名匠、市川崑監督が金田一耕助に豊川悦司を迎えて放ったミステリー大作、1996年版『八つ墓村』──谷川賢作が音楽を手がけたそのオリジナル・サウンドトラック・アルバム
谷川賢作 / 東宝映画「八つ墓村」オリジナル・サウンドトラック (1996)
Today’s Tune : 殺めし女
期待するものは、本格ミステリーとしての醍醐味が維持された構成
2026年1月27日に映画化が発表された、松竹/ソニー・ピクチャーズ エンタテインメントが配給する新作映画『八つ墓村』は、2026年9月18日に劇場公開される予定とのことだが、当初はスーパーティザービジュアルの公開のみに留まっていた。このスーパーティザービジュアルとは、敢えて作品の具体的な詳細は明かさないままにして、一部のイメージやロゴだけでオーディエンスやユーザーの好奇心を煽り期待感を醸成するという、なんともイヤらしい予告ビジュアルのこと。結果、新作映画『八つ墓村』に関しても、SNSや映画情報サイトにおいて、探偵の金田一耕助、主人公の寺田辰弥を誰が演じるのかという、キャスト予想で大いに盛り上がった。そして2026年6月18日、ようやくキャスト&スタッフの一部が発表になったのだが、これまた反響を呼んでいるようである。
ひとまず今回の発表の主だったところを記すと、以下のとおり──。尾上松也(金田一耕助 役)、奥智哉(井川辰弥 役)、堀田真由(森美也子 役)、高島礼子(田治見小竹・小梅 役)、滝藤賢一(田治見久弥・要蔵 役)、小籔千豊(磯川警部 役)、中島亜梨沙(井川鶴子 役)、尾ヶ井慎太郎(脚本)、清水崇(監督・共同脚本)。この発表に併せて公開された特報映像を確認したところ、舞台は現代、金田一は洋装となっている。音楽はイタリア出身のアントンジュリオ・フルリオが担当。清水監督がメガホンをとるので、やはりホラー色が強くなるのだろう。ぼくもこのブログで、芥川也寸志が音楽を手がけた、野村芳太郎監督作品『八つ墓村』(1977年)のオリジナル・サウンドトラック・アルバムをご紹介した際、新作映画『八つ墓村』について、根拠のないことをあれこれ語らせてもらったが、まったく虚を衝かれた感じである。
具体的には金田一役についてだが、第49回日本アカデミー賞授賞式(2026年3月13日)をテレビで観ていて、話題賞を受賞し登壇した男性アイドル・グループSixTONESのメンバー、松村北斗のオシャレにしてはちょっと不自然なくらいに伸びたヘアスタイルから、ぼくが勝手にイメージしたのが金田一耕助だった。金田一の髪型といえば、雀の巣のような蓬髪。原作に長髪とは書かれていなかったと思うが、視覚的には長いほうが映えるだろう。それはともかく松村さんといえば、外観も然ることながら、演技における間の取りかたや視線の向けかた、平穏な状況ではどちらかというと高めの明るい声色が、いざというときに身体の深いところから出てくるような低音に変わるところなどは、事件の行末を見守る金田一の感情を、フレッシュかつリッチに伝えてくれそう──なんて、ぼくは勝手に思ったのだった。

まあ、まったく当てが外れたわけだが、松村さんの金田一耕助はなかなかいい線を行っているように思われる。ついでながら云わせてもらうと、ぼくがいまもっとも金田一を演じてもらいたいと思っている俳優は、第49回日本アカデミー賞において複数の部門で優秀賞受賞を果たしたサスペンス映画『爆弾』(2025年)にも出演した寛一郎。こういう云いかたをすると失礼にあたるのかもしれないが、父に佐藤浩市、祖父に三國連太郎をもつという、名優の血を引くサラブレッドだ。重厚な演技から親しみやすい役まで幅広くこなす、実力派の若手俳優と云っていいだろう。ぼくは、どちらかというと贔屓の監督である、熊澤尚人がメガホンをとった映画『心が叫びたがってるんだ。』(2017年)において、はじめて寛一郎さんのことを知ったのだが、それ以来彼のファンである。
