湯浅譲二 / 悪霊島 オリジナル・サウンドトラック (1981年)

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鵺の鳴く夜は恐ろしい──世界ではじめてビートルズのナンバーが使用された映画『悪霊島』について語る

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Album : 湯浅譲二 / 悪霊島 オリジナル・サウンドトラック (1981)

Today’s Tune : 崩壊

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1980年──ビル・エヴァンス、そしてジョン・レノンが世を辞す

 

 だれにでも、忘れられない年というものがあるのではないだろうか。ぼくにとって、1980年は特別な年である。この年の9月15日15時30分、ビル・エヴァンスがこの世を去った。まだ51歳だった。訃報は日本の新聞にも、さほど大きくはなかったが写真入りで掲載された。肝硬変と出血性潰瘍による失血性ショック死ということだったが、もとをただせば長きに渡る飲酒と薬物使用が大きく影響したことは容易に想像がつく。ジャズを愛好するひとにとって、エヴァンスの悪癖は既知の事実だったから──。たとえ彼が起こした不始末の報いだったとしても、それはあまりにもむごい仕打ちと、そのときのぼくには感じられたもの。というのも、まだ中学生だったぼくは、すっかりエヴァンスのピアノ・プレイに心酔していたからだ。

 

 それから数年後、ぼくは高校の卒業文集に当時の自分を振り返って、エヴァンスのピアノ演奏と出会って人生が変わったと書いている。そのころのぼくの興味や関心といえば、音楽や文学のなかに自分のアイデンティティを見つけることに向きはじめていた。そういう年ごろだったのだろう。それまでクラシック・ピアノとポピュラー・ピアノしか弾いたことのなかったぼくにとって、エヴァンスとの出会いは衝撃的だった。ぼくがいま演りたい音楽は、これだ!──そんなふうに思った。そんな矢先にエヴァンスの逝去の報せを受けたものだから、ぼくはこころの拠りどころをひとつ失ったような、そんな喪失感に見舞われたのである。当時リアルタイムで購入した『ウィ・ウィル・ミート・アゲイン』(1980年)を聴くと、いまだにその感覚がにわかに蘇る。

 

 実はその1年半まえ、エヴァンスの兄であるハリーが、銃によって自らの命を絶っている。上記の作品は、エヴァンスが亡き兄に捧げたもの。奇しくも、それが彼にとって最後のスタジオ録音となった。その演奏をいまあらためて聴くと、思いのほか力強いタッチに驚かされるのだが、当時のぼくはどの曲を聴いても、こころが痛くなるようなセンチメンタルな気分になったもの。個人的にしばらく感傷に浸るような日々がつづくなか、今度はあのジョン・レノンの訃報が届けられた。1980年12月8日22時50分、レノンはニューヨークの自宅、ダコタ・ハウスのまえで、ファンを名乗るマーク・チャップマンという男に銃撃され、その30分後に死亡が宣告された。云うまでもなく、日本のメディアでも大きく報道された。

もじゃもじゃヘアの男とヒッピースタイルの少年

 この事件は世界中を震撼させ悲嘆にくれさせた。もちろんこのニュースには衝撃を受けたが、正直に告白すると、ぼくはジョン・レノンという音楽家の急逝に対して、特別な感慨に浸ることはなかった。なぜかといえば、世代的なこともあるのかもしれないが、ソロ時代はもとよりビートルズ時代のレノンの作品からも、ぼくはまったく影響を受けることなく育ってしまったからだ。そうはいっても当時、どこの家庭でもビートルズのレコードの1枚や2枚は所持していたと聞くが、然もありなん。実際ぼくの両親も、この20世紀を代表するロックバンドの音楽を好んで聴いていた。だからそのサウンドには、ぼくもものごころがつくまえから触れていたはずだ。ところが、なぜかぼくの関心はほかの音楽に向いてしまったのである。

 

