追悼クインシー・ジョーンズ──その卓越したプロデュース能力、秀逸なアレンジのセンスとアイディアが発揮された『ディス・タイム・バイ・ベイシー』
Album : Count Basie / This Time By Basie! Hits Of The 50s & 60s (1963)
Today’s Tune : I Left My Heart In San Francisco
デイヴ・グルーシンとボブ・ジェームスはクインシーの懐刀だった
クインシー・ジョーンズがこの世を去った。2024年11月3日の夜、カリフォルニア州ロサンゼルス市のベルエア地区の自宅で、家族に見守られながら息を引きとった。91歳だった。訃報を聞いたとき、ぼくはまったく不届きなことに、(敬愛の意を込めてファーストネームで呼ばせていただくが)クインシーほどのひとともなると、やはりベルエアのような高級住宅街に居を構えるのだな──などと思ってしまった。ベルエアはサンタモニカ山脈の裾野に位置する、緑豊かな自然景観の美しさを誇る地域。ロサンゼルスではハリウッドやビバリーヒルズ以上に、セレブたちの注目を集めている。ニューヨーク・タイムズの表現をそのまま借りれば、クインシーはまさにアメリカ音楽界の巨人。そんな静かで暮らしやすい住宅地に住むのは当たりまえか──。
ところで、アメリカには音楽界の巨人の名に相応しいひとはそれなりにいると思われるけれど、クインシーほど半世紀以上にわたって様々なジャンルの音楽に影響を与えた音楽家はほかにいないのではないだろうか。彼のキャリアが語られるとき一様に触れられるのは、“キング・オブ・ポップ”ことマイケル・ジャクソンのアルバム『スリラー』(1982年)のプロデューサーを務めたこと。そして1985年、当時深刻化していたアフリカの飢餓を救済するためのプロジェクト、USAフォー・アフリカにおいて、チャリティソング「ウィ・アー・ザ・ワールド」のプロデュースを手がけたことではないだろうか。しかしそれらはクインシーの長い音楽人生において、ほんの一部の偉業に過ぎないのである。
おそらく多くのかたがクインシーの訃報に接して彼のことについて客観的に語るだろうから、ぼくは飽くまで彼に関する個人的な思い出を述べてみようと思う。死因は公表されなかったけれど余計な詮索はせずに、まずはここに心からの哀悼の意を表する。そして、これまでぼくに多大な影響を与えてくれたクインシーに感謝の意を込めて、彼の音楽との出会いに遡ることにする。ぼくが最初に手にとったクインシーのアルバムは、A&Mレコードにおける4枚目のリーダー作『バッド・ガール』(1973年)だった。厳密にはクインシーの音楽をもっとまえに聴いていたのだけれど、それについては後述する。それはさておき当時、ぼくはまだ中学生だったが、すでにジャズとフュージョンを並行して聴いていた。
ぼくがもっとも敬愛する音楽家はデイヴ・グルーシンとボブ・ジェームスだが、このふたりはキーボーディストとして『バッド・ガール』のレコーディングに揃って参加している。そのクレジットを発見したことが、ぼくがこのレコードを購入するキッカケとなった。それ以前といえば、クインシーのことは名前しか知らなかった。ぼくにとってはバイブルとも云えるグルーシンのリーダー作『ジェントル・サウンド』(1978年)のバック・カヴァーには、クインシーによるレコメンデーションが記載されている。これを見て、ぼくはクインシーに興味をもったのだった。もちろんこのときは、グルーシンとジェームスが、クインシーの懐刀として辣腕を振るわせていることなどはつゆ知らずだった。
クインシーはA&Mレコードに『ウォーキング・イン・スペース』(1969年)から『ライヴ・アット武道館』(1981年)まで、11枚のアルバムを残している。ぼくが彼の音楽からもっとも影響を受けたのは、同レーベルの作品群において。ジャズ、ロック、ラテン、ソウル、フィルム・ミュージックなど、あらゆるジャンルを超えてクリエイトされたA&M時代のクインシー・サウンドには、そのころ音楽を演っていたぼくにとって学ぶところがたくさんあった。たとえばA&Mの記念すべき第1作『ウォーキング・イン・スペース』(1969年)などは、イノヴェイティヴなジャズ・オーケストラ作品として、いま聴いてもフレッシュに響く。特に表題曲ではビッグバンド・スタイルに、ロック・ビートと4ビートとを織り交ぜたリズム、ソウルフルな女性ヴォーカルをもち込んだところがユニークだ。
