大野雄二のジャズ・ピアニストとしての実力が遺憾なく発揮された傑作、大野雄二トリオの『ミスター・ハピゴン』
Album : 大野雄二トリオ / Mr. Happy-Gon (1973)
Today’s Tune : My Little Angel
大野雄二がもともとジャズ・ピアニストだったということを知る
先週このブログで、大野雄二&ユー・アンド・エクスプロージョン・バンドの『24時間テレビ「愛は地球を救う 」』(1978年)についてお伝えした。そこで云い忘れたのだけれど、このサウンドトラック・アルバムのアーティスト名の表記が、どうも釈然としない。日本テレビ音楽(NTVM)が制作した大野さんのアルバムには、たいていバンド・ネームとしてユー&エクスプロージョン・バンドというクレジット表記があるということは、すでにお伝えした。ところが本作のアーティスト名は、“大野雄二&ユー・アンド・エクスプロージョン・バンド”と記されている。ジャケットの裏面の英語表記は“You & Explosion Band”となっているが、LPのタスキを観ると今度は“大野雄二とユー&エクスプロージョン・バンド”と記されていて、ちょっと統一性がない。
まあ百歩譲って、足並みが揃わないのは受け入れるとしても、バンド名のアタマに大野さんの名前を冠するのはいかがなものだろう。なぜならユー&エクスプロージョン・バンドの“ユー”とは大野さんのことだから、“大野雄二”のあとに“ユー”がつづくと、いわゆる重複表現のようでなんだか気持ちがわるい。それともこれはぼくの勘違いで、“ユー”というのは実のところ、大野さんのことではないのだろうか?いやいや、氏がコンポーザー、アレンジャー、キーボーディストを務めるばかりか、セリフまで喋る『せ・しゃれまん』(1979年)というレアなレコードがあるのだけれど、このアルバムのアーティスト名は山田康雄&YOUとなっているから、やはりユー&エクスプロージョン・バンドの“ユー”とは大野さんのことなのだろう。
なお、いちいちお断りする必要もないと思うけれど、山田康雄とは1995年3月19日、62歳という若さでこの世を去った、俳優、声優、そして司会者として活躍したあの山田さんである。クリント・イーストウッド、ジャン・ポール・ベルモンドの吹き替えでも有名だが、なんといってもルパン三世の初代の声優として広く知られるひと。大野さんとは、氏の自宅兼スタジオに招かれて酒を酌み交わすほどの仲だったという。フランス語の“C’est charmant!(それすてきだね!)”に引っかけた洒落たアルバム・タイトルの『せ・しゃれまん』は、コンテンツのほうも軽妙洒脱。山田さんのルパンそのままのセリフと愛敬で聴かせるヴォーカル、女優である市毛良枝のセクシーな存在感、そして大野さんの妙味のある音楽と、どこまでもオシャレな1枚だ。
とにもかくにも、アルバム『24時間テレビ「愛は地球を救う 」』のジャケットやタスキには、さしあたり“音楽/大野雄二 演奏/ユー&エクスプロージョン・バンド”とでも記しておいたほうが、スッキリと当たり障りがなかったのではないだろうか。まあこの件は、目くじらを立てるようなことでもないし、こんなことをいちいち気にするようなヤツはぼくくらいのものだろう。かねてからなんとなくモヤモヤしていたので、ちょっとブーたれてしまった。あしからず、ご容赦いただきたい。ということですっかり余談が過ぎたが、前回のぼくといえば、大野サウンドが洗練された華麗な様式美を極めるに至るのは1978年だったと確信すると、いささか不遜な云いかたをしてしまったが、むろんウソ偽りのない気持ちである。
