Claude Williamson / La Fiesta (1979年)

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俗に“白いバド・パウエル”と云われるジャズ・ピアニスト、クロード・ウィリアムソンの1970年代の佳作『ラ・フィエスタ』を楽しむ

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Album : Claude Williamson / La Fiesta (1979)

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日本のジャズ・ファンから愛されたピアニスト

 

 私事で恐縮だが、ふたりの娘たちに無事に受験を終えた暁には各々に個室を与えるという約束をしていたものだから、この機にぼくも部屋を移動することになった。愛用のソファとテーブル、オーディオ一式、レコードとCD、そして棚から溢れ出てうず高く積み重ねられた書籍を、妻に手伝ってもらい半日がかりでなんとか新しい書斎兼寝室に運び込むことができた。そういうときは、あらためて長らく聴いていなかったレコードが、目に留まったりするもの。そんなわけで、あまり細かなことに気を配らずに生活しているぼくといえば、このひとのアルバムを聴き直している今日このごろである。それは、俗に“白いバド・パウエル”と云われるジャズ・ピアニスト、クロード・ウィリアムソン(1926年11月18日 – 2016年7月16日)のレコードだ。

 

 ウィリアムソンといえば、必ずと云っていいほどパウエルが引き合いに出されるひと。それと因果関係があるのかどうかはわからないけれど、彼のリーダー作といえばトリオによる吹き込みが圧倒的に多い。トリオ好きのぼくにとっては、たいへん有り難いピアニストなのだけれど、大好物であるかといえば実はそれほどでもない。ウィリアムソンはヴァーモント州ブラトルボロという小さな町の出身で、アメリカ国内最古の音楽教育施設であるのと同時に、最難関の音楽大学とも云われるニューイングランド音楽院でクラシック・ピアノを学んだ。そのいっぽうで、テディ・ウィルソンアル・ヘイグ、そしてバド・パウエルの影響を受けて、見事にジャズ・ピアニストに転向した。それ故その演奏技術は、同時代のピアニストと比較しても抜群なのである。

 

 今回、レコード棚を移動させながら、思いのほか自分がウィリアムソンのLPを所持していることに気がついた。ちなみにCDではウィリアムソンの作品を1枚ももっていないのだけれど、そのことからぼくが彼のアルバムを一時期に集中して聴いていたことがわかる。それは、1980年代から1990年代にかけてのこと。ぼくがジャズ・ピアノを独学しはじめたころ、ウィリアムソンは日本においてなかなかの人気を博していた。当時ぼくはソニー・クラークウィントン・ケリー、あとトミー・フラナガンのレコードを聴いて採譜し、自分なりにスウィングすること、アドリブすることを学んでいた。ただフラナガン以外は、白玉楼中のひとと化していた。フラナガンは、バリバリの現役だった。

ごろ寝する男の子とそばに横たわるパンダ

 トミー・フラナガンもまた、日本において高い評価を得たピアニスト。フラナガンがレジー・ワークマン(b)、ジョー・チェンバース(ds)をサイドメンとして迎えたザ・スーパー・ジャズ・トリオや、ロン・カーター(b)、トニー・ウィリアムス(ds)と組んだザ・マスター・トリオなどの作品は、各々ベイステイト、ベイブリッジといった日本のジャズ専門のレーベルからリリースされたもの。ところがそんな彼も、いまとなっては信じ難いことかもしれないけれど、本国ではリード・ミュージシャンとしての評価はあまり高くなく、どちらかというとアカンパニストとしての能力が認められるばかりだった。フラナガンのように淡々と美しいフレーズを紡ぎ出していくようなタイプのピアニストは、まさに日本人好みなのだけれど──。

 

 クロード・ウィリアムソンもまた、日本のジャズ・ファンから愛されたピアニストだ。特に1970年代の後半から立てつづけにリリースされたインタープレイ盤の数々は、たいへん好評を博した。インタープレイ・レコードは、1977年にカリフォルニア州ロサンゼルスにおいて妙中俊哉フレッド・ノースワーシーとが共同で立ち上げたジャズ専門のレーベル。輸入盤は簡単に入手できたし、一部の作品は国内仕様のレコードもリリースされていた。ぼくの場合もウィリアムソンの作品は、ほぼリアルタイムでインタープレイ盤から聴きはじめた。いまから思うと、当時モダン・ジャズはフュージョンにいささか押されがちだった。それにも拘らず、フラナガンやウィリアムソンのようなピアニストのアルバムが評判になるのだから、日本のリスナーは素晴らしい!

