George Duke / A Brazilian Love Affair (1980年)

ピアノの鍵盤
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多芸多才のミュージシャン、ジョージ・デュークが残したワン・アンド・オンリーなブラジリアン・サウンドの傑作『ブラジリアン・ラヴ・アフェア』

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Album : George Duke / A Brazilian Love Affair (1980)

Today’s Tune : Brazilian Love Affair

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アルバム『デューク』は個人的メモリアルあるいは負の遺産?

 

 ジョージ・デューク(1946年1月12日 – 2013年8月5日)というと、ぼくが最初に思い出すのが、2011年の3月11日に起こったあの出来事だ。云うまでもなく、東日本大震災である。東北地方や関東地方の太平洋沿岸部に住まわれているかたたちが受けた被害にくらべたら、ぼくに降りかかった災厄など取るに足りないものだ。いまさら語る価値などないのだが、あのとき自分の生活で起こった雑事が、にわかに脳裏によみがえる。当時ぼくは東京都の練馬区、西武線の石神井公園駅に近いマンションに住んでいたのだが、家財道具や住宅設備はそれなりに被害に遭った。勤務地が江東区だった妻が職場に足止めされたため、ぼくは自家用車でまだ1歳だった長女を保育園で拾い、そのまま妻を迎えに行った。翌日は土曜日だったが、ぼくは被害のあと片付けをするため、休日返上で勤め先に向かった。

 

 繰り返すが、ぼくの経験した災難など、騒ぎ立てるほどのことではない。だからこれ以上、この件に関して語るのは控えさせていただくが、ひとつだけ触れておく。あの日、ぼくの部屋に固定されていた巨大な棚から、多数のCDが床に落下した。その衝撃でずいぶんとプラスティック製のケースが割れた。幸いなことに、アナログ・レコードのほうは1枚も落ちなかった。まあCDのほうも、時間はかかるけれどケースを交換すればいいだけのことと、ぼくはプラスティックの破片を掃いたあと、しばらく放置したままにしていた。ほかにやるべきことが、山積していたからね──。それからようやく落ち着いたころ、とあるCDのケースが交換できないという事実を知ったのである。それは『デューク』(2005年)というアルバムだった。すなわち、ジョージ・デュークの作品だ。

 

 このCD、なぜケースの交換が利かないかというと、パッケージングの仕様がデジパック方式だったから。厚紙でできたジャケットを開くと、その内側面を台紙としてプラスティック製のトレーが貼り付いている、あれだ。確かに外観はゲートフォールド式で洒落ているし、歌詞カードやライナーノーツ、あるいはフォトブックレットなど多くの付属品が収納できるという点で機能性も高い。しかし、そのぶんデメリットも大きい。通常のプラスティック・パッケージ仕様のCDアルバムと違って、ケースを容易に交換することができないのである。ただでさえCDケースといえば、トレーのディスクを固定するツメが破損しやすいというのに、交換できないとなると困惑するばかりだ。

ピアノを弾く女子高生とハースト・キャッスル

 調べてみたら、一応デジパック用のトレーは市販されていた。しかしながら、通常のプラスティック・パッケージのケースより、ずっと高額だった。百歩譲ってトレーの交換が可能であると認めはするけれど、いったいどうやって交換すればいいのか戸惑いを覚えるし、裏技的な方法もあるようだが、それには時間と手間がかかるので現実的ではない。ちなみに制作サイドのほうも、この仕様を採り入れるとやたらとコストがかかるということで、採用を断念することがままあるという。じゃあ、やめようよ──と、ぼくは声を大にして、レコード会社のかたに訴えたい。そんなわけで、ぼくが所持する『デューク』は、修復するのが非常に困難という憂き目に遭ったのである。だがそんなとき、ぼくはある天啓を得たのだった。

 

 このCD、デジパック仕様のパッケージは、壊れたままにしておこう──。そんな考えが、ぼくのアタマにぱっと浮かんだのだ。あの日、自分が体験したことを、延いては多くのひとびとに未曾有の被害をもたらした大震災のことを、記憶にとどめておこう。たくさんのかけがえのないの命が失われたという事実を、忘れないようにしよう。この激しく破損したパッケージを見るたびに、ぼくはいま幸福であることに感謝し、これからも世のなかが平和であることを願うのである。浅はかな思いつきかもしれないし、なんの関係もないジョージ・デュークには申し訳ないけれど、この『デューク』は、ぼくにとってはある種のメモリアル、あるいは負の遺産みたいなものとなっている。本筋から外れることはわかっていたが、どうしても触れておきたかった。

 

