不世出の天才音楽家、深町純とフレッシュな魅力に溢れたニューヨークの生え抜きミュージシャンたちとの出会いが生んだ『深町純&ザ・ニューヨーク・オールスターズ・ライヴ』
Album : 深町純&ザ・ニューヨーク・オールスターズ / Jun Fukamachi & The New York All Stars Live (1978)
Today’s Tune : Love Play
深町純&ザ・ニューヨーク・オールスターズとはどんなバンド?
フュージョン系のアルバムは、聴き手の立場で大きく分けると、2タイプになると思われる。これはその音楽の特性から発生する事態なのだろうが、敢えてフュージョン作品を大別すると、ひとつはコンポジションやアレンジメントに意匠の凝らされた楽曲を楽しむもの、もうひとつは格別な技巧が駆使された、あるいは優れた能力が発揮された演奏(特に即興演奏)を味わうものとなる。平たく云うと、曲を聴くものと演奏を聴くものとに分けられる──ということになる。むろん両方のもち味を、バランスよく兼ね備えたアルバムもある。まあぼくの場合、たとえばボブ・ジェームスやデイヴ・グルーシンのアルバムのように、トータル的に均衡のとれた作品が好きなのだけれど──。
ところで、フュージョン史に残る名盤と云われる『深町純&ザ・ニューヨーク・オールスターズ・ライヴ』(1978年)は、どちらかというと演奏を聴くアルバムとして分類されるものだろう。1978年9月後楽園ホールおよび東京郵便貯金ホール(現在のメルパルクホール)で行なわれた、伝説のライヴの実況録音盤。いまとなっては再現不可能な超豪華メンバーによる熱い演奏は、あたかも真空パックされたかのように、いま聴いてもフレッシュかつヴィヴィッドに響く。2枚組レコードのジャケットに付されたタスキには「これこそ最先端のニューヨークサウンド!!アメリカでも実現不可能な、フュージョン・ミュージックのV.S.O.P!!」と、いささか大仰とも思われるコピーが記されている。
でもよくよく考えてみると、この云いまわしは実際のところ、それほどデフォルメされたものではないと思われる。たとえばこの深町純&ザ・ニューヨーク・オールスターズというバンド名にしても、オールスター・キャストといういささか誇張された表現はよく使われるけれど、この場合、ウソ偽りなくメンバーの全員がスターなのである。とはいっても、このライヴに参加したミュージシャンのほとんどがメキメキと頭角を現してきた時期にあたり、みな当時の日本においてはまだ知るひとぞ知る存在だったと記憶する。裏を返せば参加ミュージシャンたちは、この深町純&ザ・ニューヨーク・オールスターズの公演によって、日本の音楽ファンにその名を知らしめたと云える。
もったいつけないで、さっさと深町純&ザ・ニューヨーク・オールスターズの顔ぶれをご紹介してしまおう。メンバーは、深町純(key)、リチャード・ティー(key)、スティーヴ・カーン(g)、アンソニー・ジャクソン(b)、スティーヴ・ガッド(ds)、マイク・マイニエリ(vib, perc)、デヴィッド・サンボーン(as)、マイケル・ブレッカー(ts)、ランディ・ブレッカー(tp)の9人。往年のフュージョン・ファンにしてみれば、耳慣れないアーティストなどひとりもいないに違いない。それと同時に、たまたまこのアルバムを聴いたことがないというフュージョンの愛好家のかたでも、このナインテットによるライヴ・パフォーマンスがいかに驚異的なものであるかは、想像に難くないだろう。
自慢するわけではないが、ぼくはこのレコードを入手したとき、すでにメンバー全員の名前を知っていた。とはいっても、彼らのミュージカリティに精通していたわけではない。なにせ当時のぼくといえば、耳新しいフュージョンと呼ばれる音楽を聴きはじめて間もなかったのだから──。実はこのころからぼくは、ボブ・ジェームスやデイヴ・グルーシンの音楽に強く惹かれるようになったのだけれど、はじめて手に入れたジェームスのアルバム『ヘッズ』(1977年)を、少しまえから聴き込んでいた。思えば、それまでジェームスのことはまったく知らなかったが、以前からファンだったジャズ・ピアニストの大野雄二がライナーノーツを手がけていたことがキッカケで、ぼくはこのレコードを手にとったのだった。