 そんなぼくにとって、1980年はレノンではなくエヴァンスのことを自らの生きるよすがと再確認させられるとともに、こころが大きく揺さぶられた年なのである。そういう状況は年をまたいでも、しばらくつづいた。1981年、1977年に吹き込まれていながらリリースが見送られていたエヴァンス・トリオの『ユー・マスト・ビリーヴ・イン・スプリング』(1981年)が、ついに追悼盤として発売された。ぼくはこの作品を一聴して、彼の音楽的表現力の到達点と感じた。その演奏をひとしきり繰り返して聴くものだから、ぼくのなかでは自然と、エヴァンスの音楽に感じ入る度合いがますます強まっていた。それとは逆に、レノンの射殺事件のことは、すっかり記憶の片隅に追いやられていた。この映画を観るまでは──。

 

 1981年10月3日に公開された映画『悪霊島』の冒頭のシーンでは、ジョン・レノンの死を伝えるニュース映像が使用されている。新宿副都心の超高層ビル群をバックに「1980年 冬」というテロップが入ったあと、場面はレノン射殺の報せに騒然となる放送局へ──。オールバックにレンズの大きなメガネ、それに口髭という、一瞬「このひと、だれ?」と思ってしまうような老けづくりの古尾谷雅人のアップショット──。古尾谷さん演じる三津木五郎は物語のキーマンなのだが、放送局の小部屋においてレノンの射殺事件を報じるテレビニュースに目を遣ったまま、11年まえ──1969年に起こったある事件を回想しはじめる。それは彼にとって、ビートルズの音楽とともに体験した、二度と戻ってこないめくるめく無限の旅だった。

 

 この映画作品は、日本の探偵小説の巨匠、横溝正史(1902年5月24日 – 1981年12月28日)の同名の長編推理小説を映像化したものだ。そして、あまりにも有名な名探偵、金田一耕助シリーズのひとつでもある。この『悪霊島』は、角川書店(現在のKADOKAWA)の文芸誌『野性時代』において、1979年新年号から1980年まで15回にわたって連載された。その後1980年の7月に単行本が、1981年の5月に文庫本(上下巻)が、それぞれ発売された。つまりこの小説は、発表されると同時に映画化されたことになる。もちろん横溝ファンのぼくは、早々にこの小説を読んでいた。また、平凡出版(現在のマガジンハウス)が発行する『週刊平凡』においても前田俊夫による劇画版『悪霊島』が連載されていたが、そちらも目にする機会があった。それは確か、小説の連載とほぼ同時進行だったと記憶する。

 

角川映画、最後の横溝作品『悪霊島』とビートルズの関わり

 

 いまになってみると、そんな手早いメディアミックス展開は、いわゆる角川商法の一環として捉えることができる。映画『悪霊島』は、当時の角川書店の社長、角川春樹製作による角川映画の1本なのだ。ちなみに前述した映画の導入部である放送局の場面で、古尾谷さんに隣のブースからガラス越しにレノン射殺の速報を伝える局員は、カメオ出演した角川さん本人だ。云うまでもなく、角川さんは横溝ブームの仕掛け人であり、角川文庫の売上向上のためその宣伝として映画を利用した。そのはじまりは、中尾彬がジーンズ姿という型破りな金田一を演じた、ATG作品『本陣殺人事件』(1975年)に宣伝協力費として大金を出資したことだった。そのすぐあと、自ら映画製作に乗り出し、あの『犬神家の一族』(1976年)を大ヒットさせたことは周知のこと。

 

 そんな角川映画において、最後の横溝作品となったのが『悪霊島』である。なおこのフィナーレを飾る際、あまり知られてはいないかもしれないが、実は厳密にはもう1本、角川映画は横溝作品を製作している。上記の『本陣殺人事件』を手がけた高林陽一がメガホンをとり、金田一役だった中尾さんも出演した『蔵の中』(1981年)がそれ。角川映画としては、破格の低予算で製作された作品だった。にもかかわらず、良質のアート系作品を何本も世に送り出していたATGで腕を振るった高林監督だけに、草双紙趣味を交えた初期の横溝ワールドを、日本文学の伝統的な様式美に彩られた幻想的な映画に仕上げた。主演にニューハーフ女優、松原留美子(美しい!)が起用されたことも、ちょっとした話題となった。

