渡辺貞夫とデイヴ・グルーシンとのコラボレーションによる最高の到達点『モーニング・アイランド』
Album : 渡辺貞夫 / Morning Island (1979)
Today’s Tune : Samba Do Marcos
ビバップ、ブラジル音楽、そしてエレクトリック・ジャズへ
これまでに何度となくお伝えしてきたが、ぼくのもっとも敬愛する音楽家はデイヴ・グルーシンである。コンポーザー、アレンジャー、キーボーディスト、プロデューサーといった、どの側面においても彼のことが好きだ。というか音楽において、ぼくの感覚的能力がこの上なく自然に受けとめる外界からの刺激といえば、グルーシンが奏でるものなのだ。彼のクリエイトするサウンドはときにソフトでありときにシャープ。しかもその作品からは、一貫してその温かなひと柄が伝わってくる。グルーシンらしさを端的に云うと、音楽に素朴な面と洗練された面とが共存しているようなところ。さらに云えば、そのヴァーサティリティに富んだ鋭敏なセンスとオープンマインドで柔軟なテクスチュアにおいては、他の追随を許さない。
ぼくはセルジオ・メンデスの『イエ・メ・レ』(1969年)というアルバムで、はじめてグルーシンによるオーケストレーションに触れたのだけれど、そのサウンドにたちまち自分の感性を刺激された。彼は1967年から1979年ごろまで、セルメンのレコーディングにおいてオーケストラの編曲と指揮をずっと担当した。セルメン・サウンドをスウィートなものにしていたのは、グルーシンのソフィスティケーテッドなアレンジメントだったと云っても過言ではない。そのいっぽうで彼は、1973年からはクインシー・ジョーンズの楽団にも参加する。以降1977年あたりまでグルーシンのキーボードとアレンジが、そのオーケストラの中核をなす。クインシー・サウンドはジャズにとらわれない幅の広い音楽へと進化したけれど、その一翼を担ったのはやはりグルーシンだろう。
ぼくが完全にグルーシンの虜囚となったのは、彼が手がけた映画のサウンドトラック・アルバム『コンドル』(1975年)だ。シドニー・ポラック監督、ロバート・レッドフォード主演によるこのポリティカル・サスペンス映画において、グルーシンはコンテンポラリー・ジャズを実験的かつ本格的に採り入れ、かつてない成果をあげた。そのアーバンなサスペンスが横溢するサウンドには、ぼくにとってとてつもなく大きな影響力があった。そこからぼくはひたすらグルーシンの音楽を追いかけるようになり、特に彼の5枚目のリーダー作『ジェントル・サウンド』(1978年)は自分のバイブルとなっている。このアルバムは彼の多様な音楽性がひととおり網羅されているが、フュージョン・シーンにおいてもエポックメイキング的な作品と云える。
そんなグルーシンを語るときに絶対に外せないのが、渡辺貞夫とのコラボレーションである。渡辺さんは云うまでもなく日本を代表するアルト奏者であり、世界を股にかけて活躍するジャズ・プレイヤー。“ナベサダ”の愛称で広く親しまれているが、日本の栄典のひとつである紫綬褒章まで授与された、わが国においては国民的音楽家と云える。1933年2月1日、栃木県宇都宮市生まれの渡辺さんは、御年92歳にしていまだ現役だ。昨年(2024年)の春には、ラッセル・フェランテ(p)、ベン・ウィリアムス(b)、竹村一哲(ds)といった気ごころの知れたミュージシャンを従えて、平和をテーマにしたバラード・アルバム『ピース』をレコーディングした。なんと86枚目のリーダー作に当るとのこと。
ライヴ活動のほうも、すでに2025年のスケジュールはギッシリ。全国を精力的に巡業するということだが、ただただ敬服するばかりである。そんな渡辺さんは、もともとチャーリー・パーカーを敬愛するビバッパーだった。1962年、氏がアメリカのカリフォルニア州ボストン市にあるバークリー音楽院(現バークリー音楽大学)に留学したことはよく知られているが、それ以前に粋のいいバリバリのバップ・プレイを披露している。仲野彰(tp)、八城一夫(p)、原田政長(b)、猪俣猛(ds)、長谷川昭弘(ds)といった日本のモダン・ジャズの草分けたちと吹き込んだ初リーダー作『渡辺貞夫』(1961年)での渡辺さんの疾走感のあるプレイは、いまにしても圧倒的な迫力を誇る。
