Michael Jackson / Off The Wall (1979年)

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巧妙なレコード制作におけるパーフェクトな作品『オフ・ザ・ウォール』は、実はマイケル・ジャクソンの最高傑作?

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Album : Michael Jackson / Off The Wall (1979)

Today’s Tune : Off The Wall

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アルバム・プロデュースを務めたクインシー・ジョーンズとは──

 

 はじめにお断りしておくが、ぼくはマイケル・ジャクソンの熱狂的な支持者というわけではない。彼のアルバムもさほど聴いてはいない。したがってその数々のヒット曲にも、特別な愛着をもつ機会はほとんどなかった。もちろん彼が“キング・オブ・ポップ”という敬称で云い表されることは知っているけれど、知っているのはそれくらいのもので、度々語られる伝説的なエピソードに関しても「へえ、そうなんだ」と、まったくよそ事として感心するばかりだ。さらに云えば、彼のパフォーマンス、特にダンスやファッションについて、これまでことのほか取り沙汰されてきたが、それらに関して、ぼくは申し訳なくなるくらい興味がわかなかったのである。

 

 それでも(便宜上ファーストネームで呼ぶが)マイケルのレコードは、ぼくにとって手にとるべくして手にとったものである。ただそれは、ソロ・アルバムとしてはエピック・レコードへの移籍第1作にあたる『オフ・ザ・ウォール』(1979年)のみと云えるかもしれない。そのあとに発表された『スリラー』(1982年)などは、“史上最も売れたアルバム”としていまだに語り継がれているけれど、いまひとつ、ぼくのこころには響いてこなかった。しかもぼくは、この『スリラー』を購入してから間もなく、ビリー・ジョエルの『ナイロン・カーテン』(1982年)とともに、ぼくのバンドでベースを弾いていた後輩のTくんに貸してしまった。そしてその2枚は、いまだぼくのもとに返ってこない。

 

 まあ、すでに時効とあきらめてもいるし、所詮ぼくにとって『スリラー』はその程度のものだったのだろう。強いて云うならば『ナイロン・カーテン』については、ぼくの敬愛するデイヴ・グルーシンがホーンズとストリングスのアレンジャーとしてクレジットされていることから、ちょっと後ろ髪を引かれる思いもある。それはともかく、いくらギネス世界記録(2012年)において売上枚数7,000万枚の認定を受けるほどのヒット作とはいえ、ぼくには『スリラー』に『オフ・ザ・ウォール』ほどの魅力は感じられないのだ。逆の云いかたをすれば、それだけ『オフ・ザ・ウォール』を優れた作品と、ぼくは評価しているのである。その理由について、マイケルをこよなく愛するかたからすれば、まるでトーシローだけれど、ぼくなりにお伝えしてみる。

マイケル・ジャクソンのシルエット

 ぼくが『オフ・ザ・ウォール』にこだわるのは、この作品のプロデュースを手がけたのが、クインシー・ジョーンズだからだ。彼はいまでさえ音楽プロデューサーのビッグネームとして周知されているが、もとはジャズのトランペッターだった。演奏の腕はそれほどでもなかったのだろう、ライオネル・ハンプトン楽団に在籍しているころから、彼は次第に書くことに集中するようになる。彼は多くのアーティストの作品に優れたスコアを残しているが、カウント・ベイシー楽団の『ディス・タイム・バイ・ベイシー』(1963年)のアレンジは特に秀逸。1950年代〜1960年代のポップ・ナンバーを、見事にフレッシュな感覚のスウィング・チューンに料理しているのだ。

 

 それとおなじころ、(やはりファーストネームで呼ぶが)クインシーは女性シンガー、レスリー・ゴーアの『アイル・クライ・イフ・アイ・ウォント・トゥ』(1963年)において、早くもプロデュース業に進出している。このアルバムに収録されている「涙のバースデイ・パーティ」は、全米1位を記録するほどの大ヒット曲となった。アレンジャーとしてクラウス・オガーマンを起用しているところも、目を引く。さらにその2年後、彼はシドニー・ルメット監督の映画『質屋』(1965年)の音楽を担当している。無論サウンドはジャジーだけれど、それだけにとどまらない幅広い音楽性が感じられるスコアだ。このサントラ盤もゴーアのアルバムも、ともに当時クインシーがミュージカル・ディレクターを務めていた、マーキュリー・レコードからリリースされた。

 