その後、寛一郎さんは東野圭吾原作のファンタジー映画『ナミヤ雑貨店の奇蹟』(2017年)での演技が高く評価され、第27回日本映画批評家大賞の新人男優賞を受賞。さらにアナーキーな青春群像劇『菊とギロチン』(2018年)でも、第92回キネマ旬報ベスト・テン新人男優賞ほか各賞を受賞している。親譲りの彫りの深い端正な顔立ちと、身長182cmの骨太でしっかりとした体格のもち主である寛一郎さんは、原作の金田一像とはかなりかけ離れているけれど、知的な面と無邪気な面を併せもつところは、個人的には金田一役に向いていると思う。ぼくは過去に銀幕に登場した金田一では、映画『悪霊島』(1981年)で鹿賀丈史が演じたキャラクターにもっとも親近感が湧いたのだが、寛一郎さんにもそれとおなじようなイメージをもったのである。
寛一郎さんの演技に対して真摯に向き合う姿勢や、舞台挨拶などで見せるちょっとシャイな感じから、もし機会があれば彼は現代的かつ繊細な金田一を表現してくれるのではないかと、私情で恐縮だが期待してしまう次第。いずれにしても寛一郎さんは、父や祖父の威光を感じさせながらも、独立した俳優として実力のある注目株。ぼくにとっては、もっとも目が離せない俳優のひとりである。それはさておき、ミステリーの金字塔とも称される横溝正史が著した原作小説『八つ墓村』では、物語が寺田辰弥の一人称で語られており、金田一は完全な脇役となっている。とはいえ多くのファンにとっては、映像化においてはだれが金田一を演じるかが、いちばん気になるところなのかも知れない。むろんぼくにとっても興味をそそられる点だが、個人的には『八つ墓村』の場合、それ以上に着目するところがある。
ぼくが『八つ墓村』の映像化に期待するものは、なによりも本格ミステリーとしての醍醐味が維持された構成なのである。原作者の横溝正史は間違いなく日本を代表する推理作家であり、日本の本格ミステリーの礎を築いたひとと云える。そんな横溝さんが著した『八つ墓村』は、1949年から1951年にかけて雑誌『新青年』および『宝石』に連載された長編推理小説だが、名探偵、金田一耕助が登場する作品としては8作目にあたる。金田一が活躍するシリーズは累計発行部数5500万部を突破しているとのことだが、その作品群において『八つ墓村』もまた、ミステリー文学の名作と云って然るべきだろう。個人的には横溝さんの長編推理小説のなかでもなかなか読み応えのあるものと思っているのだが、残念なことにこれまでの映像化作品において、ぼくは一度も満足することがなかった。
横溝さんは『新青年』において、海外のミステリー作品を自ら翻訳していたりもする。氏が翻訳を手がけた作品に、アメリカのミステリー作家、ケネス・デュアン ウィップルによって執筆された『鍾乳洞殺人事件』(1934年)というのがあるのだが、実のところ『八つ墓村』は、この小説から影響を受けている。鍾乳洞という閉鎖空間が舞台とされていることをはじめ、物語の随所に見られる展開に共通点があるのだが、それは横溝さん本人も認めるところである。さらに『八つ墓村』は、おなじみの名探偵、エルキュール・ポアロが活躍するアガサ・クリスティの長編推理小説『ABC殺人事件』(1936年)に触発されて書かれた作品でもある。その点で『八つ墓村』は、ミッシング・リンクをテーマとした本格ミステリーと捉えることができるのだ。
