名曲「ムーン・リヴァー」を生んだ、オードリー・ヘプバーン主演のロマンティック・コメディの名作映画『ティファニーで朝食を』のヘンリー・マンシーニによるスタイリッシュなリレコーデッド・スコア盤
Henry Mancini / Breakfast At Tiffany’s – Music From The Motion Picture Score (1961)
Today’s Tune : Breakfast At Tiffany’s
原作は20世紀アメリカ文学界を代表するトルーマン・カポーティの小説
ぼくには、あまりにも有名過ぎてご紹介するのに気恥ずかしくなるようなレコードが、何枚かある。理由はいたって単純で、多くのひとによって聴かれ、そして語られた音楽作品について、いまさらぼくが駄弁を弄しても、だれのためにもならないと思われるからだ。それでも最近なんとはなしに、この映画『ティファニーで朝食を』のオリジナル・サウンドトラック・アルバム(厳密にはサントラ盤ではない)を聴いていたら、万感胸に迫るものがあったものだから、思いつくままに筆を走らせてみることにした。むろんこのレコードが、ぼくにとって長年の愛聴盤であり、擦り切れるほど聴いた1枚であることをあらかじめ申し上げておく。でも実のところこのレコード、擦り切れるようなことはまったくなく、いまもなかなかいい音がするから不思議だ。
ぼくが所有するLPレコードは、1974年にビクター音楽産業(現在のビクターエンタテインメント)が発売した日本盤。購入したのは発売から数年後のことで、ぼくが小学校6年生のときである。アルバムのタスキには、かつて集英社が刊行していた映画雑誌「ロードショー」の第12回推薦サントラ盤と記されていた。本盤は、すでに映画の本邦公開にあわせて1961年に発売されていた国内盤がリイシューされたレコード。演奏はヘンリー・マンシーニ楽団とコーラスと表記されているが、収録曲はすべて、ヘンリー・マンシーニの指揮のもとハリウッド・スタジオ・シンフォニーがフィルムスコアリング形式で演奏したアンダースコアを、マンシーニ本人がリアレンジおよびレコーディングしたもの。つまり、サウンドトラックではなくレコード用のオリジナル音源なのである。
マンシーニは、フィルム・ヴァージョンとは別に、商品化のためのフルレングス・ヴァージョンをレコーディングすることで有名。映像から離れても鑑賞するに足る音楽をリスナーに提供するという、映画音楽の名匠のこだわりである。ちなみに2013年、カリフォルニア、オークランドに拠点を構える映画やテレビドラマのサウンドトラック専門の老舗CDレーベル、イントラーダ・レコードが、映画本編で使用されたオリジナルの演奏による完全版スコア・アルバムをリリースしている。このCD盤は、映画で主役のホリー・ゴライトリーを演じたオードリー・ヘプバーン自身のギターによる弾き語り音源が、サウンドトラック・アルバムとしてはじめて収録されたことで大きな話題となった。また軽快なレコード音源とは異なり、重厚感のあるオーケストラ・サウンドが印象的なフィルム音源に、驚かれた向きも多いだろう。

さて、あとになったが、映画『ティファニーで朝食を』は、ブレイク・エドワーズ監督、オードリー・ヘプバーンとジョージ・ペパード主演によるロマンティック・コメディ。ヘプバーンにとっては間違いなく代表作のひとつであるが、ぼくとしてはむしろ、物語の主人公ホリーがヘプバーンを代表する役という云いかたをしたい。原作は、繊細で美しい文体と緻密な構成で20世紀アメリカ文学界を代表する、華麗さと陰りをもった天才小説家、トルーマン・カポーティによる1958年発表の同名小説。ぼくは大学でアメリカ文学を専攻していたので、もちろんこの小説を読んでいるし、カポーティの自伝的小説『遠い声 遠い部屋』(1948年)やノンフィクション・ノヴェル『冷血』(1966年)は、好きな作品だ。そして、カポーティが生んだ奔放な魅力と強い孤独を抱えた女性、ホリーも好きなキャラクターである。