このアルバムからクインシーのオーケストラにおいて、ボブ・ジェームスがキーボーディスト、アレンジャーとして、重要な役割を果たしている。ジェームスはまだ大学生だった1962年、自己のピアノ・トリオでノートルダム・ジャズ・フェスティヴァルに出演し優勝を果たしているが、そのとき彼に目をとめたのがクインシーだった。これを機にジェームスは当時クインシーが所属していたマーキュリー・レコードにおいて、アヴァンギャルドな初リーダー作『ボールド・コンセプションズ』(1963年)を吹き込むことになる。そしてこのアルバムのミュージカル・ディレクターも、クインシーが務めた。その後クインシーは、自らプロデュースを手がけたサラ・ヴォーンのアルバムなどでも、ジェームスをピアニスト、アレンジャーとして起用した。
かたやデイヴ・グルーシンは『バッド・ガール』からクインシーの楽団に参加する。それにつづくクインシーのA&M第5作『ボディ・ヒート』のレコーディングを最後に、ジェームスがバンドを離脱。第6作『メロー・マッドネス』(1975年)からはグルーシンのキーボードとアレンジがオーケストラの中核をなす。グルーシンが加わったあたりからクインシー・サウンドは、ジャズ色がどんどん薄くなり徐々にリズム・アンド・ブルースにアプローチするようなになっていく。なおポップ・シンガー、アンディ・ウィリアムスのシャンソンを中心としたアルバム『パリの空の下』(1960年)において、クインシーがオーケストラのコンダクターを務め、グルーシンがピアノをプレイしている。このパリでのレコーディングあたりがふたりの出会いだったのかもしれない。
ハナシをもとに戻すが、ぼくは『バッド・ガール』を聴いて、たちどころにクインシーの音楽のとりこになった。特にアルバム冒頭の「サマー・イン・ザ・シティ」のクールなサウンドに激しくこころを揺さぶられた。フォークロック・バンド、ラヴィン・スプーンフルのカヴァーだけれど、オリジナルより全然スタイリッシュ。というかまるで別の曲に聴こえた。クインシーのアレンジャーとしての才能が遺憾なく発揮されたトラックだ。チャック・レイニーのベースとグラディ・テイトのドラムスとが打ち出すグルーヴィーなリズム、デイヴ・グルーシンのフェンダー・ローズによる軽快なバッキング、エディ・ルイスのハモンド・オルガンが綴るブルージーなフレーズ、そしてスモーキーなストリングスのアンサンブル──と、どこをとってもスウィートだ。
1970年代から1980年代までのクロスオーヴァー/フュージョン作品
しかも曲の前半ではインストゥルメンタルとして各々の楽器演奏の素晴らしさを味わわせておいて、後半ではいきなりヴァレリー・シンプソンのアパッショナートなヴォーカルをインサートしてソウル・テイストを全開させるという、クインシーのアイディアにはただただ感服させられる。シンプソンは前述の「ウォーキング・イン・スペース」でもリード・ヴォーカルを務めているけれど、彼女はソングライター・チームとしても名を馳せた夫婦ソウル・デュオ、アシュフォード&シンプソンのシンプソンそのひと。彼女はけっこうソウルフルに歌っているのだけれど、歌声にとてもソフィスティケーテッドな響きをもつから不思議だ。これもまた、クインシーによるマジックなのだろうか。
