ブラジルが生んだスーパースター、セルジオ・メンデスを偲ぶ──セルジオ・メンデス&ブラジル ’66のもっとも充実したアルバム『イエ・メ・レ』
Album : Sergio Mendes & Brasil ’66 / Ye-Me-Le (1969)
Today’s Tune : What The World Needs Now
初リーダー作においてすでに純然たるブラジル音楽から逸脱していた
セルジオ・メンデスが、天国へと旅立った。去る2024年9月5日、アメリカのカリフォルニア州ロサンゼルス市でのこと。83歳だった。死因はロングコビッドだったという。つまり新型コロナウイルス感染症の回復期以降に現れたり、後遺症が長期的につづいたりする疾患だ。家族の声明によると、彼は長いあいだ後遺症の影響に苦しんでいたという。長年にわたって精力的に音楽活動に取り組んできた彼は、昨年の11月もパリ、ロンドン、バルセロナにてコンサートを行った。あとになったが、セルジオ・メンデスはブラジル南部リオデジャネイロ州ニテロイ市出身(1941年2月11日生まれ)のピアニスト、コンポーザー、アレンジャー、バンドマスターである。1965年から活動の拠点をアメリカに置いていたが、グラミーのウィナーでもあった。まずは、ここに謹んで哀悼の意を表す。
セルジオ・メンデスは、日本ではセルメンの愛称で親しまれていたが、ぼくも敬愛の意を込めて、以下は彼のことをセルメンと呼ばせていただく。ところで、多くの報道機関の記事において、セルメンのことがボサノヴァの代表的なミュージシャンというふうに紹介されている。そして同時に、1966年に発表した「マシュ・ケ・ナダ」の世界的なヒットで知られる音楽家とも書かれている。だがぼくは、前者の云いかたにはいささか違和感を覚えるし、後者においても件のヒット曲のサウンドは彼の音楽のほんの一面に過ぎないものと思っている。というのもセルメンには、ブラジリアン・ミュージックの魅力を世界に広めながら、自己のルーツであるブラジル音楽の幅を広げたひと──というイメージを、ぼくは抱かされるからである。
確かにセルメンは、その初リーダー作『ダンス・モデルノ』(1961年)において、ボサノヴァというかジャズボサをプレイしている。ぼくはこのアルバムが大好きなのだけれど、油断ならないのは、彼がこの1960年の吹き込みにおいて、すでに純然たるブラジル音楽から逸脱しているということ。セルメンはここでブラジル産の楽曲に加えて、コール・ポーターの「ラヴ・フォー・セール」と「恋とは何でしょう」デューク・エリントンとビリー・ストレイホーンの共作「サテン・ドール」ブロニスラウ・ケイパーの「オン・グリーン・ドルフィン・ストリート」ホレス・シルヴァーの「ニカの夢」といった、超有名なジャズ・スタンダーズにボサノヴァ・テイストの味つけを施し、フレッシュでヴィヴィッドな音楽を創出しているのだ。
しかもこのアルバム、タイトルがなかなかいい。まるでセルメンが、自分の音楽はダンス・ミュージックであると、宣言しているかのようだ。ひょっとすると彼は本気で、サンバ、ボサノヴァ、ジャズ、ポップスといった複数の音楽ジャンルを総合するコンセプトのひとつとして、ダンス・ミュージックのモダンなスタイルを提案したのかもしれない。セルメンは10代からナイトクラブでジャズを演奏し、20歳まえには自己のグループ、セクステート・ボサ・リオを結成していた。そして、当時の僚友ドゥルヴァル・フェレイラ(g)、ベベート・カスチーリョ(b, fl, sax)、エジソン・マシャード(ds)、エジソン・マシエル(tb)らとともに、リオデジャネイロで吹き込まれたのが本作。驚くなかれ、このときセルメンはまだ19歳だった。