ぼくが渡辺貞夫というミュージシャンを素晴らしいと思う最大の理由は、氏が音楽と向き合うとき寛容というか、いつもこころが大きく開かれているというところ。ジャズをプレイするときもいつも柔軟思考で取り組むし、ジャズ以外の音楽に対しても偏見をもたない。だから渡辺さんが創出するサウンドは、音楽のスタイルに関係なくいち様に開放的だ。その点、グルーシンの音楽性とも共通する。渡辺さんは1960年代の後半から、自己のジャズ・サウンドにボサノヴァやサンバをはじめとするブラジリアン・ミュージックを採り入れていた。たとえば『ジャズ&ボッサ』(1967年)というアルバムは、日本におけるボサノヴァ・ブームの先駆けだった。その後も氏はジャズ・スタンダーズやポップ・ナンバーとともに、積極的にボサノヴァをプレイした。
なかでも『ブラジルの渡辺貞夫』(1968年)というアルバムは、渡辺さんがブラジル音楽産業の中心であるサンパウロに赴き、現地のミュージシャンたちと吹き込んだもので、当時の氏がいかにブラジリアン・ミュージックに心酔していたかがわかる。そのいっぽうで、ザ・ビートルズとバート・バカラックの楽曲を採り上げた『サダオ・プレイズ・バカラック・ビートルズ』(1969年)や、ロック・ビート(特に8ビート)及びエレクトリック・インストゥルメンツを大胆に導入した『パストラル』(1969年)といったアルバムも制作されており、当時の渡辺さんは意欲的に自己のサウンドの幅を広げていたと云える。もしかすると後者の作品などは、マイルス・デイヴィスの『マイルス・イン・ザ・スカイ』(1968年)に触発されたものかもしれない。
1970年代に入ると渡辺さんは、すぐに単身ニューヨークへ渡り チック・コリア(p, elp)、ウルピオ・ミニッツィ(p), ミロスラフ・ヴィトウス(b)、ジャック・ディジョネット(ds)らとレコーディングに臨んだ。1970年7月15日に吹き込まれた音源は、アルバム『ラウンド・トリップ』(1970年)としてリリースされたが、当時のコリアは名作『ナウ・ヒー・シングス・ナウ・ヒー・ソブス』(1968年)をものしたあとで、その卓越した演奏テクニックと大胆なエクスプレッションでジャズ・シーンで注目を集めていた。そんなコリアにまるで火をつけられたかのように、渡辺さんにしては珍しくソプラニーノ(あるいはフルート)でアグレッシヴなインプロヴィゼーションを披露している。まさに痛快な野心作である。
アフリカ音楽の導入とゲイリー・マクファーランドからの影響
渡辺さんはさきのブラジリアン・ミュージックと同様に、いち早くアフリカ音楽のエッセンスを汲み出し、自身のサウンドに反映させたことでも知られる。キッカケは氏が1972年1月に、テレビ番組の仕事も兼ねてアフリカを訪れたこと。渡辺さんはアフリカ滞在中に現地の音楽、そしてそこに生きるひとびとに触れて強く感銘を受けた。そのインスピレーションから生まれたのが、奇しくも初リーダー作と同名のアルバム『渡辺貞夫』(1972年)だ。つづく『ケニヤ・ヤ・アフリカ』(1973年)で氏は、アフリカのミュージシャンたちと共演を果たす。さらに東京郵便貯金ホール(現メルパルクホール)で吹き込まれたライヴ・アルバム『ムバリ・アフリカ』(1974年)において、渡辺さんはアフロ・スピリチュアル・ジャズともいうべき演奏を展開した。
ほかにも渡辺さんは、モントルー・ジャズ・フェスティヴァルでの実況録音『スイス・エア』(1975年)、よみうりホールでのライヴを収めた『パモジャ』(1976年)といった、アフリカ色の強いアルバムをリリースしている。氏のアフリカ音楽への傾倒ぶりは、グルーシンとの出会いとなる『マイ・ディア・ライフ』(1977年)においても垣間見える。それまでブラジリアン・ミュージック、ロックそしてアフリカ音楽といった具合に、様々な音楽の要素を採り入れて自らのジャズ・サウンドを進化させてきた渡辺さんだが、音楽を演る上で自分をひとつの枠にはめないよう常にこころがけているという。そのためなら、ときにはジャズから離れるこも辞さないとのこと。そういうフレキシビリティが、自然と氏をフュージョン・ミュージックへ導いたのだろう。
