Clare Fischer / First Time Out (1962年)

レコード・プレイヤー
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アレンジャーとして目覚ましく活躍したクレア・フィッシャーのピアニストとしての最高傑作『ファースト・タイム・アウト』

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Album : Clare Fischer / First Time Out (1962年)

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ポップ・アレンジャーでありラテン・ミュージックのプレイヤーでもある

 

 クレア・フィッシャー(1928年10月22日 – 2012年1月26日)というと、アレンジャーというイメージが強い。たとえば、ジャクソンズ の『デスティニー〜今夜はブギー・ナイト』(1978年)に収録されている「プッシュ・ミー・アウェイ」や、ぼくの大好きなテイスト・オブ・ハニーの『シーズ・ア・ダンサー』(1980年)のラスト・ナンバー「スキヤキ(上を向いて歩こう)」の気の利いたストリングスは、彼のペンによるものだ。また、ルーファス&チャカ・カーン関連のアルバムでは、何度も弦楽器のパートを任されている。なお、やはりフィッシャーがストリングスのアレンジを手がけたギタリスト、アール・クルーの『クレイジー・フォー・ユー』(1981年)のなかの1曲「バラディナ」は、グラミー賞の最優秀インストゥルメンタル編曲賞にノミネートされた。

 

 そんなフィッシャーのリーダー作のなかでぼくがはじめて聴いたのは、当時日本でも発売されていた『サルサ・ピカンテ』(1979年)。タイトルどおりフィッシャーのエレピやオルガンが主軸に据えられたラテン・フュージョン作である。彼のことは、アレンジャーの側面しか知らなかったので、ちょっと意外だった。その後1994年に、日本のビデオアーツ・ミュージックが“トロピカル・ブリーズ”シリーズと銘打って、アントニオ・カルロス・ジョビンポンチョ・サンチェスのアルバムとともに、フィッシャーの『クレイジー・バード』(1985年)『フリー・フォール』(1986年)『ラテン・ジャズ・ファンタジー~カル・ジェイダーに捧ぐ』(1988年)を発売。このころにはぼくも、すでにフィッシャーが中南米発祥の音楽に傾倒するひとと認識していた。

 

 あとで知ったのだが、フィッシャーはラテン・ミュージックをこよなく愛し、自己のバンド、サルサ・ピカンテを立ち上げた。それにともない男女2人ずつの4人組コーラス・グループ、2+2も結成。1980年代のフィッシャーの演奏活動は、これらのグループによるものが主体となる。それと並行して彼は、前述のようにアレンジャーとしての仕事も数多くこなしていたので、ヴァーサティリティに富んだ音楽家として多忙を極めていたと想像される。特にミネアポリス・サウンドの中心人物、プリンスとのコラボレーションが目立つようになる。フィッシャーは1985年からプリンス・サウンドのオーケストレーションを担当するようになるが、映画『プリンス/アンダー・ザ・チェリー・ムーン』(1986年)は、彼にとって最初のスクリーン・クレジット作品となった。

指揮棒を振るパンダ

 プリンスが2005年に発表したシングル「テ・アモ・コラソン」でもフィッシャーはストリングスのアレンジを担当しているが、曲調がミッドテンポのラテン・ジャズに指定されたのは、果たしてふたりのコラボレーションによるものなのだろうか?いずれにしても、フィッシャーとラテン音楽とのつながりには根深いものがある。たとえば、ディジー・ガレスピー楽団のアルバムに『デューク・エリントンの肖像』(1960年)というのがあるのだけれど、収録曲の「キャラヴァン」が中盤からちょっとラテン風になる。このレコーディングのアレンジャーと音楽監督を務めているのが、実はフィッシャー。ビバップにラテンのリズムを採り入れたひとといえばガレスピーだから、フィッシャーも彼からなんらかの影響は受けていそうだ。

 

 さらにつけ加えるならば、アングロサクソン系のラテン・ジャズ・ミュージシャンとしてもっとも成功したとも云われるヴィブラフォニスト、カル・ジェイダーからの影響について。ジェイダーは、アフリカ、カリブ海、それに中南米の音楽を、モダン・ジャズに採り入れて演奏していたわけだが、実は彼のグループにフィッシャーが在籍していたことがある。ジェイダーのリーダー作では『ウェスト・サイド・ストーリー』(1960年)『プレイズ・ハロルド・アーレン』(1961年)『プレイズ・ザ・コンテンポラリー・ミュージック・オブ・メキシコ・アンド・ブラジル』(1962年)『ソーニャ・リブレ』(1963年)などのメンバー・クレジットに、アレンジャー、コンダクター、そしてピアニストとして、フィッシャーの名前を発見することができる。

