Neil Larsen Featuring Buzz Feiten / Live In Tokyo (2025年)

ピアノの鍵盤
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ラーセン=フェイトン・バンドの活動休止から8年後の来日公演が収録されたニール・ラーセン・フィーチュアリング・バジー・フェイトンの『ライヴ・イン・トーキョー 1990』

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Album : Neil Larsen Featuring Buzz Feiten / Live In Tokyo (2025)

Today’s Tune : Sudden Samba

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クラブ・スタイルの音楽イヴェント「キリン・ザ・クラブ」の模様

 

 前回、ラーセン=フェイトン・バンドの『ライヴ・イン・ニューヨーク 1980』(2025年)をご紹介した。1980年11月1日、ニューヨーク州ロングアイランドのロズリンという村にあったライヴ・スペース、マイ・ファーザーズ・プレイスにおいて実況録音された貴重な音源がCD化されたものである。ただしこのマスターは、非商用目的で録音されたテープから起こされたものなので、音質はかなり聴き苦しいものと云える。しかもこのアルバムをリリースしたキング・ストリートは、ブートレグ・レーベルと思われる。というのも、フロントジャケットやバックインレイに使用されている画像は、明らかにアルバム『ラーセン=フェイトン・バンド』(1980年)のリリースの際にワーナー・ブラザースが用意したプロモーション写真が加工されたものだからだ。

 

 したがって前回も申し上げたけれど、本作に関してはよほどのラーセン=フェイトンのファン、あるいはブルー・アイド・ソウル、AOR、フュージョンなどの熱心な愛好家でもないかぎりは、購入を見送ったほうがいいとぼくは思う。もしこの拙文を読んでラーセン=フェイトンの音楽を聴いてみたいと思ったかたがいたら、ぜひともまずは、正規にリリースされた彼らのアルバムを手にとっていただきたい。ただ厄介なことに、この『ライヴ・イン・ニューヨーク 1980』におけるライヴ・パフォーマンスは、ラーセン=フェイトンが隆盛を極めたころのもので、メンバーのプレイも最高潮に達している。その得も云われぬ臨場感から、当初覚えた音質に対する違和感や不快感は、いつの間にか雲散霧消。ぼくも夢中になって、一気に聴きとおしてしまった。

 

 日本ではこの『ライヴ・イン・ニューヨーク 1980』を、IAC ミュージック・ジャパンがディストリビューターとなり、堂々と国内仕様の輸入盤として販売している。さらにIAC(インター・アート・コミッティーズ)は、このアルバムと同時にニール・ラーセンのソロ・ライヴの模様を収録した音盤もリリース。ニール・ラーセン・フィーチュアリング・バジー・フェイトン名義の『ライヴ・イン・トーキョー 1990』(2025年)というアルバムだ。原盤はキプロス共和国のオビタディクタム・メディアのサブレーベル、ハイハットによって制作されたとのことだが、その意味深なレーベル名からしてブートレグの匂いがプンプンする。オビタディクタム・メディアは、所蔵するラジオ放送用音源において世界最大級を誇るとのことだが、実に怪しい。

ハモンド・オルガンと夜の都会の風景

 怪しいといえばこのCD、例によってアートワークがすこぶる如何わしい。まずフロントジャケットのラーセンが頭に両手を当てている写真だが、これは彼がMCAレコードに吹き込んだソロ・アルバム『スムース・トーク』(1989年)のバックカヴァーにあしらわれていたものだ。さらにジャケットを裏返してみると、なにやら覚えのあるラーセンの写真が──。にわかに1982年のあの夜のことが思い出される。高校生だったぼくは軽音楽部に籍を置いていた同級生と、当時、新宿5丁目にあった東京厚生年金会館にラーセン=フェイトン・バンド(正確にはフル・ムーン)の来日公演を観にいったのだけれど、そのとき購入したパンフレットにラーセンのプロフィールとともに掲載されていたのがくだんのフォトである。

 

 なおジャケットの内側にあるキーボードを弾くラーセンのショットは、出自はわからないけれど1980年代後半から1990年代前半くらいのころのものと思われる。そして最後になるが、バックインレイに使用されている画像は、ホライズン・レコードからリリースされたラーセンのソロデビュー・アルバム『ジャングル・フィーヴァー』(1978年)のプロモーション・ツール。国内盤LPにおいては、ライナーノーツが記載された投げ込みの裏面に、このラーセンのポートレイトが掲載されていた。これは余談になるけれど、このモノクロームの肖像におけるラーセンの表情は、いささか凍りついたかのように見える。ぼくはこのアルバムではじめて彼の音楽に触れたのだが、そのクールなテクスチュアはその写真からイメージされる人物像と妙にマッチした。