その後、セルメンは21歳にしてアメリカ、ニューヨーク市のカーネギー・ホールで開催されたボサノヴァのコンサートに出演した。その際、彼が自己のグループを率いて、アルト奏者のキャノンボール・アダレイのアルバム『キャノンボールズ・ボサノヴァ』(1963年)のレコーディングに参加したことは有名。さらに、当時マンハッタン、ブロードウェイの52丁目にあった往年の名ジャズ・クラブ、バードランドを訪ねたセルメンは、かねてから憧れていたジャズ・ピアニスト、ホレス・シルヴァーとはじめて対面。1962年のことである。いずれにしても、彼が当時ジャズに強い関心を寄せていたことは火を見るよりも明らかだし、あるいはすでに自己の音楽性の幅を広げるという点で、アメリカを本拠とすることが有効と考えていたのかもしれない。
ニューヨークでの経験に意欲が掻き立てられたのか、セルメンは翌年の1963年からリーダー作を次々に制作していく。すぐに『ダンス・モデルノ』につづく2作目のレコーディングに着手するが、なぜかアルバム・リリースは見送られ、この録音が『クワイエット・ナイツ』(1967年)として日の目を見るのは4年後のことだった。不思議なことにセルメンのアルバムでは、唯一いまだ公式にCD化がなされていない作品となっている。つづくダイナミックなホーン・サウンドが前面に押し出された『イパネマの娘/セルジオ・メンデス&ボサ・リオ』(1964年)は、昔から日本でもよく知られたアルバム。アレンジをアントニオ・カルロス・ジョビンが担当しているのも面白い。米国では『ザ・ビート・オブ・ブラジル』(1967年)としてリイシューされた。
また、アントニオ・カルロス・ジョビン(g)、ヒューバート・ローズ(fl)、フィル・ウッズ(as)、アート・ファーマー(flh)といったCTIレコード顔負けの豪華メンバーが参加した『ボサノヴァ・ヨーク』(1964年)は、モダンなジャズボサ作品。なお米国盤は『ザ・スウィンガー・フロム・リオ』(1965年)となっている。そのいっぽうでセルメンは、ワンダ・ジ・サー(vo)とホジーニャ・ジ・ヴァレンサ(g)をフィーチュアした『ブラジル ’65』(1965年)、同グループによるサンフランシスコ市のクラブ、エル・マタドールでの実況録音盤『イン・パーソン・アット・エル・マタドール!』(1965年)をリリース。聴き応えのあるジャジーな演奏とポップな歌唱は、その後のセルメン・サウンドの原点となる。というか「マシュ・ケ・ナダ」のヒットは、この翌年のことなのだけれど──。
セルジオ・メンデス&ブラジル ’66の誕生とオーケストラの導入
さらにセルメンは、クレア・フィッシャー、ボブ・フローレンス、ディック・ハザードをアレンジャーに迎えた『ザ・グレート・アライヴァル』(1966年)、そしてデイヴ・グルーシンを全面的にアレンジャーとして起用した『フェイヴァリット・シングス』(1968年)を制作している。この2作ではリズム・セクションにホーンズとストリングスが加えられている。ジャズやボサノヴァにオーケストラを加えた作品を多く制作した音楽プロデューサー、クリード・テイラーがCTIレコードを設立したのが1967年のことだから、セルメンもまたテイラーと同様にクロスオーヴァー・ブームに先鞭をつけたと云えるかもしれない。いずれにしても、ここまでの8作品を聴いただけでも、彼が単なるボサノヴァのミュージシャンにとどまるひとではないとわかる。
上に挙げたセルメンの初期の作品は、一般的に彼のプロフィールが語られるとき、あまり触れられることがない。しかしながら、この度そのすべてを聴き直してみて、これらのレコーディングがその後のセルメン・サウンドの方向性を決定するのに重要な役割を果たしていたと、ぼくはあらためて認識したのである。セルメンの音楽は、決して「マシュ・ケ・ナダ」からはじまったわけではないのだ。なかでも『フェイヴァリット・シングス』は、グルーシンとのコラボレーション作品ということもあり、セルメン・サウンドのファースト・デスティネーション的な重要アルバム。レコーディングは1967年11月に行われたということだから、ブラジル ’66としての活動と同時進行だったわけだ。インストゥルメンタルを満喫できるという点でも貴重だと、ぼくは思う。