ちなみにこの「サマー・イン・ザ・シティ」は、それまでのA&M時代の作品の集大成ともいえる第7作『アイ・ハード・ザット!!』(1976年)にふたたび収録されているが、そちらのヴァージョンには冒頭にニューヨーク市アッパー・マンハッタンの環境音がミックスされている。真夏の暑さ凌ぎで子どもたちが消火栓を抜いて遊んでいる。そこにパトカーがサイレンを鳴らして駆けつける。そんなシーンが切り抜かれたSEは、クインシーが創出するアーバン・ソウルな世界に見事にマッチしている。クインシーは映画音楽も多数手がけているけれど、たとえばサウンドトラック・アルバムでは『ホット・ロック』(1972年)が、おなじようにほどよいファンキーさと都会的なムードをもっていて、ぼくの好み。テイトとレイニーとが繰り出す、独特のグルーヴ感も最高だ。
それ以降中学から高校にかけて、ぼくは過去の作品も含めてクインシーの音楽にどっぷり浸かるようになるのだけれど、もっとも好きなのは『ウォーキング・イン・スペース』から『アイ・ハード・ザット!!』までの作品。サントラ盤の『ウィズ』(1978年)もよく聴いた。おなじころにリリースされたA&M第9作『スタッフ・ライク・ザット』(1978年)も好きだけれど、これは過渡期の1枚。リズム・セクションにリチャード・ティー(key)、エリック・ゲイル(g)、スティーヴ・ガッド(ds)といった、人気フュージョン・グループ、スタッフのメンバーが据えられている。また、ハービー・ハンコックの楽曲や、彼自身によるフェンダー・ローズが大きくフィーチュアされたりしていて、それまでのクインシー・サウンドとはかなり趣きを異にする。
つづく日本でも大ヒットしたA&Mレーベル第10作にあたる『愛のコリーダ』(1981年)は、もはやジャズを意識する必然性などどこにもないポップ・チャートを賑わすようなものであり、クインシーもすっかりプロデュース業に専念するようになる。事実上サウンドは、グレッグ・フィリンゲインズ(key)、ルイス・ジョンソン(b)、ジョン・ロビンソン(ds)による、安定感と強力な律動感を備えたリズム・セクション、ハワイ出身のフュージョン・バンド、シーウィンドのメンバーによる、ジェリー・ヘイ(tp, flh)を中心としたエッジの効いたホーン・セクション、活動の拠点をロンドンに置く多国籍バンド、ヒートウェイヴのキーボーディスト、ロッド・テンパートンによるポップなディスコ・ファンクを極めるソングライティングなどによって形成されている。
このクインシー・ファミリーとも云うべき、新たなクインシー・サウンドの優れたマテリアルの集合体によって、マイケル・ジャクソンの『オフ・ザ・ウォール』(1979年)、ルーファス&チャカの『マスタージャム』(1979年)、ザ・ブラザーズ・ジョンソンの『ライト・アップ・ザ・ナイト』(1980年)、ジョージ・ベンソン(g, vo)の『ギヴ・ミー・ザ・ナイト』(1980年)、パティ・オースティン(vo)の『デイライトの香り』(1981年)などの傑作が生み出された。これらの作品においてクインシーは幅広いファンを獲得し、のちにアメリカ音楽界の巨人とまで呼ばれるようになる足掛かりを作ったと云える。彼自身オーガナイザーの立場にとどまっているのにもかかわらず、トータル・サウンドにそのオーラが感じられるのは実に驚異的だ。
このころのクインシーの人気は、日本でもちょっとしたものだった。身近なところでは、高校生のぼくは吹奏楽部に所属していたのだけれど、部ではクインシーの楽曲が積極的に採り上げられていた。スコア譜がなかったからか、ぼくは先輩に「愛のコリーダ」や「鬼警部アイアンサイドのテーマ」のレコード・コピーをやらされた。“サントリービール・サウンド・マーケット81”と銘打たれたクインシーの1981年の日本公演では、それこそ「ウォーキング・イン・スペース」をはじめとする過去の楽曲も数曲演奏されたので、一部の部員たちは旧作まで遡って彼のレコードを聴くようになっていたのだ。ぼく自身も彼の楽曲を耳でコピーするうちに、1950年代から1960年代までのA&M時代以前のビッグバンド・ジャズ作品にも食指を動かされるようになっていた。
