ジャズ調。リンスの書く洗練された楽曲に、よく合っている。レコーディング・メンバーは、イヴァン・リンス(vo, key, g)、ジウソン・ペランゼッタ(key, acc)、オクタヴィオ・ブルニエール(g)、アルトゥール・マイア(b)、パウリーニョ・ヴィエイラ(ds)、ジョアン・ゴメス(perc)、ヘナート・フランコ(as, fl)、ギリェルミ・ブリシオ(as)、ヒカルド・ポンチス(sax)、マルシオ・コルテス(mand)、ルシーニャ・リンス(vo, acc)など。さらにノゼス・エ・ヴォゼスというヴォーカル・グループ、そしてストリングスが加わる。

 

 アルバムのトップを飾る「ダキーロ・キ・エウ・セイ」は、さきに挙げた『ジュントス(歌の仲間たち)』においてパティ・オースティンが英詞を付して歌った「私を信じて」として知られる曲。アコーディオンの音色が潮風の香りを放つ、爽やかなナンバーだ。つづく「ルア・シランデイラ」は、ブラジル北東部の民俗舞踊シランダが採り入れられた陽気な曲。とはいえ、“月ははだれのものでもあってはならない”という歌詞が意味深。マンドリンが効果的に使われた「アヴェ」は、雄大に空を飛ぶ鳥の様子が描かれた、壮大なナンバー。前述の「レンブランサ」は、いかにもリンスらしい独特のコード進行が美しいバラード。ペランゼッタのローズによるバッキングが軽妙だ。A面最後の「ブラス・ジ・ピーナ」では、勇壮なスキャットのあとペランゼッタのピアノがジャジーなソロを展開。実に晴れ晴れとした気持ちにさせられる曲だ。

 

 B面の最初は「アモール」で、ゆったりした2拍子の曲。転調も効果的だが、とにかくリンスの当時の奥さま、ルシーニャとのデュエットが微笑ましい。おなじようなテンポの「ダ・リセンサ」では、ロマンティックでハートウォーミングなヴォーカルを堪能するのみ。都会的かつ野性的なフィーリングは、リンスならでは。個人的にもっとも好きな「クエン・ミ・デラ」は、サウダージ感覚とファンキーなフュージョン・サウンドが交錯する名曲。この曲こそ、グルーシン&リトナー向き。リンスは『アモラジオ』(2012年)で、セルフカヴァーしている。さらに、リッチなコードワークがメロウな世界を演出する「カナヴィアウ」柔らかなシンコペーションと無重力感溢れるハーモニーが、なんとも心地いい「オ・パーノ・ジ・フンド」とつづき、アルバムは幕を閉じる。あたかもこころが洗われるような、深い余韻を残す名盤である。

 

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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