村井邦彦 / 悪魔の手毬唄 オリジナル・サウンドトラック (1977年)

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金田一耕助シリーズ中最高傑作の呼び声が高い映画『悪魔の手毬唄』の作品世界と音楽について語る

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Album : 村井邦彦 / 悪魔の手毬唄 オリジナル・サウンドトラック (1977)

Today’s Tune : ある日の鬼首村

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金田一耕助は神様や天使のような存在である

 

 柳の下にいつも泥鰌どじょうはいないというが、なにごとにも例外というものはある。1977年4月2日に公開された、市川崑監督/石坂浩二主演による金田一耕助シリーズの第2作『悪魔の手毬唄』は、シリーズ中最高傑作の呼び声が高い。面白いか面白くないかはべつとして、芸術性の面から観るとやはりマスターピースということになるのだろう。市川作品のマニアックなファンからも、監督の映像作家としての鮮やかな手並みが存分に発揮されているという点から、非常に高く評価されている作品である。興味深いのは当初、監督が再登板を辞退していたということ。第1作の『犬神家の一族』(1976年)では大成功を収めたが、監督は端からおなじ場所に泥鰌どじょうがいるとは思っていなかった。それに映像作品に対して飽くなき探求心をもつ監督のことだから、おなじことはやりたくなかったのだろう。

 

 そうはいっても結局、監督は脚本家の愛妻、和田夏十に説得されてメガホンをとることを決心した。和田さんの才媛ぶり、それに加えて良妻ぶりはたいへん有名だが、いったい監督にどんな助言を与えたのだろう。これはぼくの想像だけれど、和田さんだって再度おなじ方法で幸運が得られるとは思っていなかっただろう。ひょっとすると、シリーズの一作でありながら前作の要素をすべて引き継がず、独立した作品としての体裁をとることを勧めたのではないだろうか。それは、前作における登場人物の連続性、一連の事象、事物の順序などを敢えてリセットしてしまうようなことで、一歩間違えれば不評を買うかもしれない。しかしながら、実際『悪魔の手毬唄』は『犬神家の一族』とはまったく違う雰囲気の作品に仕上げられている。その点、監督の美学がひしと感じられほど、成功しているのである。

 

 少々はなしが脇道にそれるが、石坂さんが演じる金田一耕助は当初、原作に忠実と世間に広く認められた。横溝正史の小説のとおり、着物に袴という出で立ちで登場したからだ。いまでは信じられないだろうが、それまでの映像作品に登場した金田一は、ことごとく背広姿だった。原作にもあるアメリカ帰りという設定からか、それとも当時の民主主義の象徴という観点からか、とにかくソフト帽にネクタイ、スーツにトレンチコートというスタイルで颯爽と現れ、快刀乱麻を断つがごとき活躍を見せた。最初に金田一を演じた片岡千恵蔵などは、美人の女性助手まで従えて、ときに変装をしたり、ときにピストルを撃ちまくったりしたもの。片岡さんを引き継いだ高倉健が演じる金田一に至っては、グラサンまでかけてスポーツカーで田舎のバスをぶっちぎったりしていた。申し訳ないが、失笑を禁じ得なかった。

手毬と少女

 そういったことを踏まえると、石坂さんの金田一が一般的に原作に忠実と認識されるのも当然至極である。ところが実際は、原作から受け継がれているのはヨレヨレの和服とフケ症の蓬髪ほうはつだけ。一見風采の上がらない人物のように見えるが、石坂さんは優しい仕草とことば遣いをする長身の美男子。体躯がすらりとしていれば、態度も洗練されている。小柄で人懐こい笑顔を浮かべ、ときには目をしょぼしょぼさせながらピースをプカプカくゆらせている──そんな原作のイメージからはほど遠い。まるで明鏡止水めいきょうしすいの心境で事件の行く末を見つめているようなたたずまいから、ある種の現代性と希薄な存在感をもつ人物という印象を受ける。たとえば、神の使いである天使のような──。

 

 金田一耕助は神様や天使のような存在である──市川監督は折に触れてそのようなことを述べていた。それは、監督の求める金田一像が、それこそ鮮やかに事件を解決する名探偵ではなく、物語の進行を傍観するとともに、それを観客が理解するのを手助けする、いわゆる狂言回しのようなもの──ということなのだろう。事件を食い止められずにいることを嘆きながらも、ひとびとに与えられる不幸や幸福をただただ俯瞰するばかり──そんな様子が窺えるのは、金田一が天使であるが故か──。そういえば、市川作品には屋根瓦を俯瞰で捉えたショットがよく見られる。映像派である監督の作品を際立たせる特徴のひとつでもあるが、あれはまるで天使が地上を見下ろしているかのような視点だ。いずれにしても監督は、金田一を原作のように世間に名がとどろき渡った名探偵にはしたくなかったのだろう。

