田辺信一 / 獄門島 オリジナル・サウンドトラック (1977年)

シネマ・フィルム
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田辺信一が手がけたリスナーのこころを真夏の孤島へ誘う横溝映画『獄門島』のサウンドトラック・アルバム

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Album : 田辺信一 / 獄門島 オリジナル・サウンドトラック (1977)

Today’s Tune : 船着き場

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少年時代に読み耽った横溝正史の本格ミステリー小説

 

 久々に横溝映画のサウンドトラック・アルバムを採り上げる。云うまでもなく横溝とは、日本を代表するミステリー小説の巨匠、横溝正史(1902年5月24日 – 1981年12月28日)である。横溝作品について述懐することは、ぼくにとって実に楽しい作業だ。なんといっても少年時代のぼくは、1971年からはじまった角川文庫版横溝作品の連続刊行、そしてそのヒットにあやかった映画会社やテレビ放送局による作品の間断のない映像化といった、怒涛の横溝ブームの真っただなかにいたのだから──。横溝さんの処女作『恐ろしき四月馬鹿エイプリルフール』が上梓されたのは1921年のこと。実はあの江戸川乱歩(1894年10月21日 – 1965年7月28日)よりも早く作家デビューしていた(乱歩の処女作『二銭銅貨』は1923年に発表された)。

 

 それはともかく横溝さんは執筆活動を、第二次世界大戦の影響でやむなく一時的に中断せざるを得なくなる。それでも戦後間もなく著述を再開し、本領を発揮する。ところが、その後も本格探偵小説を続々と発表するものの、1960年代に入ると松本清張(1909年12月21日 – 1992年8月4日)らによる社会派ミステリー台頭の煽りを受け、1964年ついに探偵小説の執筆を停止してしまう。そう横溝正史は、ぼくのものごころがつくまえから、すでに一般的観点では終わった作家となっていたのである。つまりぼくが体験した空前の横溝ブームは、リヴァイヴァルだったのだ。ブームの火付け役となった角川書店(現KADOKAWA)の当時の社長である角川春樹は、版権をとる直前まで横溝さんのことを故人と勘違いしていたという。いまとなっては、まったく信じ難いことだ。

 

 いずれにしても、1970年代を生きたものにとって横溝ミステリーの返り咲きは、フレッシュな衝撃を与える出来事だったのではないだろうか。思えばこの復活劇は、現在のJRグループがまだ分割民営化するまえの日本国有鉄道(国鉄)が張ったキャンペーンに端を発するディスカヴァー・ジャパン・ブームや、ルポライターである五島勉(1929年11月17日 – 6月16日)のベストセラー『ノストラダムスの大予言』(1973年)が流行の先駆けとなったいわゆるオカルトブームなどが、追い風になったというのはあながち否定できないだろう。なにせ横溝さんの小説は、タイトルからして怪談じみたおどろおどろしい印象を与える。そんな日本再発見という視点といささかキワモノ的なイメージが、当時の社会情勢の変化と上手くマッチしたと思われる。

金田一耕助と桜の古木

 そのあたりは、もともと教科書関連の書籍を中心に出版していた角川書店をエンターテインメント出版社へと方向転換させ、さらには映画事業にまで参入させた角川春樹の慧眼によるところが大きい。もちろん横溝さんの小説をキワモノ扱いするなど、あるまじきことである。たまに勘違いをする向きにお目にかかることもあるのだけれど、横溝作品はミステリーであって決してホラーではない。まあ例外的に時代物の『髑髏検校』(1939年)には、あのブラム・ストーカーのゴシック・ホラーのキャラクターを彷彿させる吸血鬼が登場するとはいえ、一部の短編を除くほとんどの横溝作品において超常現象は起こらないのだ。ただ実はそういうぼくも、角川文庫のカヴァーにあしらわれた杉本一文の妖しくも美麗なイラストに、幻想怪奇ムードを感じて嬉々としていたのだけれど──。

 

 そういえば文庫のカヴァーといえば、昨年(2024年)の11月の末、角川文庫とアニメ『文豪ストレイドッグス』とのコラボ企画に横溝作品が加わった。人気アニメ『文豪ストレイドッグス』は、朝霧カフカ原作、春河35作画によるコミック・シリーズを映像化したもの。内容は、文字どおり中島敦(1909年5月5日 – 1942年12月4日)、太宰治(1909年6月19日 – 1948年6月13日)、芥川龍之介(1892年3月1日 – 1927年7月24日)ほか、日本の文豪たちがキャラクター化され、彼らがその作品名やペンネームなどを冠した異能力を発揮してバトルし合うアクション・ストーリー。まあとにかくたくさんの作家名や作品名が出てくるのだけれど、登場人物のなかに金田一の筆名で執筆する人気推理作家、ヨコミゾなる人物がいる。

 