クインシーはもともとトランペット奏者だった。1933年3月14日イリノイ州シカゴ市生まれの彼にとって、最初の音楽との出会いは、幼いころ教会のヴォーカル・クァルテットの一員としてゴスペルを歌ったこと。たまたま隣人がストライド・ピアノを弾いていたことから、ピアノ演奏にも興味をもった。10歳のときワシントン州ブレマートン市に移り、戦後はさらにシアトル市に転居する。14歳にしてトランペットを手にするが、地元のガーフィールド高校に入学すると本格的にレッスンを受けるようになる。1951年にシアトル大学に入学したものの、通ったのは1学期のみ。ときを移さずマサチューセッツ州ボストン市にあるシリンジャー・ハウス(のちのバークリー音楽院)に転入し、本格的に音楽理論を学んだ。
同年クインシーはトランペット奏者として、ヴィブラフォンの名手、ライオネル・ハンプトンの楽団の一員となる。彼はまだ18歳だった。1953年にハンプトンのバンドを脱退すると、クインシーは早々と自己のバンドでレコーディングを行う。スウェーデンのメトロノーム・レコードからリリースされた『クインシー・ジョーンズ・アンド・ヒズ・スウェディッシュ-アメリカン・オール・スターズ VOL. 1』(1953年)『同 Vol. 2』(1953年)といった2枚のシングル盤だが、両音源はのちにプレスティッジ・レコードによって1枚の10インチ・レコードとしてリイシューされた。おそらくこのレコードが、クインシーのもっとも古いリーダー作だろう。この作品ではクインシーはトランペットを吹いておらず、アレンジャー兼コンダクターに徹している。
1950年代から1960年代までのビッグバンド・ジャズ作品
おなじころクインシーは、当時アフロ・キューバン・ジャズを推進させていたディジー・ガレスピーの楽団にもトランペット奏者として参加していたけれど、1956年ころにはプレイヤーとしてよりもアレンジャーとしての才能が認められて、ガレスピー楽団のミュージカル・ディレクターを務めるようになっていた。その後クインシーは、ABCパラマウント・レコードから『私の考えるジャズ』(1957年)『ゴー・ウェスト・マン』(1957年)といったリーダー作を立てつづけにリリースする。A&Mの諸作でクインシーに夢中だった高校生のぼくが次に手にしたのは、当時も国内盤が発売されていたこの2枚だった。すでにクインシーはアレンジャーに徹していたが、特にニューヨークで吹き込まれた前者からは23歳とは思えない風格が感じられた。
クインシーのビッグ・バンドのアレンジには、フルートやヴィブラフォンが活かされていたりハンドクラップが入れられていたりして、ぼくの父が敬愛していたことからすでに耳にしていた、デューク・エリントンやカウント・ベイシーなどのジャズ・オーケストラ作品にはない新機軸が感じられた。ハーモニーやリズムにおいてもモダンでポップなフィーリングが冴え渡り、そしてときおりゴスペルの影響も垣間見られたりして、いわゆるスウィング・ジャズとはひと味もふた味も違うものとして受けとめられた。なお後者は、アルバム・タイトルが表しているようにロサンゼルスでのセッション。西海岸の名うてのプレイヤーをフィーチュアして、ライトでブライトなウェストコースト・ジャズのよさをクインシーなりに引き出している。
とはいっても、このアルバムでアレンジを担当しているのはジミー・ジュフリーやジョニー・マンデルなどで、クインシーはディレクターに徹している。このスタンスには、前述した1980年代のヒットメーカーとしての彼の構えかたと共通するものがある。クインシーは優れた人材に恵まれれば、それらの役割を潔いほど有能なミュージシャンに与えてしまう。彼には良質な音楽作品を制作することが最優先で、特定のジャンルにこだわることもないし、プレイヤー、コンポーザー、アレンジャーとしての自分をことのほかアピールすることもないのだ。ぼくがクインシーを音楽家として高く評価するのはまさにその点で、音楽に対していつでもオープンマインドなところには、それこそアメリカ音楽界の巨人という呼び名に相応しい偉大さが感じられる。