さて、セルメンは1966年にアトランティック・レコードから、トランペッターのハーブ・アルパートと音楽プロデューサーのジェリー・モスが創設したA&Mレコードに移籍する。このレーベルは当時、アメリアッチ、ソフト・ポップ、スワンプ・ロックといった独特の音楽ジャンルで人気を博していたが、ブラジリアン・ミュージックをルーツとする個性豊かなセルメン・サウンドを、大いに歓迎したことだろう。しかもヴォーカル・ナンバーを主軸に据えたアルバム構成は、セルメンにとっても自己の音楽におけるポップ性をこれまでになく高めることとなった。このポップ路線といいグループ名義といいアルパートの肝煎りと想像されるが、なんにせよセルジオ・メンデス&ブラジル ’66は誕生した。そしてこのバンドは、A&Mの一時代を築いたのである。
セルジオ・メンデス&ブラジル ’66は、セルジオ・メンデス(key, vo)、ボブ・マシューズ(b, vo)、ジョアン・パルマ(ds)、ジョゼ・ソアレス(perc, vo)、ラニ・ホール(vo)、ビビ・ヴォーゲル(vo)というメンバーでスタート。デビュー作『マシュ・ケ・ナダ』(1966年/原題は『Herb Alpert Presents Sergio Mendes & Brasil ’66』)が、まもなく発売された。アレンジは全曲、セルメン自身が手がけている。なおシンガーのホールは、アルパートの奥さま。かたやリオデジャネイロ出身のヴォーゲルは、この1枚を吹き込んだあとグループを離脱する。彼女の後釜には、アメリカン・ポップ志向からか、モンタナ州グレートフォールズ出身のジャニス・ハンセンが座った。
とにもかくにも、セルジオ・メンデス&ブラジル ’66の人気といったらスゴかった。デビュー作は世界中で発売され、シングルカットされた「マシュ・ケ・ナダ」は大ヒットした。わが国でも1年遅れで『マシュ・ケ・ナダ』のLPレコードが、キングレコードから発売された。日本でも多くのひとが「マシュ・ケ・ナダ」の「♪オー アリア アイオ オバ オバ オバ」という歌い出しを、クチずさむことができるだろう。ちなみに、このグループの最初の4枚のアルバムのうち3枚『マシュ・ケ・ナダ』『恋のおもかげ〜ルック・アラウンド』(1968年)『フール・オン・ザ・ヒル』(1968年)は、ビルボード200のトップ10にランクインした。セカンド・アルバム『分岐点〜コンスタント・レイン』(1967年)は24位にとどまったが、なんだかわかる気がする。
なぜなら『分岐点〜コンスタント・レイン』が『マシュ・ケ・ナダ』の二番煎じの様相を呈しているからだ。個人的には北インド発祥の弦楽器シタールがチェンバロとユニゾンで使用されているところが好きなのだけれど、アルバム冒頭の「コンスタント・レイン(ショヴィ・シュヴァ)」は、一聴で「マシュ・ケ・ナダ」が意識された選曲であるとわかる。たとえば「♪ショヴィ ショヴィ ショヴィ シューヴァ」という歌いまわしなどは、いかにもという感じだ。そもそもこの曲、作曲したのは「マシュ・ケ・ナダ」と同様に、ブラジルのシンガーソングライター、ジョルジ・ベン。しかも2曲とも原曲は、ベンのファースト・アルバム『サンバ・エスケーマ・ノヴォ』(1963年)に収録されている。ちょっとあからさまだが、柳の下に2匹目のドジョウはいないのである。
さらに云わせてもらうと、この『分岐点〜コンスタント・レイン』のトラックリストを観ると、ブラジル産の曲以外では、ジョニー・マンデルの「シナモン・アンド・クローヴ」ミシェル・ルグランの「ウォッチ・ホワット・ハプンズ」コール・ポーターの「夜も昼も」と、いずれもマスターピースなのだけれど、どちらかといえばジャズ寄りの曲ばかり。前作に収録されていたビートルズの「デイ・トリッパー」や、リトル・アンソニー&ジ・インペリアルズの「君に夢中」のようなポップ・ナンバーが入っていない。ぼくとしては、ブラジリアン・ナンバーも含めて、このセカンド・アルバムのなかなか奥深さのある選曲に親しみが湧くのだけれど、一般的なリスナーからすればちょっとマニアックなセレクションだったのかもしれない。