 ということでこのコラボ企画では、これまでに角川文庫のラインナップのなかから『文豪ストレイドッグス』に関わる文学作品が、表紙のデザインにアニメのキャラクターがあしらわれた新装版として度々リリースされてきた。このアニメ・カヴァーのタイトルは、女性を中心に多くの若年層から支持を得ているとのこと。ぼくはこの現象を手放しで喜びたいし、コラボ企画に関しても応援したい気持ちになった。キッカケはなんであれ、いまの若いひとたちによって日本が誇る文豪たちの名作が読み継がれるというのは、実に意義深いことである。ちなみに全国学校図書館協議会の調査によると、子どもたちの読書量は増加傾向にあるという。そのいっぽうで文化庁の調査では、オトナの読書離れが進んでいるとのこと。なんとも複雑な気持ちにさせられる。

 

 ぼくにはオッサンになったいまでも、本を開かない日は1日もない。ぼくにとって読書は、習慣というかもはや人生の一部となっている。それは子どものころに、本を読む楽しさを知ったからだ。ぼくが読書の悦楽に浸るようになる云わば呼び水となったのは、曲亭馬琴(1767年7月4日〉- 1848年12月1日)の『南総里見八犬伝』(1842年)だった。云うまでもなく江戸時代に著された、長編伝奇小説の古典である。もちろん小学生だったぼくが手にしたのは児童向けに抄訳されたものだったけれど、とにかくそのめくるめくストーリー展開にこころを奪われて、時間が経つのも忘れて読書に没頭したものだ。大学生になってから、あのグラシン紙がかかった岩波文庫全10巻を手に入れてついにホンモノを読んだが、やはり夢中にさせられた。

 

 ぼくの読書は曲亭馬琴にはじまり、江戸川乱歩を経て横溝正史にたどり着く。その合間を縫って、アーサー・コナン・ドイルモーリス・ルブランロバート・ルイス・スティーヴンソンジュール・ヴェルヌなどの海外の文学作品も愛読した。要は推理小説、SF小説、あるいは冒険小説のような、スリリングなストーリー展開に手に汗を握るような小説が大好物だったわけだ。これは昭和の子どもの読書体験としてはとりわけ奇異でもなく、むしろお決まりのコースのようにも思えるのだけれど、いかがなものだろう。少なくともポプラ社から刊行された名探偵ホームズのシリーズや少年探偵シリーズは、多くの子どもたちに読まれていたであろう。ぼくの場合はさらにオトナ向けの乱歩作品に背伸びし、そのあと行き着く先はただ横溝ミステリーへの耽溺あるのみだった。

 

小説は横溝作品のなかではベストワン、映像化は7回に及ぶ

 

 長々と語ってしまったが、ぼくが少年時代にもっともハマったのは、やはり横溝さんの作品群である。最初に読んだのは、父の書棚にあった角川文庫版『本陣殺人事件』(1946年)だった。付属の帯にATGで映画化との記載があったので、小学4年生のころのことだ。奇しくも『本陣殺人事件』は、くたびれた着物と袴という出で立ちで興奮するとスズメの巣のようなボサボサの蓬髪をかきむしるという、おなじみの私立探偵、金田一耕助の初登場作品。日本の古い伝統を背景に起こる密室殺人事件という物語の概要も然ることながら、この風采の上がらない探偵がぼくにはとても新鮮に感じられたもの。そして、ふたたび父の蔵書をこっそり拝借してきて読んだのが『獄門島』(1948年)だった。この作品で、ぼくは完全に横溝ワールドの虜囚となった。

 

 あとになったが、前述の角川文庫と『文豪ストレイドッグス』とのコラボ企画で採り上げられた横溝作品が、この『獄門島』だった。昨年の11月に新刊として発売された小栗虫太郎(1901年3月14日 – 1946年2月10日)の短編集『夢殿殺人事件』とともに、アニメ・コラボ・カヴァーにリニューアルされたのである。アニメ・イラストで描かれた金田一もなかなかどうして、それらしい雰囲気が出ているようにぼくには感じられた。それよりなにより『獄門島』を若いひとたちが手にとる機会を設けられたことが、ぼくには嬉しく思えた。なにせ『獄門島』は横溝作品においてはぼくのベストワンでもあるし、日本のミステリー作品全体で考えても最高峰と断言できる。未読のかたには、ぜひ読んでいただきたい1冊だ。

 