ちなみに『ヘッズ』は、ビルボード誌のジャズ・アルバム・チャートで堂々の第1位を獲得した。一般的にもジェームスのアルバムのなかでは、ギタリストのアール・クルーとのコラボレーション作『ワン・オン・ワン』(1979年)、あるいはアルト奏者のデヴィッド・サンボーンとの共演作『ダブル・ヴィジョン』(1978年)と並んで、フュージョンの名盤と目されている。それはともかく、このアルバムはジェームスにとって、自己レーベル、タッパン・ジーにおける最初のリーダー作だった。興味深いのは、前作にあたるCTIレコードからリリースされた『BJ4』(1977年)が美しいローカル・カラーが際立つ作品だったのに対して、この『ヘッズ』が非常に洗練された都会的な印象を与えるアルバムに仕上がっているということである。
むろん、このときレコーディング・エンジニアが、ジャズの分野を中心に活躍したルディー・ヴァン・ゲルダーから、フィル・ラモーンの薫陶を受けたジョー・ジョーゲンセンへとバトンタッチされたことが、サウンドのテクスチュアに変化を与えたいうこともある。また、ジェームスの自作曲がエッジの効いたファンキーなナンバーでまとめられているのにあわせて、積極的にロックやソウルのカヴァーにも取り組まれていていることが、アーバンなムードを高めているとも云える。そしてそれらの要因にいっそう拍車をかけているのが、フレッシュな魅力に溢れたニューヨークの生え抜きミュージシャンたち。彼らの個性的なプレイが、まさにニューヨークを象徴するような都会的なサウンドをクリエイトしていると云っても、過言ではないだろう。
以降タッパン・ジー時代のジェームスは、その多様性に満ちた流行の最先端を行くようなサウンド・メイキングから、“ミスター・ニューヨーク”という異名をとっていた。そこで、そんな象徴的な音楽スタイルの礎となった『ヘッズ』のレコーディング・メンバーに、ぜひ注目しいただきたい。実は本作のパーソネルをあらためて確認すると、深町純&ザ・ニューヨーク・オールスターズのメンバーのうち、深町純とアンソニー・ジャクソンを除くすべてのミュージシャンが参加していることがわかるのだ。つまり、フュージョンを聴きはじめたばかりのぼくが彼らの名前を知っていたのは、すでに『ヘッズ』を聴いていたからなのである。なおジャクソンについては、リー・リトナー&ヒズ・ジェントル・ソウツのメンバーとして認識していた。
バンドの中心人物、深町純とはどんな音楽家だったのか?
ひょんなことから手にとった『ヘッズ』において、ぼくはニューヨークの敏腕ミュージシャンたちのプレイを一気に体験したわけだ。マイケルとランディのブレッカー兄弟に関しては、ホーン・セクションの一員にとどまった感じが否めないが、スティーヴ・ガッドのタイトでありながら軽快なビート感が際立つ敏捷なドラミング、スティーヴ・カーンのうねるようなギターのカッティング、そしてリチャード・ティーのファンキーなゴスペル・タッチのピアノが打ち出すリズムなどは、バッキングとはいえ耳に残るものだった。そんななか、デヴィッド・サンボーンのビターな音質での情熱的なブローイング、そしてマイク・マイニエリの疾走感が鮮烈なヴァイヴ・プレイは、強く印象に残った。
では、ぼくが『ヘッズ』におけるそれらの目の覚めるようなパフォーマンスに感化されて、くだんの『深町純&ザ・ニューヨーク・オールスターズ・ライヴ』を手にとったのかというと、実はそうではない。ぼくの当初のお目当ては、キーボーディストの深町純だった。ぼくは、このライヴ盤より少しまえにリリースされた深町さんのリーダー作『オン・ザ・ムーヴ』(1978年)を聴いて、すっかり氏の音楽に惚れ込んでいたのだ。このアルバムは、深町さんが単身でニューヨークに渡り、マンハッタン、ミッドタウンの伝説的レコーディング・スタジオ、パワー・ステーション(のちのアヴァター・スタジオ)において、現地のミュージシャンたちとたった1日で吹き込んだもの。その完成度の高さは、きわめて驚異的だ。