 

 金田一を名探偵として描かないという方針から監督がとった手法は、表向きはシリーズの体裁をとりながらも、各々の作品を決して交わることのない並行して存在する別の時空での物語として描く──というものだった。端的に云えば、シリーズ全5作はそれぞれパラレルワールドでの出来事となっているのである。それを暗示するものとして、加藤武が演じるちょっとおっちょこちょいな愛すべき警部の存在が挙げられる。この警部はシリーズをとおして毎回登場するが、外見や性格は統一されてはいるものの、ときに所属する警察本部が変わっていたり、氏名すら変わっている場合もある。そして、金田一と邂逅かいこうするたびに「なんだね君は?」と、突っかかるように問いただす。本来、金田一は事件をいくつも解決に導いているから、警察の関係者から名前くらいは知られているはず。しかし本シリーズにおいて、金田一と警部はいつも初対面なのである。

 

(『犬神家の一族』については、下の記事をお読みいただければ幸いです)

 

横溝文学の改変がもっとも効果的に作用した作品

 

 そんな風に吹き寄せられたかのように、どこからともなくさまよいいでたる金田一の存在感は、市川監督と石坂さんならではのもの。『犬神家の一族』を観た和田夏十は「あれはコロンボ風になろうとしすぎているところがよくない」と、こぼしたという。そのコトバから糸口をつかんだのか、監督も石坂さんも『悪魔の手毬唄』では金田一の“天使度”を上げることに努めたようだ。考えてみれば、市川監督は過去に多くの文学作品を映像化しているが、どの作品も単なる原作のダイジェストにはしていない。必ずといっていいほど、大胆な改変を加えるのだ。小説と映画は別ものであると認識し、原作をしっかり批評しつつ、それに独自の解釈を施すというのが市川流。そしてそれは、もとはといえば奥さまである和田さんの流儀だったのだろう。

 

 結果的に『悪魔の手毬唄』がシリーズ中最高傑作と観られるようになった要因は、横溝文学の改変がもっとも効果的に作用したということにあると思われる。そもそも横溝正史による原作小説は、S・S・ヴァン・ダインの『僧正殺人事件』(1929年)やアガサ・クリスティーの『そして誰もいなくなった』(1939年)からの影響を受けた、童謡殺人を題材にした本格ミステリー。手毬唄は実在しない横溝さんの創作であり、それに説得力をもたせるためからか、事件が起こる背景の説明がやや長めだ。ぼくは横溝さんの小説の大ファンだけれど、そういう点ではいまひとつ読みにくい作品と感じられた。さらに云えば、小説としての完成度は『獄門島』『本陣殺人事件』『八つ墓村』『犬神家の一族』『悪魔が来りて笛を吹く』などのほうがずっと高いと思われる。

 

 映画化2回、テレビドラマ化6回と『悪魔の手毬唄』は、計8回の映像化がなされた。しかしながら、満足のいく作品はほとんどない。やはりこの原作小説を優れた映像作品として成立させるには、飛躍的な脚色が必要になるのだろう。そういう意味では、映像作家にとってこの小説は、ハードルの高い素材と云えるのかもしれない。それではなぜ、数ある横溝作品のなかから『悪魔の手毬唄』が、大ヒット作『犬神家の一族』につづくシリーズ第2作に選ばれたのかというと、なんのことはない題名がよかったからだという。いい加減な感じもするが、ときにそういう直感力みたいなものが必要になることもあるのだろう。ちなみに、選定したのは『犬神家の一族』のプロデュースも手がけた市川喜一。かくして、市川監督と脚本家の日高真也は、久里子くりすていという共同ペンネームで、原作をいちど解体し、ふたたび組み立て直す──という難業に取り組むこととなった。

日本人形と金田一探偵

 結果、映画では小説との相違点がたくさん出来した。ここでそれを列挙することは控えるが、作品に大きな影響を与えた点だけ触れておく。岡山県の一寒村で巻き起こる若い娘ばかりが狙われる連続殺人事件の謎解き、さらに20年まえのすでに時効になった事件の解明──といったミステリーの醍醐味は、ほぼ原作どおり。映画ではそれに加えて、若山富三郎演じる定年間近の刑事(磯川警部)の20年にわたる恋と、岸恵子演じる過去の事件でこころに傷を負った女(青池リカ)が20年間抱えてきたごうが、強調されている。刑事は女を長年救おうとしつづけているが、女は気持ちをまったく別のほうに向けて生きている。野坂昭如が歌う「黒の舟唄」の歌詞のとおり、男と女のあいだには深くて暗い河があった。その点、原作にはない悲哀感が観るものの胸を打つ。