 

 はじめてウィリアムソンの演奏を聴いたときにぼくが受けた彼の印象といえば、いかにもウェストコースト・ジャズっぽい明瞭でサッパリしたタッチと、イーストコースト・ジャズにも引けをとらないブルージーなフィーリングを兼ね備えたピアニストというようなものだった。つぎつぎにスタンダード・ナンバーを疾走感溢れる鍵盤捌きで弾きこなしていくさまは、実に胸がすくほど気持ちがいい。それはある意味でモダン・ジャズの本流を行くような演奏とも捉えられるのだけれど、そうかといって馥郁たるハード・バップの香りが漂うようなことはほとんどない。即興演奏におけるシングル・トーンのホリゾンタルなラインは、モダンでもありエレガントでもあるのだけれど、それは同時にクセがないとも解釈できる。

 

 おそらくそのあたりが、ぼくがクロード・ウィリアムソンというピアニストに好感をもちながらも、決して夢中にはならないことの、最大の原因だろう。アップテンポで縦横無尽にドライヴするインプロヴィゼーションといい、ゆったりしたバラードなどで美的感覚を遺憾なく発揮させるエクスプレッションといい、ウィリアムソンのピアノ・プレイはいつでも及第点以上。エキセントリックなところなど微塵もなく、むしろ高いインテリジェンスや深いリラクゼーションが横溢する、聴きやすいものである。なるほど右手が打ち出す力強い高速のシングル・トーンには、ときおりビバップを感じさせることもあるけれど、そうかといってバド・パウエルのプレイのように鬼気迫るような感じはない。

 

 反論を受けるかもしれないけれど、ぼくにとってウィリアムソンのジャズ・ピアノの魅力といえば、まさにそんな聴きやすさに尽きるのである。確たるテクニックと軽妙なセンスをもってして、小難しいことは一切抜きに、かといって甘さに流されることなくしっかりスウィングする彼のピアニズムは、ぼくにも贅沢な時間を与えてくれる。たださきに挙げたソニー・クラークウィントン・ケリートミー・フラナガンといった、ぼくが敬愛するピアニストと比較すると、ウィリアムソンのプレイに一目瞭然ならぬ一聴瞭然の強い個性を見出すのは極めて困難なことと云える。そこでウィリアムソンの奏でる音楽との向き合いかたにおいて、ぼくは一計を案じた。すなわち、そのクセのなさをひとつのスタイルと捉えることにしたのである。

 

彼のアイドルはバド・パウエル だった

 

 いままさにそんな気構えで、ぼくはウィリアムソンのアルバムを聴き直しているのだけれど、実に心地いい時間を過ごしている。インタープレイ盤はもちろんのこと、その後のヴィーナス盤、さらには時間を遡って1950年代半ばから1960年代初頭までの作品も楽しんでいる。すると時代の趨勢とともに、ウィリアムソンが自身の敬愛するピアニストのプレイからの影響を隠そうともせず、それに一歩でも近づこうとしていることがよくわかる。そういう前向きな姿勢というか青雲の志を抱くようなところから、ウィリアムソンは謹厳実直なひとと思われる。そんな彼のことが、ぼくはまたちょっと好きになってしまったのだけれど、その点において欧米での評価はかなり低かったらしい。

 

 7歳からピアノをはじめ、しばらくクラシック音楽に夢中だったウィリアムソンは、16歳のときにはじめて購入したテディ・ウィルソンのレコードで、ジャズに興味をもつ。高校を卒業するころにはドラマーである父親のバンドで、ポルカやスウィング・ジャズも演奏した。ニューイングランド音楽院に在学中、バド・パウエルの演奏を聴きこころを揺さぶられ、ジャズ・ピアニストの道を進むことを決意。1947年には西海岸で活躍するサクソフォニスト、チャーリー・バーネットをリーダーとするビッグ・バンドの一員となり演奏ツアーを体験する。その後3年ほど、彼は同バンドでバッパーとしての腕を磨いた。ということでウィリアムソンは、パウエルとバーネットとの両者によってジャズ・プレイヤーへの道を決定づけられたとも云える。