ホリーは、郵便受けの表札に「旅行中」と書き、名前も過去も変えて生きる根無し草のような存在。ニューヨークの社交界で、裕福な男性たちの求愛を巧みにあしらいながら、お洒落をして気ままに渡り歩いている。しかしながらその華やかな姿の裏では、幼い頃の貧しい身寄りのない経験、愛する弟の死による深い孤独と不安を抱えている。また、形式ばった偽善や世間の見栄を鋭く見抜くいっぽうで、どこか優しさも併せもつ。物語の語り手同様、ぼくも小説を読みすすめるうちに、彼女のミステリアスなプロフィールと奇妙なライフスタイルにすっかり魅了されたものである。ただしこの小説を読むかぎりでは、定職につかず、金もちの男性たちと交際することで生活するという、ホリーの女性像からヘプバーンを想像するのは困難と思われる。
ぼくは映画を観たあとに原作小説を読んだのだが、それでも活字を追いながらアタマにヘプバーンの顔が浮かぶことはなかった。ヘプバーンにホリーが配役されたことに対し、カポーティも当初は「ひどいミスキャストだ」と公言していた。彼はマリリン・モンローが適役と、考えていたらしい。実はヘプバーン自身も外交的な性格のホリー役に対し「自分は内向的な人間だから」と及び腰になっていた。しかしながら、映画は大ヒット。そして、それまで清純派だったヘプバーンが清純でないホリーを演じて以来、映画のなかの女性像が変わったとも云われたのである。さらに映画の冒頭シーンで、ヘプバーンが身にまとっているユベール・ド・ジバンシィがデザインしたシンプルな黒のカクテルドレスは、20世紀のファッション史を代表するリトルブラックドレスであるとともに、史上もっとも有名なドレスと云われている。
これもまた広く知られていることなので、いまさら語ることではないのだろうが、この『ティファニーで朝食を』という作品、原作と映画とではずいぶんと味わいが異なる。ひとことで云うと、原作はビターで映画はスウィート。原作小説は、第二次世界大戦下のニューヨーク、マンハッタンのアッパー・イースト・サイドにある、ブラウンストーン造りのアパートメントを舞台に、自由奔放に生きる魅力的な女性、ホリーと彼女に惹かれる青年作家との交流が描かれたアメリカ文学の傑作。華やかな社交界の裏にある人間の孤独、自分の居場所を探し求める切なさが、いかにもカポーティらしい洗練された美しい文体で綴られている。物語は、ホリーの住むアパートの階下に越してきた駆け出しの小説家である「ぼく」(名前は記されていない)の目線で語られる。
小説のなかのホリーは、セレブや富豪たちに囲まれながらも、どこか捉えどころがなく、気まぐれで天真爛漫な20歳まえの女性。語り手の「ぼく」は、彼女の不思議な魅力や孤独、そして過去の影に触れながら、友人として深い絆を結んでいく。まずこの「ぼく」だが、実は同性愛者寄りに描かれていて、ホリーとはプラトニックな関係というか、飽くまで友情で結ばれている。ところが映画のほうでは、ヘプバーン演じるホリーとペパード演じる作家志望の青年ポール(名前がある)は、恋人同士になる。ポールにはパトロンの女性がいるのだけれど、最終的にはホリーと結ばれることになる。つまり映画では、主人公と語り手の作家との恋愛が中心に描かれているのである。原作者のカポーティはそのあたりを「薄っぺらく甘ったるい」と評している。
とはいっても、カポーティは「美しい映画になった」とも云っているのだ。まあ彼は、圧倒的な天才性の持ち主であると同時に、その強烈なこだわりや奇矯な行動から稀代の変人として知られるひと。カポーティの極端に繊細でナイーヴな性格や、人を惹きつけつつも裏切ってしまう奇妙なカリスマ性は、彼が代表作『冷血』を取材し書き上げるまでの逸話が中心に描かれた、ベネット・ミラー監督による伝記映画『カポーティ』(2005年)などで、語り継がれている。実のところカポーティは映画『ティファニーで朝食を』に対して、後年のインタビューで「こんなにひどいミスキャストの映画は見たことがない」「ブレイク・エドワーズみたいな無能な監督には、引っ張ってきてツバを吐きかけてやりたいくらいだ!」と述懐していたりする。