ところがあいにく、もともと横溝さんの小説といえば登場人物が非常に多く、人物相関も入り組んでいたりするのだが、この『八つ墓村』ではさらにトリックが複雑で巧妙になっているものだから、その映像化作品のいずれにおいても大幅な改編と省略が行われている。ことにトリックのカギとなる殺人計画書のクダリは、ぞんざいに扱われることがほとんどである。一見無差別連続殺人事件のように見えながら、実はそこに一貫した動機があるというところがミソなのだが、それが曖昧になってしまうのだから、自ずと本格ミステリーの醍醐味は半減するというもの。そのことから『八つ墓村』の映像化作品では、たいてい犯人の犯行動機が変更されている。いずれにしても映像化された『八つ墓村』は、原作よりもミステリーとしての味わいがぐっと薄くなっているのだ。
新作映画『八つ墓村』では、金田一を歌舞伎役者の尾上松也がお釜帽にステンカラーコートという出で立ちで演じる。それはぼくにとって確かに想定外のことではあったけれど、尾上さんには申し訳ないが、それほど重要ではない事柄だったりする。その点では、1977年に公開された松竹映画『八つ墓村』において、時代設定が戦後間もない昭和20年代から映画製作当時の現代(昭和40年代)へと移されているため、洋装に麦わら帽子という出で立ちで登場する渥美清演じる金田一にもおなじことが云える。本音を云うと、地味に活躍する渥美さんの金田一は、ぼくにはどうしても生真面目になった車寅次郎にしか見えなかった。とはいえ原作でも金田一は完全な脇役となっているので、それはそれでいいとも思った。問題なのは、原作が抱える本格ミステリーのエッセンスが、ことごとく蔑ろにされているということなのである。
配給収入においてトップに位置する1977年版は壮大なコケおどし映画
なるほど、好き嫌いを別にしてもっとも印象に残った『八つ墓村』の映像化作品といえば、圧倒的に1977年に劇場公開された松竹映画だ。あの有名な「祟りじゃ〜っ」というキャッチコピーが流行したのも、この映画のCMからである。しかもこの映画、実は横溝作品の配給収入において、歴史的大ヒットを記録した1976年公開の角川映画第1弾『犬神家の一族』を抜いてトップに位置する。つまり興行的には、もっとも成功した横溝映画なのである。ところがこの作品では、本格ミステリーの要素がすっかり排除されている。そのかわりこの映画は原作のイメージとはまったく違う、いわば伝奇ロマン風超大作といった風情をもつ。小説を読んでいないひとにとっては面白い映画なのだろうが、ぼくには壮大なコケおどし映画のように思えてならない。
なぜなら1977年版『八つ墓村』では、謎解きよりも現実ではありえない不思議な怪奇現象、幻想的な物語、伝説や歴史的伝承にスポットが当てられているからである。具体的に云うと、原作小説では比較的さらりと語られる過去のエピソード、すなわち戦国時代の村人たちによる落ち武者の惨殺、そして28年まえ(原作では26年まえ)の多治見家当主による村人32人の虐殺が、いやというほど強調されている。この時点で、映画公開当時小学生だったぼくはゲンナリしてしまったのだが、日本刀と猟銃をもって走ってくる山﨑努演じる多治見要蔵のアンデッドのような表情、そして鍾乳洞を飛びまわる小川真由美演じる森美也子の夜叉のような形相には、かなりの精神的衝撃を受けたものである。率直に云って、そういうオカルト趣味は他所でやっていただきたい。
それに反して、1975年に劇場公開された高林陽一監督作品『本陣殺人事件』は、しっかり原作の骨格が残されつつ設定などが新しく作り変えられた、出色の横溝映画である。当時、低予算で良質のアート系映画を製作することで注目を集めていた映画会社ATG(日本アート・シアター・ギルド)の配給作品だけに、製作費の都合により、時代設定が原作の1937年(昭和12年)から撮影当時の1970年代に置き換えられている。主演の中尾彬が、ヒッピー風のジーンズ姿で金田一を演じているのだが、探偵らしからぬ青年でありながら、飄々とした態度で見事な頭脳明晰ぶりを発揮するところは、まさに金田一。高林監督の原作に対するリスペクトが、しかと感じられる。また監督は、あの有名な密室トリックの謎解きにおいても、じっくりとその仕掛けが動くさまを見せる演出をしている。