そんなことを声高に主張するいっぽうで、それ以前というかジャズ・ピアニスト時代の大野さんについては、これまであまり語っていないということに、ぼくはたまさかに気がついてしまったのである。せっかくなので引き合いに出してしまうけれど、上記の『せ・しゃれまん』には、曲の合間に山田さんと大野さんとのトークが挿入される箇所がある。たとえば「ユウジ、その曲は二度と弾くなと云ったはずだが──」「またー、ボギーみたいなこと云うなよー。キミの昔の思い出のために弾いているんだもん」といった具合に──。どこかのクラブでピアノを弾く大野さんに、山田さんが語りかけている──といったイメージだ。大野さんが実際に喋りながら弾いているのかは定かでないが、曲は「またひとつ恋が終った」という氏のオリジナルだ。
大野さんはここで、このアルバムで山田さんが歌った曲をあらためてソロ・ピアノで弾いているのである。このメランコリックなバラード・ナンバーについてはさておき、大野さんのソロ・パフォーマンスには、かつてモダン・ジャズをプレイしていたころの氏を連想させるものがある。実際、以前の大野さんは正真正銘のジャズ・ピアニストだった。ところが大野さんは、1971年ごろからジャズ・プレイヤーと作曲家との二足の草鞋を履くようになり、次第にジャズ・シーンから遠ざかっていくのだった。1971年といえば、氏が音楽を手がけたテレビドラマ『おひかえあそばせ』の放送が開始された年。石立鉄男主演、松木ひろし脚本による、日本テレビ系列で1970年代に放映されたホームコメディドラマのシリーズの第1作だ。
おそらく、ぼくが大野サウンドにはじめて触れたのは、このドラマにおいてだろう。その後ぼくは、やはり日本テレビ系列のドラマシリーズ『火曜日の女』(1969年11月4日 – 1972年3月)を観るようになるのだけれど、そのころにはまだ大野さんの名前を覚えていなかったかもしれないが、氏の音楽には強く惹かれていたと思う。要するにぼくは、まだ年端もいかない子どものころから、知らず知らずのうちに大野サウンドを刷り込まれていたわけだ。それは同時に、そうと知らずにジャズという音楽に接していたことにもなる。いずれにしても、大野雄二という音楽家がもともとジャズ・ピアニストだったということを知るのは、もう少しあとのこと。具体的には1976年に公開された、あの映画を鑑賞したときである。
ぼくが大野さんの実像についてはじめて知り得たのは、その後大ブームとなった角川映画の第1作『犬神家の一族』(1976年)を劇場で観たときのこと。鑑賞後に購入したパンフレットの巻末に、サウンドトラック・シングルの宣伝広告のページがあった。そこにはレコーディング中の大野さんと、それを訪ねた主演俳優の石坂浩二とのツーショットとともに、大野さんのプロフィールが掲載されていたのである。いまでは信じられないだろうけれど、自宅の住所まで明らかにされていたりして、平和なというかちょっと不用心な時代だったのだね──。まあそれはともかく、大野さんがジャズ・ピアニストと知ったぼくはときを移さず、父親に頼み込んでわざわざ銀座の山野楽器まで連れていってもらい、ついに氏のジャズ・アルバムを手に入れたのだった。
そのアルバムとは、大野雄二トリオの『ミスター・ハピゴン』(1973年)というレコードだった。いまでもそのときのことをよく覚えているのだけれど、象牙色のジャケットの下のほうに着色されたモノクロームの写真の大野さんがすごく小さくて、どことなく怪しくて気が許せないように感じられた。鮮やかな真紅のタスキに“RCAモダン・ジャズ・シリーズ③”と記載されているのを見たとき、小学生のぼくははじめてオトナのアイテムを手にするウレシさみたいなものを感じたりもした(バカだね)。その反面、ジャケットの裏面に写る長髪にラフな格好の大野さんからちょっと赤軍派をイメージしてしまい、恐る恐るレジにもっていった覚えがある。ちなみに、ぼくの好きな菅野光亮の『詩仙堂の秋』(1973年)も、このRCAのシリーズの1枚だ。