 

 この『蔵の中』の公開は『悪霊島』と同日の1981年10月3日だった。ぼくが足を運んだ映画館では、両作品2本立てで上映されており、ちょっと得した気分になったもの。映画『蔵の中』の原作は1935年に発表された同名の耽美的短編で、もちろん金田一は登場しない。戦前の横溝文学の特徴とも云える、華麗で美しい文体とロマンティシズムが横溢する作品世界をもつこの小説は、ぼくの大好きな作品でもあった。さらには、映像化が困難と思える点も多々あったので、実際に映像で体験したときは柄にもなく大興奮したもの。いずれにしても、空前の横溝ブームもこの2本の映画をもってして、いよいよ終焉を迎える──当時のぼくはひとり、そんな感触を得たのである。

トラツグミと金田一耕助

 これ以降、金田一耕助は銀幕からしばらく姿を消す。ふたたびその姿を見せるのは、15年後のこと。市川崑監督の『八つ墓村』(1996年)で、当時トヨエツ・ブームでノリに乗っていた豊川悦司が、調子に乗りすぎて奇妙奇天烈な金田一を演じた。ビジュアリストである市川監督も作品に様々な技法を施して、大ヒットした『犬神家の一族』にはじまる往年のシリーズを再現しようと努力しているのだが、それが却って過剰になってしまい煩わしいとさえ感じられる。さらにその10年後、リメイク版『犬神家の一族』(2006年)において、すっかり老け込んだ石坂浩二演じる金田一が登場。劇場でぼくのまえの席に座っていた10代の女の子が、一緒に来た母親に「金田一を演っているひとって、武田鉄矢?」と訊いていた。確かに、そう見えなくもない。

 

 市川崑は日本映画においてぼくのもっとも敬愛する監督だが、91歳の視点で修正された『犬神家の一族』については、結果的に趣味の域を出ることができなかった作品と捉えられた。それ以前にも監督は何度かセルフリメイクを試みているが、ときには『ビルマの竪琴』(1956年/1985年)のようにリメイク版が高い完成度を示すケースがあっただけに、残念でならない。いずれにせよ、ぼくのなかでは金田一耕助の映像世界は1981年に終わっている。テレビドラマにおいては、その後も現在に至るまで数え切れないほどの作品が乱立しつづけているが、ありていに云うとこころから歓迎できるようなものは1本もなかった。裏を返せば映画『悪霊島』は、映像のなかの金田一に「今こそ別れめ いざさらば」と云うのに、実に相応しい作品だったのである。

 

 そんな『悪霊島』──映画では時代設定が1969年となっている。原作の設定より2年遅くなっているのだが、これには明確な理由がある。映画の序盤に古尾谷さん演じるヒッピースタイルの三津木五郎が物見遊山するシーンで、ビートルズの「ゲット・バック」が挿入される。五郎のジーンズのバックポケットに入ったポータブルテープレコーダーから流れてくるのが、まさにこの曲。ところでこの「ゲット・バック」がシングル盤としてイギリスでリリースされたのは、1969年4月のこと(日本でのレコード発売はそのおよそ2ヶ月後だった)。つまり、原作どおりの年代設定だと1967年の出来事ということになり、時代考証において矛盾が生じてしまうというわけだ。ちなみに五郎の所持するレコーダーの文字商標が、ぼくにはSONYと読めるのだが、アポロ7号にもち込まれたというプレスマンだろうか?