 

 それとおなじころ、フィッシャー自身もボサノヴァ系のリーダー作を吹き込んでいる。西海岸のアルト奏者でありフルーティストでもある、バド・シャンクとのコラボレーション・アルバム『ボサノヴァ・ジャズ・サンバ』(1962年)、このコラボにギタリストのジョー・パスが加わった『ブラサンバ!』(1963年)、アントニオ・カルロス・ジョビンの楽曲を多く採り上げた『ソ・ダンソ・サンバ』(1964年)といった作品だ。また『マンテカ!』(1965年)では、アフロキューバン・ジャズに取り組んでいる。このうち『ボサノヴァ・ジャズ・サンバ』『ソ・ダンソ・サンバ』において「ペンサティヴァ」という曲が2度プレイされているが、フィッシャーのオリジナル・ナンバーとしてはもっとも有名。たぶんこのメロディを耳にしたら、多くのかたが「このひとの曲だったんだ!」と驚かれるだろう。

 

 そう、アート・ブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズの名盤『フリー・フォー・オール』(1965年)のラストを飾っていたのは、この「ペンサティヴァ」だ。このレコーディングに参加したトランペッター、フレディ・ハバードにとってもこの曲はフェイヴァリット・ナンバーで、リー・モーガンとの2本のトランペットのバトルが楽しめるライヴ盤『ザ・ナイト・オブ・ザ・クッカーズ Vol.1』(1965年)でも、彼はこの曲をプレイしている。しかも、レコードではA面すべてを占める、長尺の白熱した演奏となっている。“ペンサティヴァ”は、ポルトガル語で“もの思いに沈む”というような意味だが、深くこころにしみ入るという点では、フィッシャー自身のピアノ・トリオ+ギターによる『ソ・ダンソ・サンバ』に収録されたヴァージョンがベスト。

 

もうひとつの顔はクール・ジャズのスタイルが秀逸なピアニスト

 

 いずれにしても、ラテン・サイドのフィッシャーは、透明感あふれるライトでクールなピアニズムを披露している。即興演奏にしても、リズミカルなフレージングとモダンなハーモニー感覚が光るような、実に心地いいピアノ・プレイを聴かせる。そんなフィッシャーは、それこそ西海岸のような燦々さんさんと陽光が降り注ぐ土地で、悠然と音楽に興じるようなタイプのミュージシャンといった印象を与える。ところが彼には、そういうイメージからかけ離れた意外な一面があった。さきに挙げたフィッシャーの1960年代のラテン・ジャズ作品は、ロサンゼルスのクール・ジャズないしウェストコースト・ジャズのレーベルとして知られる、パシフィック・ジャズ・レコードからリリースされたもの。実は彼は同レーベルから、それらとはまったく趣きを異にするアルバムをリリースしていたのだ。

 

 ぼくは冒頭で、クレア・フィッシャーというと、アレンジャーというイメージが強いと云った。これは、ぼくが彼のことを知ったのが1970年代の終わりごろだったことからの、いささか軽はずみな言動とも云える。しかしながら、そのアレンジャーとしての素晴らしい仕事ぶりからフィッシャーに興味をもち、まずは1980年代のラテン・フュージョン作品を手にし、さらに1960年代のボサノヴァ系もしくはアフロキューバン系のリーダー作まで遡る──というのが、ぼくが彼の音楽を実際に体験した流れなのである。ぼくと同世代のひと、特にジャズをあまり聴かないひとのなかには、フィッシャーのことをジャズやクラシックのインスピレーションをもつポップ・アレンジャーと認識する向きも多いと思う。

 

 そして、その程度の知識しかなかったぼくも、なんの前触れもなくフィッシャーの原点というか、もうひとつの顔を知ることとなる。こういうことはよく覚えているのだが、あれは1992年の梅雨の季節もおわりに近づいていたころのことだった。長雨がつづくなか、その日は晴れ間の夕空がすっかり夏色に映えていた。そんななかフィッシャーのレコードがお目当てで、仕事帰りにわざわざ秋葉原まで意気揚々と足を運んだのを、ぼくははっきり記憶している。東芝EMIが発売する“パシフィック・ジャズ LP オリジナル・コレクション”のラインナップなかに、フィッシャーのリーダー作『ファースト・タイム・アウト』(1962年)と『サージング・アヘッド』(1963年)があるのを見出し、これは是が非でも入手しなければと、ぼくは思ったのであった。