 

 1950年代に入るとウィリアムソンは、スタン・ケントン楽団で活躍した女性シンガー、ジューン・クリスティをアレンジャー兼アカンパニストとしてサポートしたり、カリフォルニア州ハモサビーチにある老舗ジャズ・クラブ、ライトハウス・カフェのハウス・ピアニストを務めたり、バド・シャンク・クァルテットのメンバーとして活躍したりして、徐々に知名度を上げていく。そんななか、キャピトル・レコードからリリースされた彼の初期のリーダー作『キーズ・ウェスト』(1955年) において、ウィリアムソンはパウエルへ一直線につながるようなプレイを披露している。マックス・ベネット(b)とスタン・リーヴィー(ds)、バディ・クラーク(b)とラリー・バンカー(ds)といった、ふたつのサイドメンを従えての演奏だ。

ごろ寝する男の子とそばに仰向けで寝るパンダ

 このアルバムを聴くと、ウィリアムソンがいかにパウエルを敬愛していたかが、ストレートに伝わってくる。西海岸のアーティストでありながら、ウィリアムソンのここでのプレイにはビバップのスタイルが強く意識されている。それは1970年代の後半以降のモダンでエレガントな彼の演奏とは、明らかに趣きを異にするものだ。アメリカ本国やヨーロッパ諸国において、ウィリアムソンが所詮パウエルの模倣者と一蹴されるようになるのは、この作品に観られるような彼のスタイルが契機となっているのだろう。ただぼくにはどうしても、ウィリアムソンというピアニストが単なるパウエルのエピゴーネンには思えない。彼がパウエルのような演奏をしているのは間違いないのだが、それにあざとさは露ほども感じられないのである。

 

 むしろぼくは、ウィリアムソンのプレイに、彼のパウエルに対する尊敬の眼差しと海よりも深い愛を感じてしまう。その漠然とした感じがなんともまあ、微笑ましいのである。ちなみに、ジャズ評論家で吉祥寺のジャズ喫茶MEGのマスターとして知られる寺島靖国が、ウィリアムソンが1994年に初来日した際、彼に「自分で考えるあなたのベスト1位は?」と訊いたところ、インタープレイ盤の『クレオパトラの夢』(1978年)であるとの答えが返ってきたという。なるほど、確かにこのアルバムでのウィリアムソンの演奏からは、地に足のついたスウィング感と味わい深いブルース感覚がナチュラルに伝わってくる。パウエルをはじめとする彼が敬愛するアーティストのナンバーを、ウィリアムソンはよく咀嚼しすっかり消化させたうえで、無理なく新たな息吹をもたらすかのごとくプレイしている。

 

 このインタープレイ盤を聴いているとぼくは、もはやウィリアムソンに対してパウエル門下の俊英のような観かたをするのは、彼にたいへん失礼であるとさえ思えてくる。そもそも、くだんの『キーズ・ウェスト』におけるウィリアムソンにしたって、“パウエル好き好き大好き”アピールをガンガンしているように感じられるけれど(失礼な云いかたで申し訳ない)、当時のパウエルと比較してもテクニックにおいてなんら遜色ないと、ぼくは思う。それはドン・プレル(b)、チャック・フローレス(ds)を従えた『クロード・ウィリアムソン・トリオ』(1956年)、さらにレッド・ミッチェル(b)、メル・ルイス(ds)をサイドに迎えた『ラウンド・ミッドナイト』(1957年)といったベツレヘム・レコードに残された2枚のトリオ作においてもまた然りである。

 