 

 いっぽう音源のほうは、TOKYO FMで日曜日の夜10時から放送されていた1時間番組『KIRIN LIVE PARADISE』のラジオ・アーカイヴ。ソースが正規に利用されたかどうかは、甚だ疑わしい。それはともかく収録されたライヴは、日本を代表するジャズ・サクソフォニスト、渡辺貞夫がプロデューサー兼ホストを務める、クラブ・スタイルの音楽イヴェント「キリン・ザ・クラブ」の模様である。この催しは1985年にスタートしたのだけれど、もともとは「渡辺貞夫ブラバス・クラブ」だった。ニール・ラーセン・バンドが招聘されたときは通算6回目の開催だったが、ちょうどこの年、スポンサーが変わったことによりイヴェントの名称も「キリン・ザ・クラブ」に変更された。

 

 今回リリースされた『ライヴ・イン・トーキョー 1990』の音質は、前述の『ライヴ・イン・ニューヨーク 1980』のそれに毛の生えた程度のものだから、音盤のマスタリングにはおそらく(個人が)ラジオ放送をエアチェックしたテープが使用されたのだろう。それはそれとして、今回この音源を自室のオーディオで再生して、ぼくはしばし懐旧の情に駆られた。なぜかというと、ぼく自身実際にこのライヴに足を運んだからである。ニール・ラーセン・バンドの公演は、1990年6月17日から20日までの4日間、当時、渋谷道玄坂のザ・プライムの5階にあったパフォーマンス・レストラン、せいよう広場(1992年に閉店)において開催された。今回リリースされたCDには、そのうち後半の2日間の演奏からセレクトされた5曲が収録されている。

 

 ぼくがダイニングバー、せいよう広場をはじめて訪れたのは、それこそ「渡辺貞夫ブラバス・クラブ」が挙行されていたとき。それは1988年6月23日のことで、コンテンポラリー・ジャズの雄、ピアニストのデヴィッド・ベノワのバンドが出演していた。ベノワは当時の新作『エヴリ・ステップ・オブ・ザ・ウェイ』(1988年)をリリースしたばかりだったが、アルバムには「SHIBUYA ステーション」というタイトルの曲が収録されている。ライヴでもしっかり披露されたのだけれど、感慨もひとしおだった。ベノワはぼくにとってマイナー時代から注目してきたアーティストだったが、はじめて間近で彼のセンシティヴかつダイナミックなピアノ・プレイを観て、そして聴いて、たいへん新鮮な気持ちになった覚えがある。

 

(ラーセン=フェイトン・バンドの『ライヴ・イン・ニューヨーク 1980』については、下の記事をお読みいただければ幸いです)

 

1990年の東京──ラーセンが残した熱い生演奏、そして置き土産

 

 しかも、せいよう広場が提供する食べものが、カジュアルだけれどどれも絶品なのだ。ニール・ラーセン・バンドの公演のときも、ライヴがスタートするまえに、美味いビールと極上の地中海料理をたっぷり楽しむことができた。開演まえの会場はとてもリラックスした雰囲気で、バー・カウンターではバンド・メンバーと客とが談笑している風景も観られた。なかには当時はきわめて貴重だった、ラーセンとフェイトンとが1971年に吹き込んだ『フル・ムーン』(1972年)のLPをもち込んでいるファンもいて、まわりから羨望の眼差しで見られていた。ふと気がつくと、ラーセン本人もビュッフェテーブルのまえで料理を皿に取り分けていたりする。そんな和んだ感じが「キリン・ザ・クラブ」のいいところだったな──。

 

 このときのニール・ラーセン・バンドのメンバーは、ニール・ラーセン(key)、バジー・フェイトン(g)、リッキー・マイナー(b)、ランド・リチャーズ(ds)、レニー・カストロ(perc)の5人。フェイトンとカストロは、云うまでもなくラーセン=フェイトン・バンドのもとメンバー。マイナーは、ラーセンがMCAレコードに吹き込んだ2枚のリーダー作に参加。のちにNBCのトーク番組『ザ・トゥナイト・ショー・ウィズ・ジェイ・レノ』において、バンドリーダーを担当し名を馳せた。リチャーズは、当時フィル・アップチャーチ(g, b)、ノーマン・ブラウン(g)、ボビー・ライル(key)、ロニー・リストン・スミス(key)といった、フュージョン系のアーティストのレコーディングで活躍していた、セッション・ドラマーだ。