映画版の主人公はだれもが憧れる小悪魔的で愛らしいアイコンへと昇華
ヘプバーンに関してもカポーティは「あの役をオードリーがやると決まったときには、ショックで怒りに震えたよ」とまで云っている。でもそれに反して、映画化に際してキャスティングが決定したときは、ヘプバーンに直筆で「このたびは『ティファニーで朝食を』の映画への出演をご承諾いただき、たいへんうれしく思っております。脚本に対する意見もありませんし、脚本そのものをこれまで読む機会もありませんでしたが、オードリーもホリーもどちらもすばらしい女性なので、必ずやよい作品になることと信じております」という手紙を送っているのだ。いやはやこれは、ニューヨークの上流階級の美女たちを寵愛し、夜通し社交界の面々を相手に大法螺や過激な発言を連発していたカポーティらしい、いかにもなエピソードである。
それはさておき、小説の主人公ホリーはリアルな存在感を放っており、自分の居場所を探して社会の隙間をさまよう、影のあるシビアな女性として描かれている。それに対してヘプバーン演じるホリーは、おしゃれでファッショナブル、切なさはありつつもロマンティック・コメディらしく、洗練された魅力が強調されている。だれがなんと云おうと、ぼくはそういうヘプバーンが大好きだ。原作はある意味で戦後アメリカの光と影を体現した文学作品だったが、エドワーズ監督は小説の登場人物の行動や出来事の因果関係を整理し、それを最高に面白い映画に仕立てている。スクリーンに映るヘプバーンも終始一貫、観客を惹きつけるような素晴らしい輝きを放っている。そういう趣旨から映画は、原作小説とはまったく異なる結末を迎える。
ということで、ここからは『ティファニーで朝食を』の原作小説と映画との結末の違いについて触れるので、それぞれ未読あるいは未見のかたは、以下ふたつの段落を読み飛ばしていただきたい。小説のラストでは、ホリーはブラジルへ飛び立ち、その後消息不明となる。彼女はブラジルに向かう途中で名前のない猫を放り出してしまうが、のちに激しく後悔し「ぼく」に猫を探すことを頼んでくる。その後「ぼく」は猫を探しつづけ、ある日、裕福で清潔な家の窓辺に何事もなかったかのようにちょこんと座っている猫を発見。居場所を見つけた猫の姿に「ぼく」は、どこかで自由に生きているかもしれないホリーの姿を重ね合わせるのだった。小説には当時のニューヨークの退廃的な雰囲気が色濃く反映されているけれど、ぼくはこの深い味わいや情緒を感じさせるビターエンドが好きだ。

いっぽう映画のほうのラストだが、ホリーはやはり別の男性を追って南米へ旅立とうとするものの、ポールに説得されてタクシーを降りる。彼女は車内で捨ててしまった名前のない猫を探し出し、雨の降るニューヨークの路地で猫を抱きしめる。やがてホリーは追いかけてきたポールと激しい雨の中で抱き合い、映画はハッピーエンドを迎える。つまりヘプバーン演じるホリーは、スタイリッシュでおしゃれなロマンティック・コメディのヒロインとして描かれ、過去の傷を持ちつつも愛に目覚めるのだった。このスウィートなラストシーンにカポーティが不快感を覚えるのも無理はないが、こういうハリウッド的なエンディングは、観客に明確なカタルシスを与えるわけで、ドラマティックな大団円もまたそれはそれでいいと、ぼくは思うのである。
いずれにしても映画『ティファニーで朝食を』が、いまなお時代を超えて愛されつづけるのには、このラストの改変も含めて、映画史やポップカルチャーに与えた革新的ないくつかの理由があるのだ。その最大の要因は、主演のオードリー・ヘプバーンの個性的なキャラクター。彼女はこの作品において、それまでのハリウッドの伝統的なヒロイン像とは異なり、自由奔放で少し退廃的でありながらも、自立して生きる都会の女性を魅力的に演じている。しかも圧倒的な気品とチャーミングさをもってして、小説ではプラグマティックなリアリストだったホリーを、だれもが憧れる小悪魔的で愛らしいアイコンへと昇華させたのである。冒頭のシーンで、前述のリトルブラックドレスに、大きなサングラス、パールのネックレス、髪に差したティアラというスタイルで登場するヘプバーンは、まさに洗練された女性として映る。