 

 原作において女のキャラクターは、サイコパスを感じさせるものがあるが、映画では過去の過ちからふたたび悲劇を生んでしまう、ただただ哀れな女として描かれている。結局、刑事は女を守ることができなかった。そして、金田一はことのなりゆきをただ傍観するばかり。しかし総社駅のラストシーンで、それまでなにも触れなかった金田一がついに汽車のデッキからホームにたたずむ刑事に「磯川さん、あなたリカさん愛してらしたんですね」と、声をかける。そのセリフは汽車の起動音で遮られるが、果たして刑事の耳に届いたのだろうか?いずれにしても、そのときの石坂さんの微笑はまさに天使のもの。見送ったあと、おもむろに歩き出す若山さんの肩には哀愁が漂う。さすがは市川崑!この場面は原作にもあるけれど(小説では京都駅でのエピソード)、まったく味わいの深さが違う。ここまで感動を呼ぶシーンになるとは、思ってもみなかった。

 

 あともうひとつ、原作との相違点を挙げておかなければならない。原作では事件が発生するのは真夏だが、映画では設定が冬に変更されている。撮影スケジュールの都合で原作どおりの季節に撮影ができなかったのだという。しかしながら、そんなハプニングが却って功を奏したように思われる。小説ではお盆の時季に奇怪な老婆が娘たちを手にかけるものだから、なんとなく怪談じみた印象を受けるのだが、映画では撮影が行われた山梨県甲斐市の冬枯れの景色がなんとも情感に溢れた雰囲気を醸し出している。凍てつくような寒さがこちらにまで伝わってくるのと同時に、映像にはフランス映画のようなシックな美しさが感じられる。恐怖感はよりリアルなものになるし、金田一の将校マントも引き立つというもの。そういえば、このスタイリッシュなマントも映画のオリジナル。原作の金田一は二重回しを羽織っていた。

 

市川崑のモダンなセンスと見事に呼応する楽曲群

 

 もともと横溝正史の小説には古い因習に終止符が打たれるような物語が多いが、前作『犬神家の一族』のエンディングには怨念から解放されたひとびとの幸福な行く末を予感させるものがあった。鑑賞後には一抹の爽やかさが残った。それに反して『悪魔の手毬唄』では、ひとびとが負ったこころの傷痕が癒えるのはずっと先のことのように思えてならない。そんなもの悲しい余情を、観るものに催させるのである。前作で金田一は見送られることをいとい発車寸前の汽車に飛び乗るが、本作ではすでに発車した汽車のデッキから見送る刑事に向かって何度もお辞儀をする。まるで人間を哀れみながらも愛おしむ天使のように──。このシーンで流れるテーマ曲「哀しみのバラード」は、この哀感を的確に表現している。涙を誘うほどの感動は、この音楽があればこそのものだ。

 

 この曲を作曲したのはアルファレコードの創始者である村井邦彦、編曲と指揮を担当したのは昭和歌謡や劇伴を多く手掛けた田辺信一である。ちなみにこのふたりは、前作『犬神家の一族』の音楽を担当した大野雄二ともども、学年は異にするものの慶應義塾大学ライト・ミュージック・ソサイェティーの出身だ。偶然なのか必然なのか──それは定かではないが、クラシック畑以外の音楽家の起用が、この金田一耕助シリーズにフレッシュな魅力を与えているのは確かだ。村井さんといば、ザ・テンプターズの「エメラルドの伝説」(1968年)、トワ・エ・モワの「或る日突然」(1969年)、ピーターの「夜と朝のあいだに」(1969年)、赤い鳥の「翼をください」(1971年)など、歌謡曲の世界にポップなセンスをもち込んだ作曲家。ジャズ・ピアニストの大野さんが怨念の世界を華麗に表現したのに対し、村井さんは悲哀に満ちた物語を時流に乗った感覚で描き出した。

 