マラカスを振るパンダ

 当時の音楽記録媒体といえばすっかりCDが主流となっていたが、わが国ではモダン・ジャズの旧作においてはこれが最後とばかりにアナログ盤による復刻がつづいていた。ブルーノートの作品などは、これでもかと云わんばかりに垂涎のまととなるアイテムがリイシューされたもの。ぼくはいわゆるコレクターではないけれど、自分にとってモダン・ジャズのメンターだった勤め先の上司の教えから、このころは往年のジャズ作品はレコードで聴くことにしていた。それはともあれ、フィッシャーのソロ名義のアルバムとしては、この『ファースト・タイム・アウト』と『サージング・アヘッド』はそれぞれ、メキシコのジャズ・プレイヤーたちと吹き込まれたデビュー作『ジャズ』(1961年)につづく、2枚目、3枚目のアルバムに当たる。

 

 それまでにぼくが体験したフィッシャーの音楽といえば、前述したように、その後“トロピカル・ブリーズ”シリーズとして日本でも一部のアルバムが発売されることになる、ディスカヴァリー・レコードにおける1980年代のラテン・フュージョン作品や、さきに挙げた1960年代のパシフィック・ジャズからリリースされたラテン・タッチのスクェア・ビートなジャズ作品。ところが『ファースト・タイム・アウト』と『サージング・アヘッド』で展開されている音楽は、ぼくの予想をまったく裏切るような、そしてそれを遥かに上回るようなものだった。両作品は1964年に日本ビクターから発売されたことがあるが、よほどのジャズ通でないと所持していないようなレアなレコード。ぼくのような青二才は、その存在を知る由もなかったのである。

 

 上記の2枚をはじめて聴いたとき、それらは西海岸でいえばクロード・ウィリアムソン、東海岸ならばドン・フリードマンの作品に近いような気がしたもの。どういうことかというと、プレイング・メソッドにしてもインプロヴィゼーションにしても抑制が効いていて、全体的にはクール・ジャズのスタイルがもち味というか秀逸な点となっていると思われたのである。そんななか、ぼくがもっとも驚かされたのは、フィッシャーがときにレニー・トリスターノデニー・ザイトリンの流れを汲む、アヴァンギャルドでエクスペリメンタルなプレイを展開していること。そうかといって全編にわたって緊張感が漂っているわけではなく、ラテン・ジャズ作品と同様に彼の明朗快活な演奏を楽しむことができる。

 

 そういえば、このときのフィッシャーのピアノ・プレイには、世代的にはもう少し若くなるが、現在もフュージョン・シーンで活躍するボブ・ジェームスが大学時代に演っていた、革新的であり実験的でもあるモダン・ジャズを彷彿させるところがある。はからずも、フィッシャーの『ファースト・タイム・アウト』そして『サージング・アヘッド』と、トリオで吹き込まれたジェームスの初リーダー作『ボールド・コンセプションズ』(1963年)とが、おなじ1962年にレコーディングされたという事実に気づき、ぼくはひとりでニヤニヤしてしまった。その後のふたりがモダン・ジャズから離れ、テイストこそ異なるがフュージョン・スタイルのリーダー作をリリースしながら、ポップ・アレンジャーとして縦横無尽に活躍したことは興味深い。

 

ラテン・サイドでは窺い知れぬ優れたピアニズムを確認できる最高傑作

 

 そんなフィッシャーのミュージカリティがいかに育まれたかは、彼のプロフィールを観ると極めて明瞭となる。クレア・フィッシャーはアメリカはミシガン州のデュランドという小さな町に生まれた。ヨーロッパ系の両親をもち、その4人の子どものうちの第3子だった。そのためか、家庭の経済状況は決して豊かなものではなかったという。最初に手にした楽器は、ピアノとヴァイオリンだった。7歳にしてピアノをいじっているうちに、自力で4声コードにたどり着いた。10代のころは経済的に音楽教育を受けることができなかったため、ピアノ演奏についてはまったくの独学。そんな逆境にもめげず、彼はすでにクラシック音楽の作曲やダンス・バンドの編曲をはじめていたとのこと。

 

 ハイスクール時代のフィッシャーは、チェロ、クラリネット、それにサックスも演奏するようになっていた。幸いなことに、そんなフィッシャーの音楽に対する情熱と才能に気づいたひとりの講師が、音楽理論、和声、管弦楽法についての個人指導を、彼に無償で提供したのである。そのいっぽうで、フィッシャーは15歳のときに自分のバンドを結成。レパートリーのスコアは、すべて彼が書いていたという。それらの経験を足がかりに1947年、ミシガン州立大学音楽部に入学すると、フィッシャーはそこで本格的に作曲法と音楽理論を学んだ。当初、楽器の専攻はチェロだったが途中からピアノに変更し、クラリネットを副専攻としたとのこと。卒業後はいっとき陸軍の楽隊に加わりプレイヤー、アレンジャー、コンダクターとして活躍したが、ふたたび大学に戻り1955年に音楽の修士課程を修了した。