むろんクインシー自身も、作曲や編曲において秀逸なセンスとアイディアをもっている。1960年代の作品では、まだまだファンタスティックなスコアを披露している。ぼくが高校の吹奏楽部に在籍していたころ特に聴き込んで採譜していたのは、インパルス!レコードにおける唯一のリーダー作『ザ・クインテッセンス』(1962年)。オリジナル・ナンバーにしてもスタンダーズにしても、現代的でもあり先進的でもあるアレンジが施されている。とはいってもギル・エヴァンスのようにアートオリエンテッドでもなく、ジョージ・ラッセルのようにロジカルでもない。クインシーのビッグバンド・サウンドは、いつでもイージー・トゥ・リッスン・トゥ!そしてスタイリッシュ。そんなアレンジに惹かれて、ぼくも懸命に彼のマナーに倣おうとしたもの。
1960年代のクインシーのオーケストラ作品はたくさんあるのだけれど、彼の当時のホームグラウンド、マーキュリー・レコードからリリースされた『ソウル・ボサノヴァ』(1962年)を忘れることはできないだろう。クインシーが作曲した表題曲は、映画『オースティン・パワーズ』(1997年)のテーマ曲として使用されたことから、リヴァイヴァル・ヒットとなった。文字どおりボサノヴァやサンバのリズムが採り入れられたオーケストラ・サウンドは、ズバリ当時のポップカルチャーをリードするものだった。軽快なパーカッション、清涼感のあるフルート、しなやかなホルンやバス・トロンボーンが際立った、クインシーならではのユニークなオーケストレーションから、当時アレンジに興味をもっていたぼくは多くのことを学んだ。
個人的には、おなじくマーキュリー盤の『ミュージック・オブ・ヘンリー・マンシーニ』(1964年)も好きだ。小学生のころから愛聴してきたヘンリー・マンシーニの名曲の数々が、ポップでソウルフルなアレンジによって、よりソフィスティケートされたクールな装いが凝らされている。あらためてクインシーのセンスのよさに脱帽させられた。そして最後に、どうしてもご紹介しておきたいアルバムがもう1枚ある。たぶん『スリラー』に反して、この『ディス・タイム・バイ・ベイシー』(1963年)について触れる向きはないだろうからね──。これはリプリーズ・レコードからリリースされたカウント・ベイシー・オーケストラの作品だけれど、ぼくの父がレコードを所有していた。つまりぼくが事実上クインシー・サウンドにはじめて触れたのは、このアルバムにおいてだったのである。
このアルバム、曲目がいい。スティーヴ・アレンの「何か素敵なことが起こりそう」トニー・ベネットのヒット曲「わが心のサンフランシスコ」ザ・クローヴァーズのR&Bナンバー「ワン・ミント・ジュレップ」モエ・コフマンの「スウィンギン・シェファード・ブルース」レイ・チャールズのカヴァーで有名な「愛さずにはいられない」ヘンリー・マンシーニの「ムーン・リヴァー」バート・ハワードの「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」サミー・デイヴィス・ジュニアのヒット曲「おろかな心」ザ・ベンチャーズのサーフ・アレンジで知られる「急がば廻れ」フランク・シナトラのレパートリー「ナイス・ン・イージー」チャールズ・ウィリアムズの「『アパートの鍵貸します』のテーマ」と、当時のポピュラー・ソングばかり。
ベイシー楽団のレパートリーといえば、それまで演っていたのはスウィング・ジャズばかり。でもおそらくクインシーの采配だろう、ここではポップ・ナンバーのみでまとめられている。クインシーのアレンジは、少しもバンド・カラーを損なうことのないシンプルな塩梅。それでもオーケストラの機能性を十二分に発揮させた、ポップなアピールとソウルフルなテイストのさじ加減はお見事。またちょうど、フレディ・グリーン(g)、バディ・カトレット(b)、ソニー・ペイン(ds)と、ベイシー楽団のリズム・セクションとしてはもっとも傑士が揃っていた時期。わるくなろうはずがない。しかもベイシーの軽妙さに、クインシーの大衆性がピッタリ合っている。思えばこの作品あたりから、ベイシー楽団の音楽はより世間に広まった。クインシーはこのころから、すでに卓越したプロデュース能力を発揮していたのである。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
コメント