いずれにしても、セルメンは次回作に向けてテコ入れが必要と思ったのだろう。しかも彼ほどのひとだったら、人気が低迷することよりも、おなじ趣向が繰り返されて新鮮味を失うことのほうを懸念したと、ぼくは想像する。結局、セルメンは打開策を講じるわけだが、サード・アルバム『恋のおもかげ〜ルック・アラウンド』では、ビートルズの「ウィズ・ア・リトル・ヘルプ・フロム・マイ・フレンズ」やダスティ・スプリングフィールドの「恋のおもかげ」といったポップ・ナンバーを復活させるいっぽうで、バンド演奏にオーケストラを加えるという新機軸を打ち出したのである。アレンジャーには、アトランティックの作品も手がけたディック・ハザードとデイヴ・グルーシンが起用された。
セルメンとグルーシンとの見事なコラボレーションが生んだ傑作
特にセルメンにとって、デイヴ・グルーシンの存在は大きい。グルーシンは1967年から1979年ごろまで、セルメンのレコーディングにおいてオーケストレーションをずっと担当した。セルメン・サウンドをスウィートなものにしていたのは、彼のソフィスティケーテッドなアレンジメントだったと云っても過言ではない。途中『スティルネス』(1970年)のようにグルーシン抜きの作品もあるけれど、はっきり云ってもの足りない。セルメンはある意味でワールドクラスのブラジリアン・ミュージックをクリエイトしようとしていたように思われるのだけれど、その点でヴァーサティリティに富んだ音楽性を身につけたグルーシンは、彼にとって智謀に長けた腹心の部下のようなものだったのだろう。
セルメンはグルーシンと袂を分かったあと、ブラジル音楽はもちろんのことAORやソウル・ミュージックを基調に、グローバルなサウンドを展開していく。そんななか、1984年のロサンゼルス・オリンピックにちなんだ曲「オリンピア」が収録された、AOR路線のセルメンのソロ名義のアルバム『オリンピア(カンフェティ)』(1984年)において、久しぶりにかつての名コラボレーションが一度かぎりだが復活する。セルメンの奥さまであるグラシーニャ・レポラーセが歌う「幸せいっぱいのキッス」に、グルーシンが美しいストリングス・アレンジを提供しているのだ。この曲、ブラジルのシンガーソングライター、イヴァン・リンスが作曲した「カントール・ダ・ノイチ」が原曲。すでにリンスとグルーシンはここで関係していたのだ。とにかく、最高だ!
それはさておき、セルメンはときの移ろいとともに、バンド名をブラジル ’66からブラジル ’77、ブラジル ’88と変えていく。バンド名の変遷は、サウンドの移り変わりを示唆するもの。時代の流行や趨勢に敏感な彼はバンド・サウンドに、ロック、ポップス、ソウル、ラテンと幅広く音楽のエッセンスを採り入れていく。今世紀に入ると、ブラック・アイド・ピーズのウィル・アイ・アムをプロデューサーに起用し、ヒップホップまで導入したほど。2006年発表の『タイムレス』でのことだ。そういうエンターテインメント志向をもっているのにもかかわらず、彼の作品は奇を衒っているような印象を与えない。それどころか、そのサウンドはいつもクオリティが高い。そして、そんなオープンマインドな音楽性こそが、セルメンの最大の魅力なのである。
そういう意味ではぼくにとって、セルジオ・メンデスという音楽家は、クインシー・ジョーンズと並んで、音楽との向き合いかたをもったいぶらずに指南してくれるメンターのような存在だ。ここにあらためて敬意を表し感謝の意も込めて、ぼくの特に大好きなセルメンのアルバムを1枚ご紹介しておく。ぼくがセルメンを知ったのは、1970年に大阪で開催された日本万国博覧会において、ブラジル ’66の来日公演が行われたとき。テレビ放送でセルメンの演奏を観たとき、ぼくはまだクラシック音楽しか知らない幼稚園児だったが、いたく興奮していたらしい。その様子を見た父親が気をまわして、セルメンのレコードを買ってきてくれた。 それはブラジル ’66の6枚目のアルバムにあたる『イエ・メ・レ』だった。ぼくにとっては、いちばんの愛聴盤である。