 

 とにもかくにも、映画『悪霊島』ではビートルズの楽曲(サントラ盤には未収録)が、ある種、当時のアイコニック・ミュージックのような役割りを果たしている。ときに日本は高度経済成長期にあり、世界はハイテク社会への道を着実に歩んでいたが、そんな時代を象徴するものとして──。映画では「ゲット・バック」に加えて、あまりにも有名な「レット・イット・ビー」(1970年)も使用され、作品に強い印象を残した(2曲をカップリングしたEP盤も発売された)。2曲ともポール・マッカートニーによって作詞作曲された曲だが、映画で使用されたのはどちらもジョージ・マーティンがアレンジを手がけたシングル・ヴァージョン。アルバム『レット・イット・ビー』(1970年)に収録されている、フィル・スペクターによってリアレンジされたものとは異なるのでご注意を──。

 

細密な描写が従来以上に際立つ湯浅譲二によるスコア

 

 実はビートルズの曲が映画で使用されるのは、バンドのメンバーが出演した作品意外では、これが世界ではじめてのことだった。無粋なはなしで恐縮だが、楽曲の使用料は2曲でなんと2,040万円だったという。しかもCMでの使用には、またべつに料金が発生したとのこと。そもそも、作品の主題歌あるいは挿入歌としてビートルズのナンバーを使うという、画期的というか無謀なアイディアは監督と脚本家によるもの。映画全体の時代背景を映し出すひとつの手段として、ビートルズの音楽をアイコンとする──という着想を、プロデューサの角川さんはいたく気に入った。まったく型破りというか、虚心坦懐なひとだな──。角川さんはすぐにイギリスの音楽出版社にコンタクトをとり、長期交渉の末ついに2曲の使用について承諾を得たのである。

 

 かくして横溝文学にビートルズの音楽を交配するという卓越した発想は、実現されることとなったわけであるが、その契機を与えたひとりといえば、この映画のメガホンをとった篠田正浩。彼の鋭敏な感覚には、まったく感服するばかりだ。実は篠田監督は『犬神家の一族』の映画化の際にも、角川さんに監督のオファーをされていた。しかし当時の監督は名作『はなれ瞽女おりん』(1977年)の撮影に集中していたため、もともと横溝作品に興味はあったものの、それを断らざるを得なかった。映画『悪霊島』は、監督にとって横溝映画に対するこころ残りを解消するものだったのかもしれない。横溝ワールドの映像化に意欲を燃やした監督は、どちらかといえば探偵小説然とした原作から、滅びゆく日本の姿を引き出してみせた。

 

 篠田監督はこの映画において、日本社会が根本的な転換を遂げようとするなかで、ひとの精神の奥に宿るそれをかたくなに拒絶する魂魄こんぱくのようなものに焦点を置いている。それを象徴するものが、物語の舞台となる刑部島おさかべじまの神社に飾られている御神体であると、ぼくには受けとられた。この連続殺人事件の発端は、もとをただせば、物体に神が降臨して宿るという観念だったのではないか──そんなふうに思えてくる。現代社会と宗教的風土とのせめぎ合いさえ感じられる。古尾谷さんのモノローグにあるように、この物語の10日間は事件の終結とともに、二度と足を踏み入れることが叶わない魂の聖域となったのである。そんな監督の見解と、清水邦夫によるひねりの効いた脚本、宮川一夫による大胆な色彩効果を狙った撮影とが相まって、横溝映画史上『悪霊島』はもっとも詩情豊かな作品となった。

洞窟に佇む双子の女性

 そして、鹿賀丈史演じる金田一耕助がいい。シャイでひと懐こいところもあるが、特に情に厚いわけでもない。淡々ともちまえの推理力を発揮することに、全身全霊を傾けるばかりだ。というか、どことなく推理を楽しんでいるようにも映る。社会正義を説くようなところは微塵もなく、冷然と事件の顛末を解説するのみ。その風来坊のような風格も含めて、それまでの金田一にはないフレッシュな魅力に溢れている。原作とは異なる点も多々あるが、ぼくにとってはもっとも理想的な金田一像である。エンディングで「レット・イット・ビー」をバックに下駄を鳴らして去っていく金田一の背中に向かって、警察車両のなかから三津木五郎が「金田一さん!」と叫ぶが、彼には聞こえない。リメイク版『犬神家の一族』のラストで金田一はペシミスティックに振り返ってお辞儀をするが、ここでの金田一はストップモーションに至るまで一度も後顧することはない。