 それらの1950年代の作品でのウィリアムソンには、確かに“白いバド・パウエル”といった趣きがあるけれど、そのプレイには目立ったミス・タッチもほとんどなく、むしろパウエルの演奏よりも淀みのない美しさが感じられる。反感を買うことを承知の上で云うと、パウエルの鬼気迫るようなパフォーマンスよりもウィリアムソンの気品のあるフレージングのほうが断然聴きやすい。その点を暖簾に腕押しと感じる向きが少なくないなかで、音楽プロデューサーの妙中さんにしても、辛口批評も辞さない寺島さんにしても、そういう特徴こそがウィリアムソンの魅力といち早く察知していたのだから、ぼくのような未熟者はこの偉大なる先達たちに、ただただ敬服するばかりである。

 

 それはそうと1960年代のウィリアムソンはといえば、カリフォルニア州ビバリーヒルズのプッチーニ・レストランでの演奏を機に、ハリウッドのマイナー・レーベル、コントラクト・レコードに2枚のリーダー作を吹き込んでいる。プッチーニがフランク・シナトラのライヴで人気の店だったことから、ウィリアムソンはシナトラの愛唱曲をまとめたアルバムをレコーディングすることになったのだ。それがコントラクト盤の1枚『ザ・ファビュラス』(1961年)で、デューク・モーガン(b)、チャック・フローレス(ds)を従えたトリオによる吹き込みだ。いっときはファン垂涎の1枚などと云われていたらしいけれど、ぼくがウィリアムソンのレコードを集中的に聴いていたころは、フレッシュ・サウンド、DIW、ノーマなどのレーベルによってリイシューされていた。

 

聴き慣れたナンバーが、揺るぎない安定感のある演奏で披露される

 

 もう1枚のコントラクト盤も同様に手軽に入手することができるような状況だったけれど、この『シアター・パーティ』(1962年)というアルバムもまたコンセプチュアルな作品だ。アルバム・タイトルからも想像されるように、これは吹き込み当時ブロードウェイで上演されていた4つミュージカルからのヒット・ナンバーがまとめられたもの。日本のリスナーにはあまり馴染みのない曲ばかりだが、人気ミュージカルの楽曲だけあってどれも美しい旋律をもっており、とても親しみやすい。それらは、ジョー・モンドラゴン(b)、フランク・キャップ(ds)、さらにオスカー・ピーターソンのグループで名を馳せた名手、ハーブ・エリス(g)が参加したクァルテットで演奏された。なかでもエリスの好プレイが、際立っている。

 

 この2枚のコントラクト盤について特筆すべきは、それまでのウィリアムソンのプレイとは異なり、彼の紡ぎ出すフレーズや醸し出すムードにパウエルの影がチラつくような箇所が極めて少ないということ。云い換えれば、ここでのウィリアムソンは即興演奏が主体のビバップと相反するような、リラックスした軽快なプレイに徹している。ありていに云うと、それはウェストコースト・ジャズ然とした演奏なのである。ぼく自身もこれらのアルバムをはじめて聴いたときは、思いもよらぬ展開に驚かされたものだが、それはウィリアムソン自身にとっても、本懐を遂げるようなパフォーマンスではなかったようだ。そうはいっても、ビジネスライクなレコーディングにおいても彼のピアノ演奏は総じて高い水準にあるのだから、流石と云うしかない。

 

 なにも長くて複雑なインプロヴィゼーションと斬新で奔放なエクスプレッションだけが、ジャズの魅力というわけではない。たとえ演奏法や展開の仕方に抑制が効いたスタイルのジャズであっても、リズムやアーティキュレーション、フルーエンシーからダイナミクスに至るまで、音楽が有する本来のもち味を十分に堪能することができるのである。2枚のコントラクト盤は、確かにウィリアムソンにとっては自己存在を証明するものではなかったかもしれないけれど、必ずやスウィングすることの意味を知り抜いたリスナーからは、実に心地いいソフトなジャズ作品として歓迎されるであろう。なにせウィリアムソンのピアノ・テクニックは、こういう気軽に楽しめるような音楽においても、アルバム・タイトルにもあるようにファビュラスなのだから──。