 なぜ、こんなにも遠く過ぎ去った出来事からあれこれ思い返したのかというと、クインシー・ジョーンズという音楽家が、1960年代から早々とアレンジャー、プロデューサー、そしてコンポーザーとして多方面で際立った才能を発揮していたことを、お伝えしたかったから。上記の3枚のアルバムは、彼のことを語るときに外すことのできない非常に重要な作品と、ぼくは考える。ただ、そう確信するのは彼のことを知ってからちょっとあとのことで、ぼくがはじめてクインシー・サウンドに触れたのは1970年代後半のことだ。リーダー・アルバムでいうと『バッド・ガール』(1973年)が、最初に手にとった作品だった。興味をもった理由は、ぼくのもっともリスペクトする音楽家、ボブ・ジェームスデイヴ・グルーシンが揃って参加していたからだ。

 

 ぼくがクインシーの音楽からもっとも影響を受けたのは、A&Mレコードの作品群において。同レーベル第1作『ウォーキング・イン・スペース』(1969年)などは、イノヴェイティヴなジャズ・オーケストラ作品として、いま聴いてもフレッシュに響く。このアルバムから彼のオーケストラにおいて、ボブ・ジェームスがキーボーディスト、アレンジャーとして、重要な役割を果たしている。デイヴ・グルーシンのほうは前述の第4作『バッド・ガール』から参加し、第6作『メロー・マッドネス』(1975年)からはジェームスが抜けグルーシンのキーボードとアレンジがオーケストラの中核をなす。サウンド的には、ジャズ色がどんどん薄くなり徐々にリズム・アンド・ブルースにアプローチするようなになる。

 

クインシーにとっては飛躍、マイケルは確固たるアーティストへ──

 

 クインシー・ジョーンズは、それまでのA&M時代の作品の集大成ともいえる第7作『アイ・ハード・ザット!!』(1976年)をリリースしたあと、新たなサウンドへの飛躍を期す。その過渡期の作品が第9作『スタッフ・ライク・ザット』(1978年)と、ぼくは捉えている。たとえば、リズム・セクションにリチャード・ティー(key)、エリック・ゲイル(g)、スティーヴ・ガッド(ds)といった、人気フュージョン・グループ、スタッフのメンバーが据えられている。また、当時ファンキー・ディスコに傾倒しはじめていたハービー・ハンコックの楽曲や、彼自身によるフェンダー・ローズが大きくフィーチュアされたりもしている。これらは、クインシーのオーケストラではイレギュラーなことで、彼のニュー・サウンド志向を示唆するものである。

 

 結果的に、それまでのジャズからR&Bへ進化しつつあったクインシー・サウンドは、オーケストラルな部分はそのままだが、よりファンキーでソリッドなフィーリングが極まった。だが彼が理想とする音楽を具現化するという大願は、これで成就されたわけではなかった。そして、ぼくがクインシーが稀代の天才的音楽家であると思い知らされるのは、実はこのあとのことなのである。引き合いに出して申し訳ないが、クロスオーヴァー/フュージョン・シーンの一時代を築いたCTIレコードの創設者、クリード・テイラーは確かに名プロデューサーだった。前述の『ウォーキング・イン・スペース』とA&Mレーベル第2作『グラ・マタリ』(1970年)では、実はテイラーがプロデューサーを務めている。

 

 クリード・テイラーは、ジャズをポピュラライズするということをモットーに掲げていた。よって彼が手がけた作品のほとんどが、ジャズ・ミュージシャンのものだった。逆の観かたをすると、テイラーはジャズという音楽の枠から逸脱することができなかったとも云える。その点から、彼の音楽プロデューサーとしての才能に、ぼくは限界を感じてしまうのだ。音楽が一般大衆の間に広くいきわたり、誰からも親しまれるものになる──という大きな理想は、もちろんテイラーも抱いたことだろう。しかしながら結局のところ、彼は最後までジャズに拘泥こうでいしつづけてしまった。それに対してクインシーは、云いいかたはよくないが、ジャス出身の音楽家でありながら不要とあらばジャズを切り捨てることができるひとだ。