 

 音楽を担当したのは、現代音楽の作曲家、湯浅譲二。管弦楽曲から電子音楽まで多くの作品を創作しているが、映画、テレビ、CMの音楽も手がけている。この『悪霊島』における湯浅さんによるスコアは、細密な描写が従来以上に際立っており、とにかく素晴らしい。横溝ワールドのおどろおどろしさと、それとともに脈々と流れる哀感を見事に表現している。演奏は熊谷弘の指揮による東京コンサーツ・オーケストラ。印象的な曲をいくつか挙げると──。メインタイトルやエンドロールのほか度々登場する「悪霊島のテーマ」では、不穏な空気と透明感のあるテクスチュアが交錯し、荘厳で華麗な音世界が創出される。尺は短いが「愛の戦慄巴御寮人」では、監督の奥さまである岩下志麻が演じる巴の妖艶でありながらあどけなさを残すようなたたずまいが、高貴な趣きと憐憫の情をもったメロディック・ラインによって描出される。なおこの曲は、シンクロナイズドスイミングにおいて日本チームによって使用されたことがある。

 

 ディレイがかかったブラスが不安感を煽る「ぬえの鳴く夜は気をつけろ」神楽囃子から異形世界へ誘うような弦楽器のピチカートへと移行する「悪夢のプロローグ」弦とトロンボーンがショッキングなシーンに厚みをつける「鵺が見ていた」タム回しが強烈な「宵宮の殺人」各楽器が特色を競うように奇妙な味わいを醸し出していく「吉太郎変化」アンサンブルがダイナミックに鳴動する「追え!」尺八がアブストラクトに唸る「神を見たか」主旋律のバックで和太鼓が地鳴りのように響きつづける「ふぶき再び」無調への傾倒と不協和音の多用でクライマックスへと導く「紅蓮洞の悲劇」〜「消滅」など、湯浅さんの現代音楽の粋を集めたスコアは、横溝ミステリーの世界を重厚に具現化している。サントラ盤では随所に映画のセリフが挿入されるが、どの楽曲もファンタスティックなだけに音楽だけの仕様にしてもらいたかった。

 

 ぼくのもっとも好きな曲は「崩壊」で、全スコアにおいて唯一儚げで美しい愛のテーマとなっている。同時にそれは、古い因習に終止符が打たれるかのごときカタルシスと、それをなごり惜しむようなノスタルジーの音楽とも感じられる。それは、別れを意味するものでもある。1980年にエヴァンスとレノンは逝き、1981年に金田一耕助は去り、そして映画『悪霊島』が公開されたおよそ2ヶ月半ののち、今度は原作者の横溝正史が天国へと旅立った。ぼくにとっては、忘れられない年となった。なにかが終わり、なにかのはじまりが告げられる──『悪霊島』は、そんな映画だ。本作は現在もDVDや動画配信などで視聴が可能だが、権利上の関係から「ゲット・バック」はビリー・プレストンの1978年版「レット・イット・ビー」はレオ・セイヤーの1975年版と、それぞれカヴァー・ヴァージョンに差し替えられている。その点にも、感慨深いものがある。

 

 本文中の映画──『悪霊島』で刑部守衛を、『蔵の中』で磯貝三四郎を、そして『本陣殺人事件』では金田一耕助を、それぞれ演じられた、名優中尾彬さんが2024年5月16日、心不全のため81歳で亡くなられました。こころよりご冥福をお祈りいたします。

 

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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