 

 ちなみに「キリン・ザ・クラブ」では、イヴェントの最終日に行われるクラブ・ジャムが毎年恒例となっていたのだけれど、その年のギグにはラーセンも参加した。1990年6月29日に行われたジャム・セッションのパーソネルは、渡辺貞夫(as, sn)、ニール・ラーセン(key)、バジー・フェイトン(g)、エイブラハム・ラボリエル(b)、ヴィニー・カリウタ(ds)、レニー・カストロ(perc)となっている。ぼくはこの日は仕事の都合で会場に足を運ぶことができなかったのだけれど、その後TOKYO FMの『KIRIN LIVE PARADISE』の放送でクラブ・ジャムの一部を聴くことができた。ラーセンの「デモネット」や渡辺さんの「パッソ・ジ・ドリア」といったおなじみの曲に交じって、ブッカー T&ザ MG’sのナンバーが2曲演奏されていた。

エレクトリック・ギターと夜明け前の都会の風景

 このリズム・アンド・ブルース系のインストゥルメンタル・グループの1960年代のヒット曲「グリーン・オニオンズ」と「ヒップ・ハグ・ハー」の選曲は、ラーセンの肝煎りによるものだろう。彼は自己のリーダー作『スルー・エニー・ウィンドウ』(1987年)において「ヒップ・ハグ・ハー」をカヴァーしているのだ。ラーセンがハモンド・オルガンにこだわるのは、オルガニストでソングライターのブッカー T ジョーンズに強く影響されたからかもしれない。いずれにしてもこのクラブ・ジャムでは、このメンバーにしては稀に見るブルース・フィーリングが横溢するセッションが展開された。どうせCD化するのなら、こちらの音源も加えてもらいたかったものである。

 

 まあそれは置いておいて、この『ライヴ・イン・トーキョー 1990』に収録されているパフォーマンスをリアルに体験したひとならお分かりになると思うけれど、バンドの演奏も然ることながら、それに対する観客の反応が熱かった。まるでプレイヤーとオーディエンスが共鳴し合っているかのように、場内の雰囲気は終始熱気を帯びていた。無理もない、なにせ前述した1982年の来日公演以来8年ぶりに、名義は違えども実質的にはラーセン=フェイトン・バンドの演奏にナマで触れたのだから。高校生だったぼくも、いつの間にかすっかり社会人になっていた。少しは落ち着いたつもりだったが、やはりオープニングの「カーニヴァル」においてラーセンのシンセサイザー・ソロがはじまった途端、たちまちぼくのハートは10代の少年のようにときめいてしまった。

 

 しかもこのときラーセンは、思いもよらぬ置き土産を残して帰国した。それは折しも行われていたギタリスト、鳥山雄司の6枚目のリーダー・アルバム『プラチナ通り』(1990年)のレコーディングに、急遽ラーセンがカストロをともなって参加したことである。ふたりと鳥山さんとは、旧知の仲。かつて鳥山さんは単身ロサンゼルスに赴き、ラーセン=フェイトン・バンドのメンバーとともにレコーディングを行った。彼のセカンド・アルバム『シルヴァー・シューズ』(1982年)では、ラーセンがプロデュースを手がけ、名匠アル・シュミットがレコーディング・エンジニアを務めた。さらにラーセンとフェイトンとが、各々オリジナル曲を書き下ろしている。ラーセン=フェイトン・バンドのファンにとっては、マストハヴの1枚だ。

 

 ときに『プラチナ通り』におけるラーセンといえば、アルバム冒頭の「ハイ!サクラコサン」という鳥山さんのオリジナル曲で素晴らしいソロを披露している。ラーセンはここでピアノの音色にセットしたシンセサイザーを使用しているのだが、一聴して彼のアドリブとわかるフレーズを息つく間もなく紡ぎ出している。8小節を2コーラスと短尺なソロ・パートではあるが、高音部におけるフロウなどではラーセン節が全開。軽快なシャッフル・ビートと快然たるモジュレーションといった鳥山さんのコンポジションも然ることながら、ラーセンが綴る洗練された旋律的なストーリー・ラインが、楽曲に都会的なテクスチュアを与えている。数ある彼のプレイのなかでも名演と、ぼくはひとりで決めつけている。