この『オン・ザ・ムーヴ』のレコーディングには、深町純&ザ・ニューヨーク・オールスターズのメンバーのうち、ギタリストのスティーヴ・カーンを除く全員が参加している。逆から云えば、深町純&ザ・ニューヨーク・オールスターズの日本公演の開催は、深町さんの当時のニュー・アルバム『オン・ザ・ムーヴ』のレコーディングが契機となった──ということになる。ぼくは、このレコードのジャケットに描かれた、ロンドン出身のグラフィックデザイナーで当時ニューヨークで活躍していた、スタニスラウ・フェルナンデスによるイラストが大好きなのだけれど、本盤を手にとったいちばんの理由は深町純という音楽家に興味があったから。ぼくが深町さんのフュージョン作品を体験したのは、これがはじめてだった。
ぼくが深町さんの名前を記憶にとどめたのは、映画『悪魔の手毬唄』(1977年)のオープニングクレジットにおいて。音楽/村井邦彦、編曲/田辺信一、演奏/東宝スタジオ・オーケストラというクレジットとともに、シンセサイザー演奏/深町純という表示があった。ところがいざサウンドトラック・アルバムを購入してみると深町さんの演奏は収録されておらず、シンセサイザーがフィーチュアされた楽曲は乾裕樹が演奏したものだった。当時、どこか釈然としない気持ちになった覚えがある。ただぼくはそれ以前に、そうと知らずに氏のピアノ演奏に触れていたのである。たまたま家にあったイージーリスニングの廉価盤のジャケットに付されたタスキをよく見てみると、なんと「深町純のナウなピアノ・タッチ」と記載されているではないか。
具体的にそれは、ポリドール・レコードからリリースされた『ベスト・オブ・ビートルズ』(1972年)『スクリーン・ミュージック 10』(1973年)といった2枚のレコードで、その名のとおり前者ではザ・ビートルズの楽曲を、後者では洋画のテーマ曲を、深町さんがソロ・ピアノで弾いている。たぶん、このレコードをはじめて聴いたときのぼくには、なんの感慨もなかったのだろう。中学生になったばかりのころ、氏に興味をもったぼくは、あらためてこれらのレコードを手にとったのだけれど、実際に音を聴くまでいったいどんな演奏だったのかまるで思い出せなかったのだ。フタを開けてみると、これがけっこうチカラいっぱい弾いている感じで、ときにフレデリック・ショパンのエチュードを彷彿させるパッセージが出てきたりもする。
実は今回、ぼくは久しぶりにこのレコードをターンテーブルにのせてみた。おそらくこのパフォーマンスに触れたおおかたのリスナーにとって、深町さんがピアノ演奏において格別な技巧と能力をもったプレイヤーであるというのは、一目瞭然ならぬ一聴瞭然のことだろう。むろんぼくもそう感じたのだけれど、しかしそのいっぽうで、率直に云うとどういう気分でこれらのアルバムを聴けばいいのか、いささか困惑してしまった。申し訳ないが、よほどの氏の熱心なファンでないかぎり、この2枚を手にとる必要はないとぼくは思う。これは好みの問題になるのだろうけれど、ぼくは深町さんのアルバムだったら、氏が東芝EMIやキティレコード、そしてアルファレコードに残したユニークなフュージョン作品が圧倒的に好きだ。
深町さんがクリエイトするフュージョン・サウンドは、シンセサイザーが巧みに使用されているということも然ることながら、単純にジャズやロックから派生したものではないという点で、他のアーティストのキャラクターと一線を画す。たとえばキティレコードからリリースされた『ディラックの海』(1977年)のタイトル・ナンバーに観られる先鋭的な律動と和声、それに前衛的な語法には、ジャズよりも現代音楽からの影響が感じられる。現に氏は、自身の作品に対するコメントのなかで「ジャズは弾きたくない。好きではない」とこぼしている。コアなファンの間では、深町さんが反骨精神をもった孤高の音楽家であることはよく知られているけれど、そのクリエイティヴィティは間違いなく凡手の業ではない。
前述のように、ぼくが深町純という音楽家に夢中になったのは『オン・ザ・ムーヴ』を聴いてからなのだけれど、このアルバムのレコーディングが行われた1978年4月13日より少しまえ、氏が音楽を手がけたNHK総合テレビの時代劇『早筆右三郎』(1978年)の放映がスタートしていた。グラフィックデザイナーの横尾忠則がデザインしたタイトルバックに流れる、深町さんのシンセサイザーが主軸に据えられた軽快なビート感溢れるテーマ曲を、ぼくは一聴で気に入ってしまった。時代劇において横尾×深町によるアーティスティックなコラボレーションを採用するという斬新なアイディアは、やはりNHKの異色の時代劇『日本巖窟王』(1979年)も手がけたチーフ・プロデューサーの篠原篤彦によるもの。ぼくはこのドラマを、毎週欠かさず観ていた。