指揮者とトランペッターのシルエット

 クインシーのこころは、音楽に対していつでも開かれている。そこがスゴイのだ。常に良質な音楽作品を制作することに徹し、特定のジャンルにこだわることもないし、プレイヤー、コンポーザー、アレンジャーとしての自分をことのほかアピールすることもない。彼は優れた人材に恵まれれば、それらの役割をいさぎよいほど有能なミュージシャンに与えてしまう。驚くべきは、クインシー自身がオーガナイザーの立場にとどまっているのにもかかわらず、トータル・サウンドからはリスナーを圧倒するような彼のオーラが感じられること。その典型が、ちょうどA&Mレーベル第10作にあたる『愛のコリーダ』(1981年)だ。このアルバムは、もはやジャズを意識する必然性などどこにもないポップ・チャートを賑わすようなものであり、彼が理想とする音楽のプロダクション・モデルとも云える。

 

 そのサウンドの重要なマテリアルといえば、グレッグ・フィリンゲインズ(key)、ルイス・ジョンソン(b)、ジョン・ロビンソン(ds)による、安定感と強力な律動感を備えたリズム・セクション、ハワイ出身のフュージョン・バンド、シーウィンドのメンバーによる、ジェリー・ヘイ(tp, flh)を中心としたエッジの効いたホーン・セクション(ザ・シーウィンド・ホーンズ)、活動の拠点をロンドンに置く多国籍バンド、ヒートウェイヴのキーボーディスト、ロッド・テンパートンによるポップなディスコ・ファンクを極めるソングライティングなどが挙げられる。クインシーはなにをやっているのかといえば、強烈なビートに乗ってダンスしているだけ。

 

 まあ、いまのは冗談だけれど、彼は飽くまでまとめ役だからトータル・サウンドのコーディネートに注力するばかり。実際“サントリービール・サウンド・マーケット81”と銘打たれた1981年の日本公演において、クインシーは舞台のど真ん中に陣取りコンダクティングそっちのけで踊っていた。それだけオーケストラのメンバーに信頼を置いていたのだろう。それはともかく、このファンタスティックなマテリアルの集合から、ルーファス&チャカの『マスタージャム』(1979年)、ザ・ブラザーズ・ジョンソンの『ライト・アップ・ザ・ナイト』(1980年)、ジョージ・ベンソン(g, vo)の『ギヴ・ミー・ザ・ナイト』(1980年)、パティ・オースティン(vo)の『デイライトの香り』(1981年)などの名作が生まれた。そしてマイケルの『オフ・ザ・ウォール』もまた、それらに連なる作品。しかも、そのファースト・ワークである。

 

 なんだかクインシーのことばかり語っているが、ぼくが『オフ・ザ・ウォール』に特別な関心を寄せるのは、その非の打ちどころのないレコード・プロダクションから。はじめてこのアルバムを耳にしたとき、それはそれは強烈な印象を受けたもの。マイケルのリーダー作としても本作は、それまでのモータウン・レコードの4枚のアルバムと比較すると、音楽のクオリティは格段に高い。いささかニュアンスは異なるが、巧妙なレコード制作においてここまでパーフェクトな作品といえば、ほかにはドナルド・フェイゲン(key, vo)の『ナイトフライ』(1982年)くらいしかすぐには思い浮かばない。とにもかくにも、マイケルはこのアルバムをものすることによって、見事にそれまでのアイドル路線から脱却し確固たるアーティストへ転身したのである。

 

1970年代のソウルを1980年代の新たなステージへ引き上げた

 

 そういった意味では、マイケル・ジャクソンの音楽人生を変えたのはクインシー・ジョーンズとも云える。クインシーは『オフ・ザ・ウォール』のあとも前述の『スリラー』や『バッド』(1987年)といったマイケルのアルバムにおいてプロデューサーを務めるが、もしその俗に云う三部作がなかったらマイケルがポピュラー音楽界の頂点に立つことはなかったかもしれない。さらに過去にさかのぼると、マイケルがダイアナ・ロスと共演したミュージカル映画『ウィズ』(1978年)の音楽監督をクインシーが務めていなかったら、三部作が生まれることすらなかっただろう。ちなみに、このサウンドトラックでクインシーは寵愛するミュージシャンたちを総動員している。その膨大な人数が故にここに列記することは不可能だが、ボブ・ジェームスデイヴ・グルーシンもしっかり参加している。

 

 ときに『オフ・ザ・ウォール』はまえにも述べたように、クインシーが各方面から選び抜いた逸材の集合体によるファースト・ワーク。そのサウンドをはじめて聴いたときのことは、ぼくにとっても実に刺激的な体験で、いまもって鮮烈な記憶として残っている。アルバム冒頭のマイケルのオリジナル「今夜はドント・ストップ」は、シンプルなコード進行でありながらダイナミックな雰囲気を与えるアップビートなナンバー。華麗にうねりを打つストリングスが印象的。弦のアレンジを担当したベン・ライトは、グラディス・ナイト&ザ・ピップスバリー・ホワイト&ザ・ラヴ・アンリミテッド・オーケストラを手がけたひとだけれど、こういうキャッチーな味付けはほんとうに上手い。