 

 そのほか、リムショットのアタマ打ちとベースのアンティシペーションが心地いい「ポテッド・パロット」や、ヒップホップとロックとのハイブリッドなビート感覚が鮮やかな「フット・ロッカー」といった曲において、ラーセンはそのサウンドのトレードマークとも云えるハモンド・オルガンをプレイしている。彼があのロックンロールの殿堂入りを果たしたシンガーソングライター、レナード・コーエンをして「ハモンド B-3のもっとも優れた演奏者」と云わしめたことは、有名な出来事だ。とにもかくにも、この『プラチナ通り』はなかなかの名盤なので、ラーセンのファンで未聴のかたにはぜひともお試しいただきたい。またカストロの軽妙なパーカッションは、本作において終始聴くことができる。

 

ラーセンの横顔とライヴで演奏された曲目についてのメモ

 

 すっかり思い出に耽ってハナシが脇道にそれるばかりだが、ここでラーセンの横顔をざっくりとご紹介しておこう。ニール・ラーセンは、1948年8月7日オハイオ州クリーヴランドに生まれ、フロリダ州サラソータで育った。12歳のときにはすでにピアニストとしてステージに立ち、14歳のときには奨学金を受けインディアナ州ブルーミントンにあるスタン・ケントン・クリニックスに就学した。20歳になると、音楽隊のディレクターとしてベトナム戦争に従軍。退役後は、1970年代初頭にニューヨークへ渡り、テレビ番組のアイキャッチの音楽を作曲したり、スタジオ・ミュージシャンとして働いたりしていたが、ギタリストのバジー・フェイトンと出会い、ブルー・アイド・ソウル系のバンド、フル・ムーンを結成する。

 

 バンドはアラン・ダグラスのプロデュースによりアルバム『フル・ムーン』(1972年)をリリースするも、一朝一夕で自然消滅する。原因の一端は、フェイトンの薬物中毒にあると云われている。このアルバム以外で、当時のラーセン=フェイトンのプレイが聴けるのは、フォークロックのシンガーソングライター、ドン・マクリーンや、スポークン・ワードのパフォーマー、ライトニン・ロッドのアルバムくらいのものである。フェイトンのリハビリ中、ラーセンはソウル・サヴァイヴァーズザ・グレッグ・オールマン・バンドのメンバーとなり、キーボーディスト兼ソングライターとして活躍するが、伝説のプロデューサー、トミー・リピューマのお眼鏡に適い、1978年にA&Mレコードのサブレーベル、ホライズン・レコードと契約する。

 

 ラーセンのホライズンにおける2枚のリーダー作『ジャングル・フィーヴァー』(1978年)と『ハイ・ギア』(1979年)は、全編にわたりインストゥルメンタル・ナンバーで構成されているが、同時代のキーボーディストの作品のなかでもひときわ異彩を放っている。ハモンド・オルガンをメインに据えたクールなサウンド、シンプルなコード・プログレッション、そしてメロディアスなインプロヴィゼーションといった、ラーセンのユニークなキーボード・ワークは、当時のフュージョン・シーンに大きな影響を与えた。なおラーセンは、そのころA&Mレコードの日本における販売権をもっていたアルファレコードが主催するイヴェントにも参加している(フェイトンも同行している)。おそらくそれが、彼の初来日ということになるのだろう。

ハモンド・オルガン&エレクトリック・ギターと夜明けの都会の風景

 それは1978年の12月2日から10日にかけての9日間、新宿の紀伊國屋ホールで開催された「WE BELIEVE IN MUSIC – ALFA FUSION FESTIVAL ’78」というイヴェントで、深町純(key)、渡辺香津美(g)、大村憲司(g)、吉田美奈子(vo)、ベナード・アイグナー(vo)、そしてYMOことイエロー・マジック・オーケストラがフィーチュアされた伝説のライヴである。ラーセンに同行したリピューマがYMOのサウンドにいたく感じ入り、そのデビュー作をエンジニアのアル・シュミットとともに米国発売用にミックスし直したことは、あまりにも有名だ。ぼくはこのイヴェントには足を運んではいないけれど、ニール・ラーセン・バンドのセットでは会場内に空席が目立ったという。ラーセンのわが国での知名度は、まだまだ低かったのである。