ごろ寝する男の子とそばに背を向けて寝るパンダ

 ところがそれ以降のウィリアムソンといえば、ジャズ・シーンの第一線からすっかり遠ざかった印象を与える。1960年代の彼はもっぱらスタジオ・ミュージシャンとして活躍し、特にヘンリー・マンシーニピート・ルゴロのフィルム・スコアのレコーディングに参加したことはよく知られている。1960年代の後半には、NBCの人気テレビ番組『アンディ・ウィリアムス・ショー』の音楽監督も務めている。さらに1970年代に入ってからもウィリアムソンのテレビジョン・ワークスはつづき、ABCのトーク番組『ダニー&マリー』やCBSの音楽バラエティー・ショー『ザ・ソニー&シェール・コメディ・アワー』において、アレンジャー、ピアニストとして腕を振るった。

 

 そんなウィリアムソンがジャズ・シーンにカムバックするのは1977年のことである。彼は前述の『シアター・パーティ』からおよそ15年ぶりに新作を発表する。妙中さんがカリフォルニア州カラバサス市において立ち上げたシーブリーズ・レコードからリリースされた『ウィロー・ウィープ・フォー・ミー』(1977年)がそれである。ボブ・マグナッソン(b)、チャック・フローレス(ds)をサイドに据えたトリオ作品だ。復帰第1作ということもありウィリアムソンのコンディションはいまだパーフェクトには戻っていないようだけれど、かつてないモダンでエレガントな響きをもつ彼のストレート・アヘッドなプレイには、フレッシュな魅力がはじけている。なおシーブリーズ・レコードは、間もなくレーベル名をインタープレイ・レコードに変更する。

 

 ぼくはウィリアムソンのアルバムではインタープレイ・レコードの作品にもっとも親しみを感じるのだけれど、特にサム・ジョーンズ(b)、ロイ・ヘインズ(ds)と組んだトリオでの吹き込みが好きだ。前述の『クレオパトラの夢』や未発表音源がまとめられた『ブルース・イン・フロント』(1991年)も、同一メンバーによる作品である。そしてもう1枚、このトリオでレコーディングされた『ラ・フィエスタ』(1979年)に、ぼくは今回の聴き直しでもっとも好感をもった。レコーディングは1979年8月6日、ニューヨーク市のサウンド・アイディアス・スタジオで行われた。ウィリアムソンのフェイヴァリット・ピアニストの楽曲、ぼくにとってもごく聴き慣れたナンバーが、揺るぎない安定感のある演奏で披露されているのが嬉しい。

 

 オープニングの「ラ・フィエスタ」は、チック・コリアの『リターン・トゥ・フォーエヴァー』(1972年)に収録されていた曲。フラメンコ調のリズムは原曲どおりだが、ウィリアムソンのピアノはそれほどエキゾティックではなく、むしろクラシカルに響く。精力的でありながらソツがないところに、彼の知性が感じられる。ヘインズのハイハット・ワークとパワフルなソロが印象的だ。ソロ・ピアノで演奏される「ザ・ラヴ・オブ・チャイルド」は、ウィリアムソンの自作曲だが、まるでフランス映画のテーマ曲のように淡く儚げな美しさがこころにしみ入る。ロン・カーターが書いた「ファースト・トリップ」は、ハービー・ハンコックの『スピーク・ライク・ア・チャイルド』(1968年)に収録されていた曲。サッパリしたタッチと、ブルージーなフィーリングは、まさにウィリアムソンらしいピアニズムだ。

 

 キース・ジャレットの「イン・ユア・クワイエット・プレイス」は、ポップ・サウンドが独特の『キース・ジャレット&ゲイリー・バートン』(1971年)からのナンバー。ゆったりしたロック・ビートに乗ってちょっとファンキーなフレーズを綴るウィリアムソンであるが、決して野卑なコトバ遣いにならないのが彼らしい。ホレス・シルヴァーの名曲「ニカの夢」は、本人も何度か演っているけれど初出は『ザ・ジャズ・メッセンジャーズ』(1956年)だろう。ここではヘインズが繰り出すアフロなリズムとウィリアムソンのメロディアスなソロとのコントラストが面白い。ハンプトン・ホーズの「ブラック・フォレスト」は、彼の『スパニッシュ・ステップス』(1971年)でのヴァージョンが、そのままテンポを落として演奏されたような感じだが、その寛いだ感じがいい。ジョーンズとヘインズのソロのオマケもついていて、ソファでゴロ寝しながら聴くのにはちょうどいい。ところでパウエルはどこへいったのだろう?

 

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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