 

 その間、たまたま大学時代のルームメイトがラテン系アメリカ人だったことから、フィッシャーはラテン・ミュージックに興味をもちはじめたという。ニューヨークのラテン・ミュージックを牽引したマルチ・インストゥルメンタリスト、ティト・プエンテ、マンボやチャチャチャなどのダンス・ミュージックで勇名を馳せたプエルトリコのシンガー、ティト・ロドリゲス、アフロキューバン・ジャズの生みの親とも云われるハバナ出身のパーカショニスト兼シンガー、マチートなどがリーダーを務めるラテン・バンド作品を、フィッシャーは熱心に聴いていたそうだ。また、当時の彼の友人といえば、音楽学部以外ではラテン系アメリカ人が多くを占めたとか──。のちのフィッシャーの魅力的なラテン・サウンドは、大学時代の経験から培われたものだったのである。

グランドピアノとパンダ

 そのすぐあと、フィッシャーはプロの音楽家として活動を開始。1950年代後半から1960年代にかけて絶大な支持を得たヴォーカル・クァルテット、ザ・ハイローズのレコーディングに参加し名声を世にあらわす。彼は同グループの作品において5年間、ピアニスト兼アレンジャーとして活躍した。特筆すべきは、あのハービー・ハンコックが、このときのフィッシャーのヴォーカル・アレンジメントから多大な影響を受けたと語っていること。しかもハンコックの名作『スピーク・ライク・ア・チャイルド』(1968年)のハーモニック・コンセプトは、ザ・ハイローズの楽曲のアレンジでフィッシャーが見せた斬新なヴォイシングのアイディアから、ヒントを得たものだという。これは、フィッシャーが和声法についていかに高度な理解力をもっていたかがわかる証言だ。

 

 1958年にフィッシャーはロサンゼルスに移住したが、まずはキューバのパーカッショニスト、モデスト・ドゥランが率いるチャランガ・キングスに参加。その後、トランペッターのドナルド・バードとのコラボ作『セプテンバー・アフタヌーン』(1982年)や、英国出身のピアニスト、ジョージ・シアリングリーダー作で、前述の「ペンサティヴァ」も採り上げられた『ジョージ・シアリング・ボサノヴァ』(1963年)において、美しいストリングスのアレンジを披露。さきに挙げたディジー・ガレスピーバド・シャンクとのレコーディングなどを経験し、フィッシャーは満を持して『ファースト・タイム・アウト』を発表する。はっきり云ってしまうけれど、彼の最高傑作だ。いやいや、それだけではない。本作はピアノ・トリオ作品史上に残る名盤と、ぼくは思うのである。

 

 サイドを務めるのは、ゲイリー・ピーコック(b)とジーン・ストーン(ds)。特に技巧派と云われるピーコックの芸術的な表現力が注目される。オープナーは、ドラマーのエド・ショーネシーが作曲した「ナイジェリアン・ウォーク」で、マイナー・スケールのワルツで覚えやすいセンチメンタルなメロディック・ラインは、いかにも日本人好み。フィッシャーの「トッドラー」では、リハーモナイズされたメロディック・ラインと軽やかなリスムが、楽曲にスタイリッシュなイメージを与える。フィッシャーの作曲家としての卓越した才能が感じられる。ピーコックの「ストレンジャー」では、静寂の境に浸るようにベースがリリカルに歌う。フィッシャーの「アフターファクト」では、スケールにしてもコードにしてもクールなプレイが展開される。どこまでもアーバンな感覚が冴え渡る名曲だ。

 

 後半はフィッシャーのオリジナルが3曲つづく。「フリー・トゥー・ロング」では、前衛的かつ実験的な演奏が展開される。それでも、いくばくかストイックなところに高い知性が感じられる。ぼくがもっとも驚かされたのは、この曲だ。流麗なスロー・バラード「ピース・フォー・スコッティ」は、いたって叙情的で美しい。ミディアム・ブルース「ブルース・フォー・ホーム」も、きわめてシンプルでソフィスティケーテッド。ドラムスによるオカズもいい味付けだ。コール・ポーターの「アイ・ラヴ・ユー」では、ピアノの流れるような両手のユニゾンが心地いい。ベースは饒舌、ドラムスは瀟洒。シャンパンの泡が弾けるようなクールなプレイは、ラストを飾るのに相応しい。そして本作の最大の収穫といえば、ラテン・サイドでは窺い知れぬフィッシャーの優れたピアニズムを確認できる──ということである。ぜひ、スタンダード中心でスウィンギーな『サージング・アヘッド』とあわせて、お聴きいただきたい。

 

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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