このATG映画『本陣殺人事件』では、監督自身が執筆したシナリオがとにかく素晴らしい。説明を控えめにした情緒的な語り口が、作品全体に静謐を湛えている。むろんケレン味などまったくないのだが、終始飽きさせない作りとなっている。特に金田一の解説、事件のカギを握る一柳三郎の回想、そして事件の再現シーンを入り組ませた終盤での展開は秀逸。劇的な演出はなされず、事の真相を自然と観客が理解できるような手法がとられているところは、もはや芸術的とも感じられる。また本作では、一柳鈴子の葬列に遭遇した金田一が1年前の事件を回想するというオリジナルの構成がとられているが、オープニングとエンディングにおける美しい田園風景のなかでの野辺送りのシーンは圧巻である。いずれにしてもこの作品は、実際に原作者を納得させたほどの、横溝映画の傑作だ。
ハナシを1977年版『八つ墓村』に戻すが、やはりこの映画にぼくは横溝作品への愛情が微塵も感じられない。監督の野村芳太郎をはじめ、脚本の橋本忍、撮影の川又昂、そして音楽の芥川也寸志と、松本清張の同名小説が映画化された大ヒット作『砂の器』(1974年)を創り上げた陣営がそのまま制作に携わっている。松竹は『八つ墓村』を、横溝さんの小説のストーリーを借りて、第2の『砂の器』に仕立てようとしているようにも思われる。芥川さんが書き下ろした美しいワルツを背景に、男女の道行をイメージさせる耽美的な鍾乳洞内の逃避行は、あたかも『砂の器』におけるピアノ協奏曲が連綿と流れるクライマックスの“父子の旅”が再現されているかのごとく。芥川さんの音楽は好きだけれど、この長いシーンはこじつけのように思われてならない。
ということで、長くなったが、この秋に公開される新作映画『八つ墓村』は、1977年版と同様に製作に松竹が関わっている。もし新作が、歴代横溝映画の配給収入においてトップに位置する1977年版をオマージュするものであるのなら、ぼくとしては先行きがあまり期待できない。メガホンをとる清水崇は、Jホラーの旗手と目される監督だが、果たしてどのようなアプローチをするのだろうか。特報にはやはり「祟りじゃ〜っ」というセリフが挿入されているが、落ち武者、多治見要蔵、そして森美也子の呪縛から解放されるのだろうか。繰り返しになるけれど、原作小説の『八つ墓村』は本格ミステリーである。できれば、横溝正史の世界にオカルト趣味を持ち込むのは、つのだじろうのコミックだけにしていただきたい(分かるひとには分かる)。
さて、ここからが本題。なぜか一般にはあまり浸透していないようだが『八つ墓村』は、松竹の1977年版のあと今回の新作映画に先んじて、すでに1回映画化されている。フジテレビジョン、東宝、角川書店が製作し、日本映画界の巨匠、市川崑がメガホンをとった、1996年公開の『八つ墓村』である。さきに触れた、篠田正浩監督の『悪霊島』以降、金田一耕助は銀幕からしばらく姿を消していたが、この映画で15年ぶりにその姿を見せた。市川監督は、前述の『犬神家の一族』(1976年)を筆頭に『悪魔の手毬唄』(1977年)『獄門島』(1977年)『女王蜂』(1978年)『病院坂の首縊りの家』(1979年)と、それまでに5本の横溝映画を手がけている。金田一をはじめて原作どおりのヨレヨレの着物姿で登場させたのも氏である。