このオープニング・クレジットが、素晴らしい。朝の静かなニューヨークの5番街、イエローキャブから降り立ったホリーが、紙袋からデニッシュとコーヒーを取り出し、宝飾品および銀製品の世界的に有名なブランドショップ、ティファニーのショーウィンドウを覗き込む。この数分間のヴィジュアルだけで、観客は映画の世界観へ一気に引き込まれる。そしてこのシーンに、柔らかな音楽が静かに染み渡っていく。やや控えめな音量で、ハーモニカ、ストリングス、そしてミックスド・クワイアによって綴られていくこの曲こそ、だれもが知っているあの「ムーン・リヴァー」だ。このエレガントでビタースウィートな曲の存在が、単なるロマンティック・コメディにとどまらない、深い哀愁を映画に与えていると、ぼくは思うのである。
名曲「ムーン・リヴァー」(インストゥルメンタルだが後半に歌唱がある)は、映画公開からときを移さずしてEPレコード(「ティファニーで朝食を」とのカップリング)で発売された。このシングル盤は1961年12月25日、ビルボード Hot100のシングル・チャートにおいて、全米最高位11位を記録した。翌年には、第34回アカデミー賞でアカデミー歌曲賞を受賞。またグラミー賞でも、最優秀レコード賞、最優秀楽曲賞、最優秀編曲賞の3部門を受賞している。なお作曲者のヘンリー・マンシーニは、アンダースコアにおいてもアカデミー作曲賞を獲得した。この曲に歌詞をつけたのは、キャピトル・レコードの設立者としても知られる作詞家、ジョニー・マーサー。彼がこの曲で書いた「My huckleberry friend」という(子供のころからの無二の親友を意味する)フレーズが、ぼくは大好きだ。
云うまでもなく、この表現はアメリカ文学の父、マーク・トウェインが執筆した世界的に有名な児童文学『トム・ソーヤーの冒険』(1876年)の主人公、トム・ソーヤーの親友、ハックルベリー・フィンにちなんだもの。原作小説のファンでもあったマーサーによるこの歌詞は、小説におけるホリーと「ぼく」との友達としての純粋な愛情が綴られたものと、ぼくには受けとられた。 ヴォーカル曲としての「ムーン・リヴァー」といえば、トラディショナル・ポップの人気シンガー、アンディ・ウィリアムスのアルバム『ムーン・リヴァーと映画主題曲集』(1962年)に収録されたヴァージョンがあまりにも有名だが、これは飽くまでカヴァーでオリジナルはヘプバーンが劇中で歌ったものだ。そもそもこの曲、1オクターブと1音しかない彼女のヴォーカル・レンジに合わせて作曲されているのである。
映画には、ホリーが猫と一緒にアパートの非常階段に座って、ギターを弾きながら「ムーン・リヴァー」を口ずさむ有名なシーンがあるが、ほんとうにヘプバーン自身が歌唱している。当初は、のちに『マイ・フェア・レディ』(1964年)においてイライザ役のヘプバーンのほとんどの歌唱を吹き替えた、ハリウッドの最強のゴーストシンガーとして知られる、マーニ・ニクソンによるアフレコも検討された。しかしながら監督のエドワーズは、ホリーの本来の姿を表現する重要なシーンということで、たとえヘプバーンのヴォーカルスキルが高くなくても、それが却ってホリーが普通の女の子であるということを強調するだろうと、吹き替えの提案を却下した。結果、派手に生きているホリーの内面の孤独や故郷へのノスタルジーが、多くの観客のこころのなかに、深くしみこむように伝わったのである。
原作小説のイメージ・アルバムとして楽しむのも一興かと思われる