 

 3曲目のやはりマイケルの自作曲「ワーキン・デイ・アンド・ナイト」にもおなじことが云える。どちらかというと、まるでルイス・ジョンソンによるスラップ・ベースがメインのような、モノトーンなダンス・ミュージック。しかし、ライトのストリングスとジェリー・ヘイのブラスが、単純な構成の曲に壮大なスケール感を与えているのである。つづくマイケルとジョンソンの共作「ゲット・オン・ザ・フロアー」も、おなじパターン。ただしこの曲では、リズムパートが勢いを増す。テンポは前曲より一段とアップし、ジョンソンのサムピングはどんどんエスカレートする。パウリーニョ・ダ・コスタのコンガも小気味よく、マイケルのラップもヒートアップする。

4人の踊る女性のシルエット

 以上3曲はレコードではSide-Aに収録されているが、その結果、こちらの面はストロング・ビート・サイドとでも云いたくなるような趣きを呈している。ところが、Side-Bはポップな感覚に富んだ楽曲が並ぶ色彩豊かな構成となっている。ポール・マッカートニー&ウイングスのヴァージョンでも知られるハートウォーミングな「ガールフレンド」もともとフランク・シナトラのためにトム・バーラーが書いた泣けるバラード「あの娘が消えた」いかにもスティーヴィー・ワンダーらしいソフィスティケーテッドな書き下ろし「アイ・キャント・ヘルプ・イット」キャロル・ベイヤー・セイガーのAORナンバーのカヴァー「それが恋だから」と、あらためてマイケルの歌唱力の素晴らしさを知ることができる。

 

 個人的には「あの娘が消えた」「アイ・キャント・ヘルプ・イット」における、数多くの映画音楽を手がけた作編曲家ジョニー・マンデルによる、つましくも効果的で美しいストリングスのアレンジを見逃すわけにはいかない。なお「アイ・キャント・ヘルプ・イット」はすごく好きな曲なのだけれど、キーボーディストでありクロマティック・ハーモニカ奏者でもある西脇辰哉がリーダー作『アトモスフィア』(2000年)においてカヴァーしている。楽曲の洗練された雰囲気がそのまま活かされた、素敵なインストゥルメンタルに仕上がっているので、機会があればぜひとも聴いていただきたい。また「それが恋だから」には作曲者であり原曲にも関わったデヴィッド・フォスターがシンセとリズム・アレンジで参加している。

 

 上記の曲の合間に、当時のクインシー・サウンドをシンボライズするロッド・テンパートンの楽曲がちりばめられている。ルーファスのリズム隊をフィーチュアしたバックビート・スタイルの「ロック・ウィズ・ユー」ミステリアスなムードとシンコペーテッドなベースラインがセクシーな「オフ・ザ・ウォール」ギターのファンキーなリフとブラスのスタッカートが際立つダンサブルな「ディスコで燃えて」といった3曲である。特に「オフ・ザ・ウォール」ジェリー・ヘイによる実に無駄なく効果的なホーン・アレンジが素晴らしい。適宜適切な入れかた、重ねかたは、個人的には大いに勉強になった。なお、その後テンパートンは、クインシー関連の作品以外にもボブ・ジェームスハービー・ハンコックマンハッタン・トランスファーなどのアルバムに楽曲を提供し、時の人となった。

 

 以上、最初に申し上げたとおり、マイケルのことはほとんど語らなかったが、実は『オフ・ザ・ウォール』は、彼の幅広い音楽性と豊かな才能、そして優れたヴォーカルのテクニックが発揮されたアルバムと、ぼくは思っている。それを引き出したクインシーにとっても、チャレンジ精神に富んだエクスペリメンタルな作品だった。結果的に本作は、1970年代のソウル・ミュージックやディスコ・ブームを、1980年代の新たなステージへ引き上げる役割を担った。そういう意味でも『オフ・ザ・ウォール』を、ぼくは大傑作だと思うし、そこにあるマイケルのカナリアがさえずるよりもよくとおる声、そして赫焉かくえんとして燃え出すようなソウルフルな歌唱を、それ以降の彼のヴォーカルと比べても、もっとも魅力的と感じるのである。

 

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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