 さて、ここからは音楽のハナシをしよう。ジョージ・デュークといえば、ぼくのなかでは多芸多才のミュージシャンというイメージが強い。ちょっとわるい云いかたをすれば、なんでもアリのキーボーディストということになる。正直に云うと、ぼくはマルチタレントみたいなひとをスゴイとは思うものの、実はあまり信用していない。音楽家の場合、そのひとのパーソナリティが見えてこなかったり、作品において自己のアイデンティティが希薄だったりすると、あまり魅力が感じられないし、ときにはさらさら興味が湧かなかったりすることもある。これはまったくぼくの趣味嗜好になるが、デュークはその点でぎりぎりセーフなアーティストと思われる。キーボード奏者の作品として、いいものもそれなりにあるけれど、面白くないものもけっこうある。

 

 デュークはキーボード・プレイのスタイルこそ違うけれど、ハービー・ハンコックと比較される機会が多かったように思われる。ふたりとも、ピアノをはじめフェンダー・ローズや各種のシンセサイザーの演奏において、格別な技巧と能力を発揮するという点では共通する。そのテクニックたるや、名人の域に達するものである。1970年代後半あたりから、もちまえのファンキーなキーボード・ワークを活かして、時代の趨勢でもあったディスコ・サウンドへ傾倒していくところも似ている。デュークの場合、盟友であるベーシスト、スタンリー・クラークとのユニットによる『クラーク/デューク・プロジェクト』(1981年)、そしてダンス・クラシックの誉れ高い『ドリーム・オン』(1982年)あたりで、その人気はピークを迎える。

 

ディスコ・サウンドで日本での人気は絶頂を極めたがルーツはジャズ

 

 当時のジョージ・デュークの人気といえば、日本でも絶頂を極めていた。実は前述の『デューク』には、ボーナスDVDが付属している。このアルバムと同様に、デュークのプライヴェート・レーベル、BPMレコードからリリースされた、ザ・ジョージ・デューク・バンドの『ライヴ・イン・トーキョー・ジャパン 1983』(2003年)というDVDからの、ダイジェスト映像が収録されているのである。もとのDVD作品はタイトルにあるとおり、1983年11月30日、12月1日に東京の渋谷公会堂で行われた、デュークの日本公演の模様が収められたもの。全14トラック中ボーナスDVDのほうでは、デュークのもっともヒットしたナンバー「スウィート・ベイビー」と「シャイン・オン」といった2曲がチョイスされている。プロモーション版とはいえ、お得な付録だ。

 

 この映像をあらためて観ると、当時のデュークが名実ともに驚異的なアーティストだったと再認識させられる。特に「シャイン・オン」が、スゴイことになっている。ポール・ジャクソン・ジュニア(g)、ルイス・ジョンソン(b)、スティーヴ・フェローン(ds)といった敏腕ミュージシャンたちの超絶テクニックも然ることながら、日本のオーディエンスのテンションの高さに驚かされる。メガネをかけた真面目そうな青年男性が、すっかりハイになってステージに上がり、踊るわ歌うわで会場はさらに沸く。デュークもステージを降りて、熱狂する観衆のなかへ突入する。当然のごとく、おとなしく客席に座ってじっと音楽に耳を傾けているひとなどだれもいない。会場前方は、まるで学生と機動隊との激しいもみ合いのようになっている。

 

 ショルダーキーボードを操るデュークも、途中からプレイに集中できなくなる。キーボードは引っ張られるわ、髪の毛を触られるわ、ほっぺにキスされるわで、もうもみくちゃ状態。本人はけっこう嬉しそうだけれど──。スーツ姿の警備員さんも必死で盾になるのだけれど、あまり効果が上がらない。それでもなんとかステージに戻ったデュークは、最後までオーディエンスを熱狂させ、すっかりディスコティークと化した会場は熱気に包まれつづけた。まがりなりにも当時のデュークの作品といえば、一般的にはジャズ/フュージョンにカテゴライズされていた。でも実際のところ、彼の楽器演奏ひいては音楽そのものは、日本のジャズの愛好家にはあまり相手にされていなかった。むしろジャズを知らないひとに支持されたということに、時代性が感じられる。

キーボードを弾く女子高生とダンスするアフロヘアの男

 そもそもジョージ・デュークという音楽家を、ジャズ・プレイヤーとして観ることのほうが、不自然なのかもしれない。ただ彼の音楽のルーツは、間違いなくジャズだったのである。カリフォルニア州サン・ラファエル生まれのデュークは、4歳ごろからピアノを弾くことに興味をもちはじめた。ある日、母親に連れていかれたデューク・エリントンのコンサートで、はじめてジャズに触れた。そしてエリントンに憧れた彼は、7歳から地元のバプテスト教会において、正式にピアノのレッスンを受けるようになる。ミルヴァレー市のタマルパイス高校に通うようになると、学友とともにバンドを組んでジャズを演奏するようになる。このころの彼は、モード・ジャズやソウル・ジャズから影響を受けたという。

 