 ジャズやクロスオーヴァーの要素が強い大野サウンドとは違い、村井/田辺のコンビネーションには全体的にヨーロッパ映画からの影響が感じられる。それが『悪魔の手毬唄』ならではの静かで落ち着きのある情感に溢れた映像と、非常にマッチしているのだ。なお田辺さんは本作での功績が認められ、その後『獄門島』(1977年)『女王蜂』(1978年)『病院坂の首縊りの家』(1979年)と、シリーズすべての音楽を任される。大野さんが音付けにちょっと捻りをきかせていたのに対し、田辺さんは飽くまで直球勝負。そういう音楽の作りかたが、市川監督のイメージするものと一致したのだろう。監督は川端康成原作の『古都』(1980年)の音楽においても、田辺さんを抜擢している。いっぽう村井さんからは、田辺さんがアルファレコード所属のアーティスト、ハイ・ファイ・セットのヒット曲「フィーリング」(1976年)のアレンジを手がけたことが縁で、お呼びがかかった。

人喰い沼

 サントラ盤は東宝レコードから発売。演奏は東宝スタジオ・オーケストラによる。収録されている楽曲は、フィルム用マスターとして加工されるまえの音源なので、映画のなかで聴くときとでは受ける印象が多少異なる。よりディープに映画の世界観を楽しみたいかたには、2012年に発売されたCD『悪魔の手毬唄総劇伴集』をおすすめする。ということでここでは、鑑賞用のフルレングス・ヴァージョンについてメモしておく。前述の「哀しみのバラード」は、タイトルバックとエンディングで流れた。マンドリンと女性コーラスがノスタルジックに響く。この曲のヴァリエーションはいくつかある。劇伴としては未使用のアコースティック・ギターがメロディを切々と奏でる、8ビートのポップス風「六道の辻」ニーノ・ロータのスコアを彷彿させる、トランペットが哀愁を誘う「二十年の歳月」メインタイトルで一部が使用された、弦楽器のアンサンブルがもの悲しく歌う「別れ」などがそれ。

 

 サブテーマの「愛と憎しみのはざま」は、ムード歌謡の香りが漂うマイナーキーの8分の6拍子。ヴァリエーションではチェンバロとストリングスによって歌われる「土蔵」がある。渋谷系ソフトロックとして重宝されそうなワルツ「仙人峠」は、ちょっとバート・バカラックの楽曲をイメージさせるモダンで明るいナンバー。それがさらにボサノヴァにアレンジされた「ある日の鬼首村」は、金田一が壊れた自転車で坂道を疾走するシーンで一瞬流れるのみ。スコア中もっとも爽やかな曲だけに、ちょっともったいない。ミステリアスなムードを演出する楽曲には、フェンダー・ローズと弦のトレモロが幻想的な「沼」女性コーラスによるアカペラ曲「鬼首村手毬唄」ヒロイン役の仁科明子のハナウタとセリフがミックスされた不気味な「手毬唄幻想」などがある。

 

 事件の核心を暗示させるシーンの楽曲としては、弦とトロンボーンのリフ、コンガのラテンのリズムが効果的な「山狩り」弦とベースによる複雑なリフが強烈なインパクトを与える「殺意」などがある。凄惨な場面では、やはり弦のトレモロとトロンボーン、それに打楽器による「血」が衝撃を与える。さらに、当時流行したイタリアン・ホラーのサントラからの影響が感じられる楽曲が2曲ある。乾裕樹によるシンセサイザーが抜群にクリーピーな世界を演出する「憎しみの彼方」と、ダリオ・アルジェントの映画におけるジョルジオ・ガスリーニゴブリンによるサウンドのように、怖いけれどスタイリッシュな「老婆の影」がそれ。特に後者のグルーヴは、ローズとベースのユニゾンによるアルペジオ、ピアノのスタッカートな連打、スネアのロールとバスドラの裏打ち、弦による和風のオブリガート、トロンボーンのジャジーなソロと、かなりキャッチーだ。

 

 ちなみに、本アルバムは2011年のCD化の際、予告編で使用された田辺さんの知人である無名の女性シンガーが歌った「悪魔の手毬唄」や、本編ではクレジットされているのにもかかわらず、契約上の都合でアルバムからオミットされた深町純によるシンセサイザー演奏が追加収録された。もとの楽曲とあわせて聴けば、より『悪魔の手毬唄』の音楽世界を濃密に楽しむことができる。それと同時に、それこそシリーズ中最高傑作の呼び声が高いこの作品において、いかに村井/田辺のコンビネーションによるリリカルなメロディとスタイリッシュなアレンジが駆使された楽曲群が、市川崑という映像作家のモダンなセンスと見事に呼応しているかを、立体的に知ることもできるのである。そういう意味でも、このサントラ盤は貴重な一枚と云える。

 

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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