渡辺さんの懐の深い音楽性は、前述のバークリー音楽院に留学したときに培われたものと想像される。というのも現地で氏が、あのゲイリー・マクファーランドのグループに在籍していたからだ。マクファーランドは、コンポーザー、アレンジャー、ヴィブラフォニスト、そしてヴォーカリストとして1960年代に活躍した音楽家。38歳で不慮の死を遂げた彼は、非常に短い期間にビッグ・バンド、ジャズ・コンボ、ボサノヴァ、ジャズ・ロック、ソフト・ロックなど、様々なスタイルの音楽作品を世に送り出した。なかにはシリアスな大作もあるし、大胆なまでにポップな感覚やラウンジ・テイストを採り入れた作品もある。そのサウンドといえば、クールでありながらヒューメイン。都会的な印象を与えるいっぽうで、その人間性が伝わってくるような温もりが感じられる。
渡辺さんは、マクファーランドのリーダー作『ジ・イン・サウンド』(1965年)で、なんとテナーとフルートを吹いている。マクファーランド自身によるスキャット、口笛、そしてヴァイブが織りなすセンシティヴなサウンド・タペストリーは、唯一無二のもの。その爽やかで寛いだムードはジャズというよりはラウンジ・ミュージック。ブラジリアンやスパニッシュ、ロマ音楽まで盛り込まれていて、ある意味でフュージョンの原点と云えるかもしれない。こういうジャンルを超越したようなスタイルは、明らかにその後の渡辺さんのサウンドに影響を与えている。しかも氏は音楽ばかりではなく、マクファーランドのオプティミスティックなひと柄にもすっかり惚れ込んでしまったのだという。
渡辺さんに云わせると、このマクファーランドとグルーシンとは雰囲気が似ているのだという。では音楽的にはどうか?詩人でイラストレーターのピーター・スミスと共演したマクファーランドの最後のリーダー作『バタースコッチ・ラム』(1971年)は、ぼくにとって長きにわたる愛聴盤。本作の収録曲のなかでもとりわけ「オール・マイ・ベター・デイズ」と「ダンス・ウィズ・ミー」が大好きなのだけれど、ぼくにはそれらの曲にグルーシンの影が見える。実際にふたりが共演したことがあるかどうかは定かでないが、グルーシン本人はマクファーランドから影響を受けたと述懐している。いずれにしてもグルーシンの音楽がもつテクスチュアは、マクファーランドのそれとよく似ている。
そんなことをあれこれ考えると、渡辺さんとグルーシンとは出会うべくして出会ったと、ぼくには思えてならない。ふたりのはじめての邂逅は、さきにも触れたように渡辺さんの34枚目のリーダー作『マイ・ディア・ライフ』において。1977年4月26日と28日にカリフォルニア州ロサンゼルス市のユナイテッド・ウェスタン・スタジオ(現オーシャン・ウェイ・レコーディング)において吹き込まれた。レコーディング・メンバーは、渡辺貞夫(as, sn, fl)、デイヴ・グルーシン(p, elp)、リー・リトナー(g)、チャック・レイニー(b)、ハーヴィー・メイソン(ds)、スティーヴ・フォアマン(perc)。なお福村博(tb)の演奏は、のちに東京の音響ハウスにおいてオーヴァー・ダビングされたものである。
この顔ぶれ、いまとなってはレジェンドばかりだが、当時はほとんどが駆け出しのミュージシャンだった。LA勢の中心人物であるリー・リトナーも、まだアルバム・デビューしたばかりで、日本では知るひとぞ知る存在だった。彼は当時、ジャズ・ピアニストのドン・ランディが経営するロサンゼルスのベイクド・ポテトというクラブの常連で、毎週火曜日の夜にそこでギグを行っていた。本作のレコーディング・メンバーは、そのとき彼が懇意にしていたミュージシャンたちが中心となっている。そしてリトナーは、この『マイ・ディア・ライフ』のレコーディングの翌月にこのグループ(ベースはアンソニー・ジャクソンに交替)で、フュージョンの歴史的名盤『ジェントル・ソウツ』をものしている。
その点で『マイ・ディア・ライフ』で繰り広げられたサウンドには、渡辺貞夫とジェントル・ソウツとの共演といった風情がある。実のところそのおよそ半年後の1977年10月23日に、渡辺さんは『ジェントル・ソウツ』と同一のメンバー(ただしグルーシンは不参加)を率いて、いまはなき東京厚生年金会館においてコンサートを開催している。その模様は、渡辺貞夫〜リー・リトナー&ジェントル・ソウツ名義のアルバム『オータム・ブロー』(1977年)に収録されている。このアルバムと『マイ・ディア・ライフ』とを歴史的2部作と称する向きもあるようだけれど、確かにすでにカリプソ・スタイルのナンバーもあり、大ヒット・アルバム『カリフォルニア・シャワー』(1978年)へと繋がるナベサダ・フュージョンの原点と云えるかもしれない。