市川監督は、日本の文学作品を数多く映画化しているが、どの場合も単なる忠実な原作の再現にとどまらず、大胆かつ前衛的な改変を加えている。とはいえ、原作のエッセンスをしっかり押さえつつ、作品のテーマを独自の映像美学で現代的に再構築しているのである。たとえば市川監督は折に触れて、金田一耕助は神様や天使のような存在である──というようなことを述べている。出で立ちは原作どおりだが、その性格はかなり改変されている。石坂浩二が演じる金田一は、世間にはまったく知られておらず、彼が探偵と知った事件の関係者たちはみな一様に驚く。しかも快刀乱麻を断つというよりも、どちらかというと狂言回しとして人間の運命を悄然と俯瞰しているかのように映る。そういう風格は、まさに天使。そういう原作の再構築はあるものの、市川作品は、ほかのどの横溝映画よりも本格ミステリー然としている。
市川監督は、氏にとって17年ぶりの横溝映画となる『八つ墓村』においても、本格ミステリーの根本的な性質やもっとも大切な部分を土台とし、制作に臨んでいる。監督は、密室殺人の第一人者とも云われる、ジョン・ディクスン・カーの小説を愛読するほどのミステリー・マニア。ただ本作では、ストーリーラインは概ね原作に沿っているが、簡素化するためと思われる改変が多々なされている。残念ながら原作小説でトリックのカギとなる殺人計画書のクダリは、カットされている。冒険ロマンの要素である、三千両の黄金を巡る因縁と鍾乳洞での探索もない。そのかわり原作にはない、草木染めのアオバナ染料を使ったトリックが登場。監督と共同で脚本を執筆した大藪郁子の趣味が、染め物だったことによる。むろん本作にオカルト解釈はまったくなく、物語は飽くまで現実的な動機による連続殺人事件として描かれている。
個人的に市川崑は、日本映画においてもっとも敬愛する監督である。それでも率直に云って、この『八つ墓村』は失敗作であると、ぼくは思っている。まずなんといっても、金田一役に石坂浩二を再起用しなかったことが致命的な誤り。当時トヨエツ・ブームでノリに乗っていた豊川悦司が、調子に乗りすぎて奇妙奇天烈な金田一を演じている。ヴィジュアリストである市川監督も作品に様々な技法を施して、大ヒットした『犬神家の一族』(1976年)にはじまる往年のシリーズを再現しようと努力しているのだが、それが却って過剰になってしまい煩わしいとさえ感じられる。ただ原作に従った犯行動機に回帰していること、映像作品では度々削除されてしまう里村典子が比較的重要な役割を果たしていることは、注目に値する。典子は原作小説では、事実上のヒロインなのだ。
本格ミステリーの根本的な性質やもっとも大切な部分を土台としているが…
ハイキー処理による26年まえの田治見要蔵による村人虐殺シーン、メインタイトル、寺田辰弥が働く石鹸工場、諏訪弁護士の事務所での井川丑松の死、警察署での辰弥と森美也子との出会い、辰弥の下宿に届いた脅迫状、八つ墓村への帰郷、辰弥と多治見家の人々との対面、辰弥の座敷に現れる濃茶の尼──と、本作は序盤で並外れたテンポのよさを見せる。こういうスピーディな展開は、いかにも市川作品らしい。ところがそのあと、ヴァンゲリス風の音楽をバックに、ロングショットで朝靄のなかを歩いてくる長身の金田一が映し出されたとき、ぼくは云いようのない違和感を覚えた。その後、里村典子にいちいち八つ墓村に辿り着くまでの行程を早口で説明するトヨエツ金田一に、これはかつて市川監督が創造した天使とはまったくの別物であると認識した。