このテーマ曲を作曲者である深町さん自身もいたく気に入っていて、ときを移さず『オン・ザ・ムーヴ』において、アレンジの装いも新たに再演した。アルバムがリリースされたとき、ドラマ『早筆右三郎』はまだ放送が継続されていたけれど、この「デパーチャー・イン・ザ・ダーク」という曲を、まさか氏のリーダー作で聴けるとはぼくも思いもよらなかったし、自分のようにこの出来事にこころを踊らせたかたは存外多かったのではないだろうか。いずれにしてもかいつまんで云うとぼくは、映画『悪魔の手毬唄』で深町さんの名前を覚え、ドラマ『早筆右三郎』でそのファンタスティックな音楽の一端に触れ、アルバム『オン・ザ・ムーヴ』を聴きすっかり深町サウンドの虜になったというわけである。
当時の最先端を行くフュージョン延いては音楽の歴史に残る名盤
深町純という音楽家に対する関心をにわかに高めたぼくは、当然のごとく過去の作品にも目を向けるようになるのだが、そのファースト・アルバム『ある若者の肖像』(1971年)にたどり着いたときは、さすがに驚きを禁じ得なかったもの。なぜなら、ソングライティング、アレンジメント、ピアノやハモンド・オルガンの演奏、そしてヴォーカルと、深町さんが一手に担っているのにも瞠目するものがあるが、なんといってもそのコンテンツがフォークロックのような音楽であるのが、まったく思いがけないことだったからだ。このあとも氏は1975年くらいまで数多くのフォーク系アーティストのアルバムに参加するのだけれど、それらと比較してもこの作品は芸術的なまでに創意溢れるものだった。
そんなヴァーサティリティとオリジナリティに富んだ音楽性をもつ深町さんは、3歳からピアノを弾きはじめ、小学6年生でモーリス・ラヴェルのピアノ作品を弾きこなし、高校時代にはオペラの指揮と演出を手がけたという、いわゆる天才肌のひと。また東京芸術大学作曲科を卒業直前に中退するという、型破りな一面もあわせもつ。デビュー当時の氏は、オールマイティな新しいミュージシャンと紹介されているけれど、確かに潰しのきくミュージシャンと云えるかもしれない。ただ深町さんはどんなスタイルの音楽を演っても、一貫して唯一無二の音世界を創造する。それはシリアスな管弦楽の表現が用いられた作品においても同様で、そこにはしかと深町純の音楽が存在するのである。
実はアルファレコードのカタログ番号において『オン・ザ・ムーヴ』につづく『映画 火の鳥 オリジナル・サウンドトラック盤』(1978年)もまた氏の作品。深町さんのペンによるこの一大シンフォニーは、山本七雄指揮による新日本フィルハーモニー交響楽団によって吹き込まれた。印象的なライトモティーフを響かせるオペラ的手法は、当時人気を博していたジョン・ウィリアムズのスコアが意識されているようにも思われる。とはいえ、このポスト・ロマン主義風のオーケストラ作品には、部分的に原始主義的傾向のあるイーゴリ・ストラヴィンスキー、あるいは古典的でありながら印象主義的なラヴェルを彷彿させる箇所もある。そのいっぽうでシンセサイザーも導入されていて、エスノ・ミュージック風な響きが奏でられたりもする。
結局のところ、このシンフォニックなフィルム・スコアもまた、深町サウンド以外のなにものでもないのである。ワン・アンド・オンリーを重んじるニューヨークのヴィルトゥオーソたちも、この小柄な日本人アーティストが内に宿す他の追随を許さない天賦の才には、さぞや舌を巻いたことだろう。そして、彼らが深町さんの強い信念に基づいた音楽を志向する態度に賛同したからこそ、深町純&ザ・ニューヨーク・オールスターズの日本公演は実現したとも云える。いま思えば、そんな不世出の天才音楽家が2010年11月22日、64歳という若さでこの世を去ったことは、その後の日本のミュージック・シーンにおいて大きな損失だった。そういう意味でも再現不可能なこの伝説のライヴは、きわめて貴重。後世に語り継がれるべきものと、ぼくは思う。