(大野雄二&ユー・アンド・エクスプロージョン・バンドの『24時間テレビ「愛は地球を救う 」』については、下の記事をお読みいただければ幸いです)
『ミスター・ハピゴン』に至るまでのジャズ・ピアニスト時代
ときに『ミスター・ハピゴン』は、当時すでに廃盤だったと思われる。というのも、そのあと間もなく、RCAの“日本のJAZZ 1500”と銘打たれた定価1,500円の廉価盤シリーズの1枚としてリイシューされた本作を、とあるレコード店で見かけたからだ。ただその盤は、ジャケットのデザインや曲順はそのままだったが、なぜかアルバム・タイトルが『マイ・リトル・エンジェル』に変更されていた。もしかすると、ジャズ評論家の岩波洋三による本作のライナーノーツに、“ハピゴン”がベーシストの水橋孝のニックネームであるという記述があるのにもかかわらず、アルバム・タイトルに堂々と掲げられた“ミスター・ハピゴン”を大野さんのことと勘違いする向きが、案外多くあったのかもしれない。いずれにせよそれ以降、本盤は『マイ・リトル・エンジェル』として定着した。
便宜上これ以降、オリジナルのタイトルでハナシを進めるが『ミスター・ハピゴン』は正真正銘、大野さんの初リーダー・アルバムである。しかしそれと同時に皮肉なことに、ジャズ・ピアニストとしての大野さんといえば、この作品に止めを刺した感が強い。なぜなら、このアルバムがレコーディングされたのは1971年だが、大野さんはこのあと徐々にプレイヤーとしての仕事を減らし作編曲家としての活動に専念するようになっていくからだ。大野雄二トリオ名義のアルバムはこれ1枚だし、それ以降に池田芳夫(b)、岡山和義(ds)といった本作と同一のサイドメンで吹き込まれたレコードといえば、不遇のクラブ・シンガー、アン・ヤングの『春の如く』(1975年)くらいのもの。そして1971年といえば前述の『おひかえあそばせ』の放送が開始された年でもある。
では、まずは『ミスター・ハピゴン』に至るまでの、大野さんのジャズ・ピアニスト時代を振り返ってみよう。大野さんは1941年5月30日、スタジオジブリのアニメ映画『おもひでぽろぽろ』(1991年)の舞台となったローマ風呂で知られる、静岡県熱海市のホテル大野屋の次男坊として生まれた。中学時代にジャズに目覚め、高校時代にはバンド演奏を開始した。その後、慶應義塾大学ライト・ミュージック・ソサイェティーで活躍し、鈴木宏昌、佐藤允彦とともに“慶應三羽烏”として勇名を馳せた。卒業後はクラリネット奏者、藤家虹二のクインテットに加入、プロ・ミュージシャンとしてのキャリアをスタートさせる。1963年のことだ。ところがスウィング系のバンドで演奏することに違和感を覚えた大野さんは、1年ほどで藤家虹二クインテットを脱退してしまう。
その後はモダン・ジャズのみに集中することを決意し、1年ほどフリーのプレイヤーとして活動した。そして1965年、大野さんは白木秀雄クインテットに参加する。白木さんは、東京芸術大学音楽学部打楽器科において指揮者の岩城宏之と同輩で、39歳という若さでこの世を去った不世出の天才ドラマーである。大野さんはこのバンドに3年間在籍したが、その間に白木さんの2枚のリーダー作『加山雄三の世界』(1966年)『加山雄三の世界 第2集』(1967年)のレコーディングにも参加した。おそらくこれらが、氏のもっとも古い吹き込みだろう。注目すべきは、このレコーディングにおいて大野さんがプレイヤーにとどまらず、すでにアレンジャーとしても活躍しているということ。ファンキー・ジャズからボサノヴァまで、そのモダンなセンスが発揮されている。