むろんヘプバーンはこのシーンの撮影のためにギターのレッスンとヴォーカル・コーチに就いて歌の練習をしたわけだが、彼女自身が歌う「ムーン・リヴァー」は当初「わたしはプロフェッショナルなシンガーではないから」という本人の意向により、レコードとして発売されることはなかった。それが音盤化されたのはヘプバーンの死後のことで、前述のイントラーダ・レコードによる完全版スコア・アルバムに先駆けて、1993年にカリフォルニア、ビバリーヒルズに拠点を構える音楽レーベル、ビッグ・スクリーン・レコードから発売されたCDアルバム『ムーン・リヴァー~オードリー・ヘプバーン・スクリーン・テーマ・ベスト』にはじめて収録された。当時は貴重だった『おしゃれ泥棒』(1966年)や『ロビンとマリアン』(1967年)のオリジナル音源を含む、ファン垂涎のコンピレーション盤である。
ここで先ほどの話題に戻るが、この場を借りてひとことつけ加えさせていただく。結論から云うと、小説と映画というふたつの『ティファニーで朝食を』に対峙したとき、結局のところぼくは、それらに優劣をつけることができないのはもちろんのこと、どちらにも深い愛着を寄せてしまうのである。実は20世紀のアメリカ・ユダヤ文学を代表する作家のひとり、バーナード・マラマッドの著書『汚れた白球 – 自然の大器』(1952年)、この長編小説がバリー・レヴィンソン監督、ロバート・レッドフォード主演で映像化された映画『ナチュラル』(1984年)にも、ぼくは『ティファニーで朝食を』の場合とおなじような心情を抱いている。マラマッドはぼくにとって、大学時代の研究課題だった。そして、映画『ナチュラル』は原作小説とは180度異なる結末を迎えるのだが、ぼくは両者に変わらぬ愛を注ぎつづけている。
最近、横溝正史の長編ミステリー小説『八つ墓村』(1951年)が、Jホラーの牽引者とも云われる清水崇監督によって映画化されたが(2026年9月18日公開)、多くの鑑賞者から原作の尊厳を傷つけたとし不評を買っている。率直に云って、ぼくもまったくそのとおりだと思う。大幅なストーリー改変、キャラクターの改悪および存在抹消、不要なオリジナル要素など、どこを採っても、原作の核や世界観を深く理解し尊重するという姿勢が、微塵も観られない。ひとことで云うと、低級な二次創作映画だ。云うまでもなく、映画における原作の改変でもっとも大事なことは、原作の核に対するリスペクトと表現メディアの違いへの適応なのである。その点、異論はあるかと思うけれど、ぼくには『ティファニーで朝食を』にしても『ナチュラル』にしても首尾よく運んだと思われる。

いささか話が脱線したが、やはり映画『ティファニーで朝食を』は、ときを経ても色褪せない名作である。ロマンティック・コメディというスタイルが採られてはいるけれど、作品には都会の孤独と自分の居場所探しという現代人にも通じる普遍的なテーマが、ちゃんと息づいている。ホリーが飼っている猫に名前をつけないのは、自分自身はなにものにも縛られたくないという自立心、そしてだれのものでもないというある種の孤独感の裏返しだが、スクリーンのなかの彼女は最後に雨の中で猫を抱えながら、だれかと深く結びつくことを受け入れる。このラストシーンは、ホリーの精神的な成長が描かれたものと受けとられるし、実際多くの観客のこころを揺さぶったのではなかろうか。いま実際にマンシーニの音盤を味わいながら、ぼくはあれこれ思いを巡らすのであった。
ホリー役は当初、それまでのヘプバーンにとってリスキーとも捉えられたようだが、ぼくはこの役こそがブランニューなヘプバーンを生み出したと考える。そしてこの作品以降の、艶やかで軽やかな彼女が大好きなのだ。ぼくなりにヘプバーンの主演映画ベスト5を挙げると『ティファニーで朝食を』(1961年)『シャレード』(1963年)『おしゃれ泥棒』(1966年)『いつも2人で』(1967年)『暗くなるまで待って』(1967年)となる。音楽はジョン・ウィリアムズのペンによる『おしゃれ泥棒』以外は、すべてマンシーニが音楽を手がけている。なおウィリアムズはマンシーニの門下生だが、多忙を極める師匠の代役として起用された。どのスコアにおいても、リラックスした口当たりのいい比類なきマンシーニ・サウンドが展開されているが、ミニマル・エレガンスとでも云いたくなるようなヘプバーンの佇まいによく似合っている。