この『深町純&ザ・ニューヨーク・オールスターズ・ライヴ』に収められた9曲は、すべてスタジオ録音が存在する。曲のよさを味わうのなら、各々のアルバムをチェックしていただきたい。前述のように本作では、まずは卓越した演奏能力をもつミュージシャンたちの、パーフェクトなまでの演奏技巧に集中すべきだろう。なお深町さんは、リーダーというよりもオーガナイザーの役割を果たしている。オープニングを飾る「ロックス」は、ザ・ブレッカー・ブラザーズのデビュー作『ブレッカー・ブラザーズ』(1975年)からの1曲。兄のランディが作曲した、スピーディでハードコアなジャズ・ファンク。弟のマイケル対サンボーン、ランディ対カーンといった、4バースのソロ・バトルは聴きごたえ満点。ガッドは初っ端からフルスロットルだ。
ダリル・ホール&ジョン・オーツのスマッシュ・ヒット「サラ・スマイル」は、マイク・マイニエリのリーダー作『ラヴ・プレイ』(1977年)からの選曲。この美しいソウルフルなバラードでは、ほろ苦い味わいで鳴きまくるサンボーンと、ブルージーでリリカルにフロウするマイニエリに魅了されるばかりだ。リチャード・ティーの「ヴァージニア・サンデイ」は、当時発売をまえだった彼の新譜『ストローキン』(1979年)の収録曲。ゴスペル・タッチのミディアム・ナンバーが醸し出すハッピー・フィーリングのなか、マイケルのファンキーなソロがフィーチュアされる。ランディの「インサイド・アウト」は、ザ・ブレッカー・ブラザーズのライヴ盤『ヘヴィ・メタル・ビ・バップ』(1978年)でも採り上げられていた。
このロックとジャズとが絡み合うジャンプ・ナンバーでは、強烈なシャッフル・ビートに乗って深町さんのシンセとマイニエリのヴァイブがヘヴィなアドリブを披露。バックのリズム隊からも熱気が渦巻く、素晴らしいパフォーマンスだ。マイニエリの「アイム・ソーリー」は、やはり『ラヴ・プレイ』の収録曲。都会のセンチメンタリズムが光るマイケルのソロが、次第にボルテージを上げていく様がヴィヴィッドな魅力を放つ。マイニエリの楽曲をさらに沸き立たせるようなプレイも絶品だ。深町さんの「ダンス・オブ・パラノイア Op.2」は『オン・ザ・ムーヴ』からの1曲。アップテンポにおけるランディの激しくアウトするソロも然ることながら、ここはシンセシスト深町純の面目躍如たるプレイに注目したい。
ティーの「ジプシー・ジェロ」は、ギタリストのエリック・ゲイルのリーダー作『マルティプリケイション』(1977年)の収録曲。ティーのゴスペル・ピアノによるグルーヴ感が、得もいわれぬ爽やかな空気を作り出している。コーダにおけるカーンのソロも、実に小気味いい。ランディの「ジャック・ナイフ」は、のちにザ・ブレッカー・ブラザーズのスタジオ・アルバム『ストラップハンギン』(1981年)に収録された曲。ガッドとジャクソンとによる歯切れのいいリズムと、スケールな大きなブラス・サウンドが際立つロッキッシュなナンバー。ランディとマイケルとのハードでパッショネートなソロが大きくフィーチュアされるが、まさにザ・ブレッカー・ブラザーズの独擅場といったところである。
歴史的ライヴを締めくくるマイニエリの大曲「ラヴ・プレイ」は、またもや『ラヴ・プレイ』からのセレクション。難易度の高い演奏技術が目立つ、フュージョンの名曲。リリカルなテーマから、ドラムスのロールが軽やかなサンバ、ブルージーなシンコペーションへと移行し、マイニエリのよく跳ねるヴァイブ、カーンのチョーキングを効かせたエモーショナルなギターとソロがつづく。やがて軽快なラテンからプログレ風の燃え上がるようなバックビートへ──。そのダイナミックなエクスパンションが感動を呼ぶ。特にガッドの魂のこもったドラム・ワークは、フュージョン史に残る名演と云わざるを得ない。そして本作はやはり、フュージョン延いては音楽の歴史に残る名盤であると、ぼくはあらためて確信するのであった。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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