 

 そんなラーセンも2年後には、日本においても一足飛びにひのき舞台に躍り出る。1980年、ホライズン・レコードの閉鎖にともない、リピューマはワーナー・ブラザースへ移籍。彼のプロデュースのもと、ラーセンはフェイトンとともに『ラーセン=フェイトン・バンド』(1980年)をリリースする。折しもフュージョン系のアーティストたちがこぞって、自らのリーダー作にヴォーカル・ナンバーをフィーチュアしてAORに急接近していたこともあり、このアルバムはたいへんな人気を博した。シングルカットされた「今夜はきまぐれ」は、ビルボード・ホット 100において29位を記録したが、わが国でもスマッシュヒットとなった。2年後には『ラーセン=フェイトン・バンド/フルムーン』(1982年)も発売され、ラーセンとフェイトンの人気は不動のものとなった。

 

 ラーセン=フェイトン・バンドは、往年のバンド名をふたたび掲げフル・ムーンとなり、その後の活動も順風満帆となるかのように思えた。しかしながらバンドは、またもや活動休止。一説によると、フェイトンがソロ・アルバムの制作に意欲を掻き立てられたことが、その一因だという。結局、彼のリーダー作は世に出ることはなかったが──。いっぽうラーセンは、ウーマック&ウーマックリッキー・リー・ジョーンズランディ・ニューマンケニー・ロギンスライオネル・リッチーといったポップ・アーティストや、ハーブ・アルパート(tp)、カリズマジョージ・ベンソン(g)などのフュージョン系のミュージシャンのレコーディングを経て、MCAレコードにリーダー作を吹き込むことになる。その間、5年の歳月が流れた。

 

 ラーセンはMCAレコードに、セルフ・プロデュースで『スルー・エニー・ウィンドウ』(1987年)『スムース・トーク』(1989年)といった2枚のリーダー作を吹き込んだ(両作にはフェイトンも参加している)。そういえば前述した「カーニヴァル」は前者に収録されているのだけれど、もともとはマイルス・デイヴィスの没後に発表されたリーダー作『ラバーバンド』(2019年)のために書かれた曲だったな──。サウンド的には相変わらずアーバンでソウルフルではあるが、これも時代の趨勢なのだろう、いくぶんデジタル・シンセサイザーの使用が目立ち作り込まれた印象を与える。その点、ホライズン時代のサウンドに観られたクールネスは、若干薄味になっているように思われる。しかし同時期の録音とはいえ『ライヴ・イン・トーキョー 1990』での演奏は、アルバムのときよりも段違いに熱を帯び精彩を放っている。

 

 最後になったが、この『ライヴ・イン・トーキョー 1990』の曲目について、簡単にメモしておく。正味40分全5曲(すべてラーセンのオリジナル)と、いささか短い時間ではあるけれど、ニール・ラーセン・バンドのエキサイティングなライヴをお楽しみいただきたい。冒頭は『ジャングル・フィーヴァー』からの「ウィンドソング」で、やや原曲とは印象が趣きを異にする。ミッドテンポのサンバ風のリズムに乗って、リハーモナイズしながら展開されるシンセのソロが新鮮だ(ギター・ソロは原曲どおりのコード進行)。2曲目は『スムース・トーク』からの「カフェ・パシフィカ」で、シンコペーテッドなグルーヴはオリジナルのまま。オルガンのソロも然ることながら、コード進行を変えてアドリブするギターの音像の歪み具合がいい。

 

 3曲目は『ジャングル・フィーヴァー』からの「サドゥン・サンバ」で、オルガン、ギターと白熱するソロがつづいたあと、ドラムスとコンガとによるバトゥカーダ風の展開になる。ポリメトリックにアフロビートが盛り込まれるところが、また痛快だ。4曲目はやはり同名アルバムからの「ジャングル・フィーヴァー」で、シンセのパストラール調のイントロが意表を突く。強烈なファンク・ビートに乗って、シンセが躍動感に溢れたアドリブを繰り広げる。ラストは同名アルバムからの「ハイ・ギア」で、ブルージーなイントロ、ロッキッシュなテーマ、そしてはじけるようなラテンのリズムといった進行が爽快。ソロ・パートにおける、軽快なシンセと重量感のあるギターとのコントラストが鮮やかだ。これぞ、ラーセン=フェイトン!といった感じである。

 

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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