このときの白木秀雄クインテットのメンバーは、 白木秀雄(ds)、日野皓正(tp)、稲垣次郎(ts, fl)、大野雄二(p)、稲葉国光(b)。さらに上記のアルバムのうち2枚目にはゲスト・プレイヤーとして、大野さんのレコーディングやライヴでおのじみの杉本喜代志(g)が参加している。いまから思うとみなその後、日本のジャズ・シーンを牽引するプレイヤーばかりだ。そんな猛者たちの強烈なインパクトを与える演奏のなかでも、大野さんのファンキーかつソウルフルなプレイ・スタイルのピアノの妙技は、ひときわ鮮やかに映る。ぼくはここでの氏のパフォーマンスに、いささかホレス・シルヴァーやラムゼイ・ルイスからの影響を感じるのだけれど、みなさんはいかが思われるだろうか。いずれにしても、それはキャッチーなプレイに相違ない。
そんな大野さんのピアニズムがよりエキサイティングかつイマジナティヴに展開されるのが、日野皓正クァルテットの『アローン・アローン・アンド・アローン』(1967年)である。このレコーディングは、白木秀雄クインテットに在籍中の日野皓正(tp)、大野雄二(p)、稲葉国光(b)の3人と、日野さんの実弟で当時ギタリストの澤田駿吾のグループに参加していた日野元彦(ds)とによって行われた。このアルバムにおいて、トラディショナル・ポップ、リズム・アンド・ブルース、それにモード・ジャズが強く意識されているのは明らかだが、そういった従来のハード・バップを拡大するかのごとき実験精神は、たとえばハービー・ハンコックのブルーノート作品に通じるものがある。大野さんのプレイも、きわめてグルーヴィーだ。
そのいっぽうで、このアルバムのタイトル・ナンバー「アローン・アローン・アンド・アローン」から溢れるリリシズムが、なんとも奥深くはかりしれない。日野さんのオリジナル曲で、かねてからライヴでリクエストが絶えない人気曲だった。ある日銀座のクラブで日野さんがステージに立っていたところ、たまたまこの店を訪れた来日中のトランペッター、ブルー・ミッチェルが、この曲をいたく気に入り楽譜を持ち帰ったというのは、有名なハナシ。そんなバラードの名曲において、日野さんのトランペットは終始ブリリアント。そして大野さんのピアノが、圧倒的な存在感を放つ。アドリブ・パートでは、絶妙なレイドバック感覚でソロを展開。バッキングも当意即妙だ。
この「アローン・アローン・アンド・アローン」は、過去に2回レコーディングされている。ピアニストはそれぞれ異なり、ブルー・ミッチェルの『ダウン・ウィズ・イット』(1965年)においてはチック・コリアが、白木秀雄クインテット&スリー琴ガールズの『さくら さくら』(1965年)においては世良譲が、各々独自の解釈でバッキングとソロを披露。コリアは相も変わらずやたら上手いし、世良さんのタッチはきわめて優雅だ。しかしながらぼくには、大野さんのプレイがもっとも印象に残った。そして、大野さんは副次的な演奏をするとき、ひときわセンスが光るピアニストであると、あらためて感じられたのである。そのロマンティックでドラマティックな伴奏は絶品だが、このあたりがのちのスタイリッシュな大野サウンドにつながるようにも思われる。
大野さんが優れたアカンパニストであることは、マーサ三宅の『マイ・フェイヴァリット・ソングス』(1970年)、あるいは笠井紀美子の『ジャスト・フレンズ』(1970年)といった、フィメール・シンガーのアルバムを聴いていただければ、すぐにおわかりいただけるだろう。前者はリズム・セクションに管楽器や弦楽器が加えられた、ポップなジャズ・アルバム。スコアはすべて、大野さんのペンによるものだ。演奏者としての側面がより引き立っているのは、やはりピアノ・トリオのみでサポートした後者だろう。大野さんはここでときにエレガント、ときにダイナミックな極上のピアノ・プレイを披露している。なお、このときの大野雄二トリオは、大野雄二(p)、水橋孝(b)、小原哲次郎となっている。