その後トヨエツ金田一は、逗留先である郵便局(民宿を兼業)の局長兼女将、ひでに滞在期間を訊ねられると、なぜか陽気に「どうなるのかなぁ」と、蓬髪を掻きむしりフケを飛び散らせる。外食券の代わりに配給米をもち込むクダリも含めて『犬神家の一族』のなかのワンシーンの再現だが、困惑した表情を浮かべる石坂金田一とはまったく異なる印象を与える。また田治見家当代、久弥の通夜の席で、典子の兄、里村慎太郎に住まいを訊かれたトヨエツ金田一は、面映ゆい表情を浮かべつつも、なんだか嬉しそうに「風まかせ」と答える。ぼくにはこれが、余計なセリフと思われた。石坂金田一だったら、おそらく「まあ……」と、お茶を濁すところだろう。前述の八つ墓村に到着した際の典子とのやりとりもそうだが、どうもトヨエツ金田一は喋り過ぎる嫌いがある。
市川監督はなぜか、豊川さんに金田一役に対して最低限守るべき演技事項を伝えただけで、具体的な演技プランは当人に任せたという。豊川さんは、自分なりの金田一を新たに創造しようとしたのかもしれないし、そのために原作小説の金田一像を研究したのかもしれない。確かに、あの取ってつけたような笑顔と、芝居がかった早口のセリフは、原作の金田一に垣間見えるひと懐っこさを、豊川さんなりに表現したものと思えなくもない。ただ結果的には最初に述べたとおり、奇妙奇天烈な金田一となってしまった。この点は、明らかに市川監督の演出ミスである。ただし監督自身「キャスティングが終わったとき、演出は70パーセント終わっている」と述べているが、豊川さんの起用は、監督の意向をよそに東宝側が要望したもの。実はこの映画、初動から踏み誤っていたのかもしれない。

とにかくトヨエツ金田一は、ひときわ異彩を放っており、観客を圧倒するほどのパワーがある。おかげで、小説を読んだときはそのストーリーラインに夢中にさせられたぼくも、この映画において一連の出来事やエピソードがどのように進行したか、いまとなっては即座に思い出すことができなかったりする。記憶を呼び起こそうとすると、奇妙奇天烈な金田一のことばかりが思い出されるのだ。その点、1996年版の『八つ墓村』は、完全に金田一が主役の映画となっている。エンドクレジットでなぜか小室等がセルフカヴァーしたフォークソング「青空に問いかけて」が流れるが、これは『八つ墓村』の物語ではなく、明らかに金田一をイメージさせる趣向。現に本編の金田一が登場するいくつかのシーンで、この曲をインストゥルメンタル化したヴァリエーションが流れるのだ。
もともと横溝正史の小説には古い因習に終止符が打たれるような物語が多いが、市川作品でも『犬神家の一族』の場合は、エンディングに怨念から解放されたひとびとの幸福な行く末を予感させるものがあった。横溝さんが著した『八つ墓村』は本来、寺田辰弥の愛と冒険の物語。終盤で辰弥は、鍾乳洞で発見した大判を披露するとともに、典子と結婚したことを報告しみなの歓声と拍手に包まれる。さらに彼は田治見家相続を辞退、神戸の新居に移り住むまえに典子から妊娠したことを告げられ、彼女を強く抱きしめるのだ。つまりこの物語のミソは、天涯孤独の青年が連続殺人事件に巻き込まれながら自らの過去と向き合い、その因縁を断ち切りほんとうの幸せを手にするということ。その点、市川監督の演出も今回ばかりは、大いにブレている。
これは市川監督の公私にわたるパートナー、脚本家、和田夏十の不在が影響しているように思われてならない。ぼくは市川作品では『細雪』(1983年)がもっとも好きなのだけれど、ラストの花見の回想に入る直前の小料理屋における貞之助と女将のシーンは、あまりにも感動的なアレンジだ。18年間、がんと闘病してきた和田さんが逝去する直前に執筆した名シーンである。和田さんは良妻賢母であると同時に、市川作品の生産的な助言者でもあった。そして監督を敬愛するぼくにも、この『細雪』よりあとの市川作品が、ことごとく精彩を欠くように思えてならない。結果的に市川版『八つ墓村』は大ヒットとは云えず、興行目的としては振るわない結果に終わった。むろん配給収入においても、野村監督の1977年版の足元にも及ばなかった。