 その後デュークは、1967年にサンフランシスコ音楽院でトロンボーンと作曲の学士号を取得。なお副専攻は、コントラバスだった。さらに1975年、彼はサンフランシスコ州立大学で作曲の修士課程も修了している。大学在学中、デュークはすでにサンフランシスコのジャズ・クラブ、ハーフ・ノートのハウス・ピアニストとして演奏していた。彼のトリオをバックに、あのアル・ジャロウがジャズ・スタンダーズを歌うこともあった。このエピソードは昔から有名だったが、その音源は2011年、BPMレコードからリリースされたCD『ライヴ・アット・ザ・ハーフ・ノート 1965 Volume 1』として、ついに日の目を見た。デューク19歳、ジャロウ25歳──おそらくデュークのレコーディングとしては、最初期のものだろう。

 

 また、おなじころデュークは、やはりサンフランシスコのクラブ、ジャズ・ワークショップにも出演していた。そこで彼は、たまたまレス・マッキャンの演奏を観にきていた、ドイツの音楽プロデューサー兼エンジニア、ハンス・ゲオルグ・ブルナー=シュワーに見初められた。結局デュークは地元のスタジオにおいて、バス・トランペットをフロントに据えたクァルテットで吹き込みを行う。デューク20歳にして初リーダー作となった『ザ・ジョージ・デューク・クァルテット』(1966年)は、ドイツのSABAレコードからリリースされた。アルバム・プロデュースを務めたSABAレーベルの創設者でもあるブルナー=シュワーは、その後1968年に新たにMPSレコードを設立するが、デュークはのちにMPSレーベルの専属アーティストとなる。

 

 上記の初リーダー作でデュークは、ハード・バップ、モーダル・ジャズといった、ごくごくオーソドックスなジャズを演っている。曲によってはボサノヴァのリズムが採り入れられたりしていて、全体的にもブリリアントなトーンが映えている。ありったけのテクニックを駆使して指を動かすデュークが、なんとも初々しい。こんなに微笑ましい彼のプレイを、ぼくはほかに知らない。その3年後には、すでに雄渾な演奏家となっていたからだ。デュークは自己のトリオを率いて、フランス出身のヴァイオリニスト、ジャン=リュック・ポンティと、ハリウッドのサイケデリック・ナイトクラブ、ディー・エクスペリエンスでギグを行ったのだが、彼らはそこでアグレッシヴでエレクトリックなジャズ・ロックを展開している。

 

デュークの作品ではレアなバランスのいいブラジリアン・フュージョン

 

 そう、このときのジョージ・デュークには、新進のモダン・ジャズのピアニストとしてデビューを果たしたときの面影は、すでにない。なおデューク・トリオとポンティとの白熱するライヴは、ワールド・パシフィック・ジャズ・レコードから『カンタロープ・アイランド(エクスペリエンス)』(1969年)として、リリースされた。さらにデュークは、当時フランク・ザッパのレコーディングに参加したポンティがとりもつ縁からか、ザッパのバンド、ザ・マザーズ・オブ・インヴェンションのメンバーとなる。デュークはこのバンドにおいて、1970年から1975年までキーボーディスト、トロンボニスト、そしてシンガーとして活躍した。ザッパは、エクスペリメンタル・ロックからフュージョンまで幅広い音楽性をもつマルチプレイヤー。デュークへ与えた影響は甚大だ。

 

 ザッパのバンドに加入する前年の1969年、デュークはリバティ・レコード(パシフィック・ジャズ・シリーズ)に、セカンド・アルバム『カム・トゥゲザー(セイヴ・ザ・カントリー)』(1970年)を吹き込んでいる。ローラ・ニーロジュディ・コリンズ、それにビートルズなどのポップ・ナンバーを採り上げながらも、自作曲ではときにファンキー、ときにモーダルなジャズをプレイしている。ぼくはけっこう好きなのだけれど、アルバムとしてはまとまりがない。デュークのジャズにとらわれない自由闊達な音楽性が開花するのは、やはりMPSレコードの作品からだろう。レーベル第1作の『ジ・イナー・ソース』(1973年)では、ローズやウーリッツァーも弾いているが、どちらかといえばまだまだジャジー。アヴァンからスピリチュアルまで、聴きごたえはある。

 

 つづく『フェイセス・イン・リフレクション』(1974年)において、デュークの音楽はまるでメタモルフォーシスのように、ついに見事な変貌を遂げる。それはまさに、蝶がサナギのなかで幼虫の生体組織を徐々に変化させて、宙を舞う美しい成虫になったかのごとくである。1960年代中盤、クラブでオーソドックスなジャズを器用に演奏していたフレッシュな青年ミュージシャンが、たった10年足らずの間に、ジャズ・ファンク、というか様々なジャンルを超越した堂々たるフュージョン・ミュージックを創出するとは、だれが想像しただろうか。しかも、ジョン・ハード(b)、レオン・ンドゥグ・チャンクラー(ds)をサイドに据えたトリオ編成で、スケールの大きな音世界がクリエイトされている。のちにデュークの十八番となる、ファルセット・ヴォイスも聴くことができる。