ときにグルーシンは『マイ・ディア・ライフ』では、たとえば「浜辺のサンバ」という曲でバウンシーなピアノ・ソロを披露したりもするが、飽くまでプレイヤーに立脚する。渡辺さんのアルバムで彼のアレンジメントやコンポジションが特色となるのは『カリフォルニア・シャワー』からである。パーソネルは、渡辺貞夫(as, sn, fl)、デイヴ・グルーシン(p, elp)、リー・リトナー(g)、チャック・レイニー(b)、ハーヴィー・メイソン(ds)、パウリーニョ・ダ・コスタ(perc)、アーニー・ワッツ(ts)、オスカー・ブラッシャー(tp)、ジョージ・ボハノン(tb)。そして曲によっては、グルーシンの指揮によるストリング・セクションが加わる。1978年3月、ロサンゼルス市のレコード・プラントとウェストレイク・オーディオで吹き込まれた。
ナベサダ・フュージョンの舞台はロサンゼルスからニューヨークへ
ジャズはもちろんのことボサノヴァ、アフロビート、カントリー・ミュージック、それにカリブ海の音楽のスタイルまで採り入れられたこの『カリフォルニア・シャワー』は、まさにナベサダ・フュージョンという呼称に相応しい傑作だ。ことに、たとえばカリブ海沿岸の国々の音楽が漂わせる南国ムード、アメリカ西海岸の乾いた空気、あるいはサヴァンナに吹く優しくも雄渾な風などをイメージさせるような、明るく爽やかなそのサウンドは、ナベサダ・サウンドのなかでも随一と云える。そして全7曲中5曲のアレンジでペンを執ったグルーシンのクリエイティヴィティが、機が熟したかのごとく冴えわたっている。そのオーケストレーションのさじ加減のよさも然ることながら、リズム・パートがこれまでになくタイトになっているのがさすがだ。
おそらくリード・シートをもとに鷹揚にセッションされたであろう『マイ・ディア・ライフ』と比較すると、この『カリフォルニア・シャワー』は作品のクオリティが格段に高い。もちろんいち度限りのギグのようなレコーディングも、束縛のない広がりのある感じが醸し出されるところが、すこぶる魅力的だ。というか本来ジャズの吹き込みとは、そういうものだろう。しかしながらモダン・ジャズにはないフュージョンならではの聴きどころといえば、サウンドの作り込まれた部分にもあるとぼくは思う。メインキャラクターの長所を際立たせるとともに、バック・ミュージシャン各々の個性豊かなプレイを包括し、整合性のある良質の作品を創出するグルーシンの能力にはひとかたならぬものがある。本作はそういう点でも、フュージョンの名作なのである。
さて、この『カリフォルニア・シャワー』のレコーディングにおいて、渡辺さんとグルーシンとの間には確たる信頼関係が築かれたように思われるが、その類稀なるコラボレーションはさらなる化学反応を起こすことになる。舞台はロサンゼルスからニューヨークへ移る。1979年3月、当時マンハッタンのミッドタウンにあったA&Rレコーディング・スタジオにおいて、そのレコーディングは行われた。いまはなきA&Rレコーディングは、パーカッショニストのジャック・アーノルドとプロデューサーのフィル・ラモーンによって設立された歴史のあるスタジオだ(A&Rはふたりの頭文字)。今回グルーシンは全曲アレンジを手がけ、ブラス・セクション、ストリング・セクション各々のオーヴァー・ダビングにおいて、自らタクトを執った。
さながら世界の政治や経済が集結し文化や芸術において民族の多様性が反映する大都市、ニューヨークの活気に満ちた日常風景が描写されたかのような『モーニング・アイランド』(1979年)は、これまでになく洗練されたモダンな表情を見せながらも、揺るぎなくナチュラルな優しさが滲み出すナベサダ・フュージョンの逸品である。当時のグルーシンはすでに、もとドラマーでレコーディング・エンジニアのラリー・ローゼンとともに、ニューヨーク市マンハッタン区ミッドタウン57丁目にグルーシン/ローゼン・プロダクションのオフィスを構えていた。しかもアリスタ・レコード傘下でGRPレーベルを立ち上げたばかりで、音楽制作に対してますます意気軒昂となっていた。そんな彼の研ぎ澄まされた音楽センスが、この作品では見事に結実した。