なお、この映画で辰弥と典子とは恋仲にはならない。彼女は慎太郎とともに大阪へ出ることになり、結局、田治見家の財産はだれも相続しなかった。映画は村を去る日の金田一にスポットを当てた、郵便局でのささやかなエピソードをもって幕を閉じる。やはりこの映画の主役は、金田一だった。スマッシュヒットとならなかった1996年版『八つ墓村』ではあるが、それでも過去に市川監督が手がけた横溝映画と同様に、サウンドトラック・アルバムはしっかりリリースされた。音楽は、作曲家でピアニストの谷川賢作が担当。谷川さんは『鹿鳴館』(1986年)以降『かあちゃん』(2001年)を除く、すべての市川作品の音楽を手がけた。ジャズ・ピアニストの佐藤允彦に師事したということだが、氏の音楽にジャズっぽさはあまり感じられない。どちらかというと、ニューエイジ・ミュージック系のミュージシャンと云えるかもしれない。
この『八つ墓村』では、過去に市川監督が手がけた横溝映画のトレードマークとなっていた、流麗なテーマ曲と明朝体の表記とによるオープニングクレジットがない。そのせいか映画を観る限りでは、音楽はほとんど印象に残らない。谷川さんのアンダースコアは、飽くまで情景描写および心理描写に徹しており、たとえばジャズ・ピアニストの大野雄二が手がけた『犬神家の一族』の音楽のような推進力をもたない。しかしながら、決してでしゃばることのない、ある意味で背景音楽あるいは環境音楽のような谷川さんのスコアは、アートオリエンテッドな市川監督にとって、理想の映画音楽なのだろう。ただサウンドトラック・アルバムは、独立した音楽作品として楽しめる仕様になるよう、いくばくかの意匠が凝らされている。
映画で使用されたトラックは、谷川さんのシンセサイザーと、岩佐真帆呂の各種サクソフォーンとによって演奏されたもの。岩佐さんは、谷川さんの父、谷川俊太郎の現代詩を歌うグループ、DiVaにも参加していた。そのサウンドは、空間的でシネマティックな広がりをもついっぽうで、ときに瞑想的な美しさを放つときもある。さきにも触れたがギリシャの音楽家、ヴァンゲリスからの影響が感じられる。個人的には空間を包み込むようなサウンドが美麗な「殺めし女」が好き。あいにく本編では使用されていないようだ。「名探偵登場」や「金田一旅立つ」は「青空に問いかけて」をアレンジしたもの。また「錆色の村」「黒の惨劇」「報われざる愛」「赫い炎」といった曲では、おなじモティーフが登場するが、おそらくそれが主題なのだろう。ほかにも幻想的かつ緊迫感のあるトラックが満載だ。
アンダースコアにテーマ曲らしいトラックがないせいかアルバムには、前述の主題を谷川さんがアコースティック・ピアノでソロ演奏した「ピアノスケッチ」が、7つの変奏曲として収録されている。むろん本編では使用されていない。この曲の全長版とも云うべき「ピアノスケッチ 5」あたりは、なかなか聴き応えがあるので、このテーマ曲が映画のなかでアピールされなかったのは、ちょっとお気の毒に思われる。さらに谷川さんは、ソロ・ピアノで「青空に問いかけて」を演奏。アルバムのラストを飾っている。考えてみたらこの曲の歌詞を書いたのは、谷川俊太郎だった(作曲は小室等)。もちろんこのアルバムでも、ちゃんと小室さんの歌を聴くことができる。市川×大藪×小室といえば、すぐにフジテレビ系列テレビ時代劇『木枯し紋次郎』(1972年)が連想される。やはり『八つ墓村』ではないのだ。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。






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