ジャズ・ピアニストとしてもっとも脂が乗っていた時期の吹き込み
それらのヴォーカル・アルバムより少しまえの吹き込みになるが、富樫雅彦=鈴木弘クインテットの『ヴァリエイション』(1969年)、そして山下洋輔トリオ、沖至トリオ、笠井紀美子とともに吹き込まれたセッション・アルバム『トリオ・バイ・トリオ・プラス・ワン』(1970)は、大野さんのジャズ・ピアニスト時代を語るときに外すことのできない作品である。前者において氏は、グルーヴィーなプレイはもとより意外にもフリー・ジャズを演っていたりする。映画『犬神家の一族』のフィルム・スコアにもそんな一面が窺えるが、原点はここにあった。後者ではジョゼフ・コズマの「枯葉」や、大野さんのオリジナル「ケニーズ・ムード」において、大野雄二トリオが迫力満点のパフォーマンスを披露している。
興味深いのは、このときの演奏についての大野さんのコメント。氏は自己のトリオについて、シダー・ウォルトンやハロルド・メイバーンのようなピアノ・トリオらしいトリオにしようとこころがけていると語っているのだ。実際、当時の大野さんといえば、評論家たちの間では主流派に属するジャズ・ピアニストと目されていたようだ。確かに大野雄二トリオの演奏は、本質的な部分ではナチュラルでホットに響く。それでも決してそのスタイルは旧態依然としたものではなく、フレッシュな感覚に満ち溢れたもの。大野さん自身についても、ジャズに対するキャパシティがすこぶる大きなピアニストと、ぼくは思うのである。前述の富樫雅彦と鈴木弘との双頭コンボでの、氏のニュー・ジャズへのアプローチからもそう感じられる。
この『トリオ・バイ・トリオ・プラス・ワン』は、1970年5月20日に銀座ヤマハ・ホールで実況録音されたものだが、大野雄二トリオの演奏はモダン・ジャズの本流をいくものでありながら、ライヴということもあり通常よりヴィヴィッドでラディカルなパフォーマンスとなっている。アルバムのラストを飾る大野さんのオリジナル「シーム・オブ・アンノウン・ピープル」では、沖至トリオ、そして笠井紀美子を巻き込んで、おもいきりアヴァンギャルドな演奏が展開されている。ここでの大野さんのピアノ・プレイからぼくは、ウォルトンやメイバーンよりも、ジョン・コルトレーン・クァルテットのメンバーだったころのマッコイ・タイナーをイメージしてしまった。いずれにしてもこの吹き込みは、ジャズ・ピアニスト、大野雄二を知る上で貴重なものと云える。
このときの大野雄二トリオは、大野雄二(p)、水橋孝(b)、岡山和義(ds)となっている。その後、水橋さんが脱退しその後釜に池田芳夫が座った。そしてその翌年に吹き込まれたのが『ミスター・ハピゴン』である。これまでお伝えしてきたとおり、大野さんがジャズ・ピアニストとしてもっとも脂が乗っていた時期の吹き込み。そして皮肉にも氏が、もちまえの作曲、編曲の才能を活かしてテレビCM、テレビ番組や映画の音楽、ポップ・ミュージックにおける、サウンド・クリエイターとしての活動に専念する直前のレコーディングということになる。ジャズ・ピアニスト時代の唯一の大野雄二トリオ名義のアルバムという点でも、価値のある1枚と云える。のちに大野さんは、ジャズ・プレイヤーとして本格的に復帰するけれど、それは2000年代に入ってからのことだった。
ということで、肝心の『ミスター・ハピゴン』について、具体的にお伝えしておこう。レコーディングは1971年、渋谷区神宮前のビクタースタジオにて行われた。エンジニアは当時、日本ビクターの録音部に所属していた梅津達男。はっぴいえんどの名作『風街ろまん』(1971年)の録音を手がけたひとだ。プロデューサーは、やはり日本ビクターに所属していた、文化庁長官表彰の受賞者でもある井阪紘。あらためて記すが、パーソネルは大野雄二(p)、池田芳夫(b)、岡山和義(ds)となっている。アルバムは大野さんのオリジナル「ミスター・ハピゴン」からスタート。アップテンポの12小節のブルースを基調としているが、センスのいいリハーモナイズが新鮮な印象を与える。ハミングしながら弾けるベース・ソロ、そしてよく跳ねるピアノ・ソロが痛快だ。