グルーシンの肝煎りで集められたレコーディング・メンバーも、実に理想的な顔ぶれだ。リズム・セクションは、渡辺貞夫(as, sn, fl)、デイヴ・グルーシン(p, elp, perc)、ジェフ・ミロノフ(g)、フランシスコ・センテーノ(b)、スティーヴ・ガッド(ds)、ルーベンス・バッシーニ(perc)となっており、2曲でエリック・ゲイル(g)のソロがフィーチュアされる。ブラス・セクションがなんとも贅沢で、ジョージ・ヤング(as)、マイケル・ブレッカー(ts)、ロニー・キューバー(bs)、アラン・ルービン(tp)、マーヴィン・スタム(tp)、トニー・スタッド(tb)と、ニューヨークのファースト・コールばかり。さらにデヴィッド・ナディアン(vln)をコンサートマスターとする、ヴァイオリン10名、ヴィオラ3名、チェロ2名のストリング・セクションが加わる。
オープニングの「モーニング・アイランド」では、南国情緒が漂う明るい曲調に意表を突かれる。渡辺さんのフルートが飾り気のない優しい音色で、素朴なメロディック・ラインを綴る。グルーシンのフェンダー・ローズによる、カリビアンなアプローチもそれらしい雰囲気を醸成する。センシティヴなストリングスが、リスナーのこころをターコイズブルーの海からマンハッタンの摩天楼の群れへと誘う。アーバン・ファンクの「ダウン・イースト」では、ガッドによるアフタービートを効かせたシンコペーションが根幹をなす。そこに渡辺さんのアフロ・フレイヴァーのソプラニーノとゲイルのレゲエ・スタイルのギターが溶け込む。ブラスとストリングスが生み出す張り詰めた空気も素晴らしい。
チルアウトな2分の2拍子の「セレナーデ」では、渡辺さんのアルトがメロウでスタイリッシュな時間を演出。グルーシンによるピアノの軽くレイドバックしたスウィング感も、エレガントなムードを醸し出す。ミロノフのギターが奏でる、当意即妙のバッキングも絶品だ。まさにグルーシンズ・グルーヴとも云うべき「ウィ・アー・ジ・ワン」では、フィリー・ソウル顔負けの強力なリズムと濃厚なオーケストラ・サウンドに乗って、渡辺さんのアルトがパッショネートなフレーズを紡ぎ出す。プログレッシヴなビッグバンド・ジャズ「ホーム・ミーティング」では、軽快なシャッフル・ビートが都会のアクティヴィティを描写する。渡辺さんのエキサイティングなアルト、センテーノのしなやかでソウルフルなベース、ゲイルのブルージーなギターなどが聴きどころだ。
グルーシンの叙情的な小品「サダオのための小さなワルツ」では、渡辺さんのピュアなフルート、グルーシンのデコラティヴなピアノ、ファンタスティカルなストリングスが、印象主義的な世界を創出。モーダルなテーマからモジュレーションの効いたコーラスへの移行が得もいわれぬ感動を呼ぶ。やはりグルーシンのブラジリアン・ダンス・ナンバー「サンバ・ド・マルコス」は、アルバムのハイライト。ルバートでのミロノフの爽やかなブルース・フィールが匂い立つギター、ガットのカウベルを使った独特のドラミング、センテーノのフレキシブルなベース、バッシーニのエキゾティックなパーカッション、渡辺さんのクールなアルト、グルーシンのよく練られたストーリー展開を見せるローズ、そしてシンプルだがエフェクティヴなストリングスと、どこをとっても素晴らしい。
ラストの「イナー・エムブレイス」は、もともと前述の『オータム・ブロー』に収録されていたバラード。ここではグルーシンがよりソフィスティケーテッドなアレンジを施した。トレモロやポルタメントを効果的に使ったストリングス、リリカルでありファンキーでもある実に小気味いいソロを展開するフェンダー・ローズでは、グルーシンのセンスのよさが浮き彫りになった。そして、渡辺さんによるアルトのほどよく情感を込めた歌いっぷりからは、成熟した音楽家のダンディズムのようなものさえ感じられる。ということで本作では、渡辺さんとグルーシンとのコラボレーションが最高の到達点に達している。しかしながら、そんな現状に甘んじるふたりではない。その後もさらに自分たちの音楽を、発展させていくのである。そのハナシは、またの機会に──。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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