来日記念特別新譜としてキングレコードが発売したゲートフォールド仕様の国内盤は『モーニン』というタイトルに改題されていた。アルバムのタスキに「ボッサのリズムがあなたをブラジルにします」と記されていたり、オーケストラのアレンジと指揮を担当したグルーシンのクレジットが“グラシン”となっていたり、時代を感じさせられる。メンバーは、セルメンとホール以外は『フール・オン・ザ・ヒル』からチェンジされていて、カレン・フィリップ(vo)、セバスチャン・ネト(b)、ドン・ウン・ロマン(ds, perc)、ルーベンス・バッシーニ(perc)となっている。またサポーターとして、オスカー・カストロ・ネヴィス(g)が参加している。本作は、選曲といいリズム・アレンジといい完成度が高く、オーケストレーションも高品質。ブラジル ’66時代では、音楽的にもっとも充実した作品と、ぼくは思う。
オープナーの「ウィチタ・ラインマン」はカントリー・シンガー、グレン・キャンベルのヒット曲。ここではオリジナルの厳粛なムードにトロピカルなサウンドとバウンシーなリズムが加えられ、得も云われぬ爽快感が生まれている。ビートルズの「ノルウェーの森」ではポリリズムとバッシーニの雄叫びが最高!メンデスによるローズのソロも熱い。アルゼンチンのピアニスト、セルジオ・ミハノヴィッチの「サム・タイム・アゴー」はシンプルなアレンジが優美なボサノヴァ。メンデスによるローズのバッキングのセンスが素晴らしい。アート・ブレイキーの「モーニン」はリズムがクロスするソウル・ナンバー。グルーシンのアレンジによるファンキーなオーケストラも効果的。本作においては、もっとも巧妙で異色のカヴァーと云える。
A面最後の「ルック・フーズ・マイン」は、マルコス・ヴァーリの「ジア・ジ・ヴィトーリア(勝利の日)」に、アラン&マリリン・バーグマンが英語の詩をつけたもの。グルーシンによってハートウォーミングなオーケストレーションが施され、よりスケールの大きなバラードに様変わりしている。アルバムのタイトルにもなっている「イエ・メ・レ」はブラジルのピアニスト、ルイス・カルロス・ヴィーニャスの曲だが、ここではエキゾチカ風のアレンジによりプリミティヴな魅力を放っている。ポップ・ロック・グループ、スリー・ドッグ・ナイトの「イージー・トゥ・ビー・ハード」は、意外にもストレートにソウルフルなグルーヴが強調されている。ナラ・レオンとエドゥ・ロボのデュエットで知られる「ジ・オンジ・ヴェンス」に壮大なイメージを加えられた「あなたは何処から」では、セルメン自身のジェントルな歌声を聴くことができる。
レオナード・ヘインズとロナルド・ローズによる「仮面舞踏会」における、マイナーなメロディック・ラインと、ボサノヴァにサンバをミックスするようフィーリングは、セルメンならではの推進力というか、お得意のパターン。つまり、もっともブラジル ’66らしい曲だ。そしてアルバムのラストを飾るのは、女性シンガーソングライター、ジャッキー・デシャノンの「世界は愛を求めている」(本作では「愛を求めて」となっている)。アップテンポのサンバ・ビートとグルーシンのダイナミックなアレンジが、楽曲のもつ世界を押し広げている。スリリングなムードから一転、意表を突くクラシカルなエンディングを迎えるが、まさにセルメンとグルーシンとの見事なコラボレーションである。ということで本作は、数あるセルメン作品のなかでも、もっとも音楽的な重厚感をもった作品。ぜひ多くのかたに、聴いていただきたい。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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