ショルダーキーボードを弾く女子高生とコルコヴァードのキリスト像

 ぼくはさきに、デュークのアルバムにはキーボード奏者の作品として、いいものもそれなりにあるけれど、面白くないものもけっこうあると述べた。その点『フェイセス・イン・リフレクション』は、大傑作だと思う。そしてさらに云えば、MPSレコードの7作品は粒揃いだ。それらのアルバムに親しんだものからすると、その後のエピックやエレクトラといったアメリカのメジャー・レーベルの作品は、いささかもの足りない。ただ1980年代から1990年代までコマーシャルな作品をビジネスライクにリリースしていくデュークを、ぼくは批判するつもりはさらさらない。むしろプロデューサーとしての才覚は、抜群と云える。その点で、ポップ・アルバムとしての『ドリーム・オン』は、非の打ちどころがない名盤だ。

 

 ということで、長々と多芸多才のデュークについて語ってきたが、彼の作品を俯瞰したとき『フェイセス・イン・リフレクション』『ドリーム・オン』とともに、ぼくが高く評価するのは『ブラジリアン・ラヴ・アフェア』(1980年)だ。当時、ファンク・マスターとしての評価が高まっていたデュークだけに、突然、実にバランスのいいブラジリアン・フュージョン作品をものしたのには、ぼくもたいそう驚かされた。デュークはなんでもアリのキーボーディストだが、もしも彼のブラジル音楽に対する認識がつけ焼き刃的なものだったら、ここまでワン・アンド・オンリーなブラジリアン・サウンドを創出することは不可能だったに違いない。デュークはここで、自己のアイデンティティをブラジルに接近させているいっぽうで、ブラジル原産の素材を彼流に味付けしている。見事と云うしかない。

 

 オープニングの「ブラジリアン・ラヴ・アフェア」はサンバのリズムが活かされた、ビートの効いたフュージョン・ナンバー。デュークが歌ったあと、バイロン・ミラー(b)とリッキー・ローソン(ds)が、ライヴ感に富んだ熱いソロを展開。最高潮に達したところで、デュークのローズが軽快に疾走しはじめる。名曲にして、名演だ。つづく「サマー・ブリージン」は、デュークのスキャットを主軸に据えた爽やかなボサノヴァ。ザ・シーウィンド・ホーンズが洗練されたムードを加味している。タンボーリス・ジ・ミナスのリズムが活かされた「クラヴォ・イ・カネーラ」では、作者であるミルトン・ナシメント(vo, g)をフィーチュア。デュークによるシンセ群が、ナシメントの曲によく馴染んでいる。なおナシメントが参加したトラックは、リオデジャネイロでの吹き込みだ。

 

 インタールード的な「アローン-6AM」では、デュークのヤマハ・エレクトリック・グランドによる、ゴスペル風のダイナミックなソロ・ピアノをしばし堪能。軽妙なボッサ・フュージョン「ブラジリアン・シュガー」では、フローラ・プリン(vo)の器楽的唱法、ラウル・ジ・スーザ(tb)のパンチの効いたソロ、デュークのスムースなミニモーグと、清涼感のある展開を見せる。アーバンなサウンドが際立つ「シュガー・ローフ・マウンテン」では、ザ・シーウィンド・ホーンズのエッジの効いたブラス、シーラ E.のティンバレス、そしてデュークのソリッドなローズがキャッチーだ。スペーシーな「よみがえる愛」ではミニモーグ、ストレートなサンバ「リオの嵐」ではアコースティック・ピアノと、デュークの巧妙なキーボード・ワークが際立つ。

 

 サウダージ感覚とソフィスティケーテッドなハーモニーとが交錯する「アイ・ニード・ユー・ナウ」では、シモーネのユニセクシャルなヴォーカルとジェリー・ヘイの温かみのあるフリューゲルホーンとのコントラストが実に美しい。アルバムのラスト「アオ・キ・ヴァイ・ナセール」と、CD化の際に追加された「カッシャンガー」といった2曲は、ともにナシメントの独擅場。彼の音楽の存在感の大きさと影響力の強さを、あらためて感じさせられる。また、このアルバムの幕引きは、デュークのブラジリアン・ミュージックへの多大なリスペクトを示唆するものでもある。実はデュークは、レコーディングでリオを訪れた際、あのイヴァン・リンスと出会っている。だがリンスを作品に参加させるゆとりはすでになく、デュークにとっては唯一のこころ残りとなった。ぼくとしては、その後、本作のような方向性に二度とアプローチされなかったことが、残念でならない。

 

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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