そんなわけで、映画のファンのかたはもちろんのこと、カポーティの小説を愛する原作尊重主義のかたにも、ぜひお手ごろな『ティファニーで朝食を』のリレコーデッド・スコア盤を手にとっていただきたい。このアルバムは、映像から離れても深く味わうことができる音盤。たとえば原作小説のイメージ・アルバムとして楽しむのも、一興かと思われる。ジャケットにはヘンリー・マンシーニ楽団とコーラスと表記されているだけで、具体的なミュージシャンの記載はないが、1960年代初頭のマンシーニによるRCAビクター作品に頻繁に参加していたことから、ジミー・ロウルズ(p)、ローリンド・アルメイダ(g)、レッド・ミッチェル(b)、シェリー・マン(ds)、ラリー・バンカー(vib)、トゥーツ・シールマンス(hca)、ロニー・ラング(as)、ピート・カンドリ(tp)、ディック・ナッシュ(tb)などの名前が思い浮かぶ。
なおレコーディング・エンジニアは、マンシーニ作品ではおなじみの名手、アル・シュミットが務めている。自然で温かみのあるサウンドは、相変わらずさすがだ。小学生のわずかな貯金から大枚をはたいて購入した『ティファニーで朝食を』のLPレコードは全12曲。映画のオープニングをイメージさせる「ムーン・リヴァー」では、ゆったりとした3拍子に乗ってハーモニカ、ストリングスがセンチメンタルな旋律を奏でる。後半には歌詞つきのミックスド・クワイアが入る。つづく「かわいそうな猫ちゃん」では、軽快なチャチャチャのリズムとビッグ・バンド・サウンドがアーバンな空気を作り出す。トロンボーンとフルートのソロも小気味いい。3曲目の「サリー・トマト」は、ミッドテンポのルンバだがいかにもマンシーニらしいスタイリッシュなナンバー。バリトンのソロとコーラスがアクセントになっている。
4曲目の「芸術写真家ユニヨシ先生」は、エキゾティックなスウィング・ポップ。木管楽器によるユーモラスでどこかおどけたメロディック・ライン、バンジョーのピッキングによるリフ、シロフォンの跳ねるようなサウンドが楽しい。5曲目の「大手入れ」は、ストレートなビッグ・バンド・ジャズ。華麗なブラスのアンサンブルに、ピアノ、フルート、トランペットらのスウィンギーなソロが挿入されていく。A面最後の「夜のキャバレーで」は、いわゆるバンプと呼ばれるスロー・シャッフル。バリトンがブリブリと退廃的なムードを演出している。ラストの吐息混じりの女性の声も印象的だ。B面トップの「ティファニーで朝食を」は、個人的にはアルバム中もっとも好きな曲。都会的で洗練されたジャズ・フィーリングと、コーラスおよびホーンズ&ストリングスによるエレガントなサウンドとが交錯する、マンシーニならではの名曲だ。
つづく「ゴライトリー、ラテンを踊る」は、アップビートでダンサブルなチャチャチャ。ブラスとコーラスとによる瀟洒なアンサンブルを縫って、トランペット、アルト、ヴァイブがソロを繋いでいく。3曲目の「ホリーの気持」は、いささか郷愁を誘うような、それでいて都会のリラクゼーションが横溢する心地いいナンバー。ソフトなトロンボーンとコージーなアルトが美しい。ストリングスのアレンジも絶妙だ。4曲目の「ルース・キャブース」では、華麗なラテン・ビッグ・バンドが全開。5曲目の「かっぱらいのスリル」は、クールでコミカルなスウィング・ナンバー。お茶目でトボけた味わいが楽しい。ラストの「ムーン・リヴァー・チャ・チャ」では、ラテン・タッチのラウンジ・ミュージックがソツなく展開される。あたかもニューヨークの華やかな夜、あるいは気まぐれな日常を彩っているかのようである。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。






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