2曲目のヴィクター・ヤングの「マイ・フーリッシュ・ハート」では、ピアノによるインプレッショニスティクなイントロ、ウエットなルバートが味わい深い。そしてトリオのゆったりとした演奏が、極上のハートブレイキングなムードを漂わせる。ビル・エヴァンスの演奏があまりにも有名だが、大野さんのプレイはエヴァンスのように耽美的にはならず、ドラマティックな展開を見せる。氏はのちに『LUPIN THE THIRD「JAZZ」PLAYS THE “STANDARDS”』(2003年)で、この曲をおなじアプローチで再演している。3曲目のアーサー・シュワルツの「アローン・トゥゲザー」では、ビートの効いたボサロック調のアレンジに意表を突かれる。三位一体のグルーヴは圧巻だが、ハイライトはなんといってもソロも含めてジャムアウトするドラムスだろう。
4曲目のギリシャの作曲家、タキス・モラキスが書いた「イルカに乗った少年」は、映画『島の女』(1957年)においてジュリー・ロンドンが歌った知るひとぞ知る曲。大野さんの選曲へのこだわりが感じられる。氏はこの曲をライヴ・アルバム『サウンド・アドヴェンチャー・アクト・1』(1975年)でも採り上げている。リリカルなソロ・ピアノによる演奏は、センスのいいコード・プログレッションゆえに原曲よりモダンに響く。レコードではここからSIDE-Bとなる。大野さんのオリジナル「マイ・リトル・エンジェル」は、メロディのブレイクが愛らしいジャズ・ワルツ。ピアノのストレートノートに近いレイドバック加減が絶妙。ときにエレガント、ときにエキサイティングな展開が鮮やかだ。
なおこの曲は、石坂浩二のリーディング・アルバム『音楽と幻想 第1集』(1971年)に収録されている「ウィとノンと黄色いブルドーザ」の背景音楽として「ミスター・ハピゴン」や「ケニーズ・ムード」とともにプレイされている。こちらは、大野雄二(p)、稲葉国光(b)、杉本喜代志(g)による、ドラムレスのトリオ演奏となっている。つづくジミー・ウェッブの「恋はフェニックス」は多くのアーティストによってカヴァーされているポップ・ナンバーだが、ここでは雰囲気がガラリと変わりノーブルでカジュアルなボッサとしてプレイされている。テーマに観られるペダルポイントの技法が特徴的だ。さらにブロニスラウ・ケイパーの「オン・グリーン・ドルフィン・ストリート」では、ピアノ・トリオの真髄とも云うべき演奏が繰り広げられる。
ピアノによる畳みかけるようなスウィンギーなフレージング、ベースのしなやかでよく歌うソロ、ピアノとドラムスとの疾風怒涛の4バースと、モダン・ジャズの模範的な演奏が展開される。ジャズ・ピアニスト、大野雄二の面目躍如たる演奏だ。そしてラストを飾るのは、ロバート・メリンとガイ・ウッド共作「マイ・ワン・アンド・オンリー・ラヴ」で、ソロ・ピアノによる演奏。大野さんは、この類稀なる美しいメロディをあっさりとした感じで弾いている。そのことが却って懐旧の情を誘い、いささか感傷的な気分にさせる。まるで大野さんのロマンティックな性格を垣間見るようだ。いずれにせよこの『ミスター・ハピゴン』は、氏のジャズ・ピアニストとしての実力が遺憾なく発揮された傑作。ぜひ手にとっていただきたい1枚である。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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