 なぜぼくが『獄門島』をベストワンに選ぶのかというと、当たりまえのことだけれどミステリー小説として非の打ちどころがないからだ。この小説では、さまざまな意匠が微に入り細を穿って凝らされており、しかもそういった諸要素によって物語全体が少しの破綻もなく成立させられているのである。ぼくにはこの小説の構造が、高貴で美しいものとさえ思われる。S・S・ヴァン・ダインアガサ・クリスティーの作品を彷彿させる俳諧を使った見立て殺人の演出も華麗だし、それにともなったアリバイ・トリックも小気味いい。しかしながらこの小説の本当にスゴいところは、そういった仕掛けや装飾までして3人の娘たちを殺めざるを得なかった犯人の動機にある。ぼくはかねてより横溝作品の最大の魅力は、カタルシスを感じるほど説得力のある犯行動機にあると考えているのだった。

金田一耕助と釣鐘

 瀬戸内海に浮かぶ一孤島、獄門島。旧幕時代には流刑地だったこの島に暮らすひとびとのほとんどが、流刑人と伊予海賊の末裔とが婚姻して残した子孫だ。封建的な因習が残る獄門島では、島の網元である鬼頭家が本鬼頭と分鬼頭とに分かれて対立している。備中笠岡から南へ7里、瀬戸内海のほぼなかほどに位置する周囲2里ばかりの小島という記述からも、さも実在しそうな風情があるがすべて横溝さんの創作である。むろん『獄門島』は論理とトリックが重視された本格ミステリーだが、なによりもそういったミステリーのファクターにより説得力をもたせるような、リアリスティックな架空の世界が構築されているところが驚異的なのだ。それは、横溝さんが優れた論理的思考力をもつ小説家であるが故になせるワザだ。

 

 とにもかくにも『獄門島』は、よく練られた小説である。予期せぬストーリー展開といい、芸の細かい伏線の張りかたといい、こころ憎い演出の宝庫だ。ぼくは最初に横溝さんのことを日本を代表するミステリー小説の巨匠と云い表した。しかしながら横溝正史という作家は、そうであるまえに生来の筋立ての天才、稀代のストーリーテラーなのだ。ぼくが昨今の本格ミステリーと呼ばれる小説に満足できないのは、詭計を弄することばかりに労力が注がれていて物語作りのほうは粗略に扱われている場合が多いからだ。ときに物語作りといえば『獄門島』では、戦争(第二次世界大戦)が物語の根幹をなすものとされている。この小説では、加害者も被害者も戦争に翻弄される。もし戦争が勃発しなかったら、このむごたらしい連続殺人事件は起きなかったであろう。

 

 そんな十全十美の本格ミステリーである『獄門島』をパーフェクトに映像化するのは、極めて困難な作業と思われる。それでも現在(2025年)まで映画2作品、テレビドラマ5作品が存在する。むろん原作に鏤められた佳処をすべて回収することが無理難題であるというのは、ぼくも重々承知している。しかしながら酷なことを云うが、期待値を下げてもやはり満足のいく作品は1本もなかった。もっとも原作が丹念に映像化されたのは、古谷一行(1944年1月2日 – 2022年8月23日)が金田一を演じたTBSの『横溝正史シリーズ』(1977年)のなかの1本(全4話)だろう。鬼頭早苗を演じた島村佳江の、社会から隔絶された存在であるが故の美しさに、一瞬どきっとさせられたりもする。ただ、確かに撮影や編集に工夫がめぐらされているのだけれど、残念なことにテンポが緩慢で飽きがくる。

 

 また、もっとも新しいNHKの『スーパープレミアム』版(2016年)では、長谷川博己が戦争神経症を患ったような金田一を演じている。この金田一、姿形は非常に原作のイメージに近いのだが、性格的にはかなりかけ離れていて、いささかエキセントリックな人物として描かれている。彼はいきなりオープニング・シーンで、事件のカギとなる俳句が書かれた枕屏風を蹴り飛ばす。そして、座敷牢のなかの鬼頭与三松をわざと興奮させたり、事件を解決する際にはひたすら犯人に挑発的なコトバを浴びせつづけたりもする。ああ、これは新しい金田一像を作り出そうとしているのだな──と、感じられた。ドラマは全体的に大事な箇所がけっこう端折られていて食い足りないのだが、この金田一の行く末はとても気になった。その点、このシリーズの金田一役が吉岡秀隆に変更されたことは残念でならない。

 

 吉岡さんには申し訳ないが、まったく金田一に見えない。あまつさえ、ぼくには吉岡さんにしか見えないのである。彼は役者魂に溢れた素晴らしい俳優だが、ハッキリ云って金田一には合わない。白髪、凄みのある瞠目、甲高い声といった個性が押し出され、ひとの道理などを説かれた日には、かなりゲンナリさせられる。ハナシを『獄門島』に戻すが、フジテレビの『昭和推理傑作選・横溝正史シリーズ』版(1990年)に登場する片岡鶴太郎演じる金田一が、ぼくをもっとも落胆させた。本鬼頭家の三姉妹のひとりの額に接吻したり犯人を殴りつけたり、そんな感情に溺れやすいキャラクターは金田一ではない。古谷一行主演のTBSの『月曜ドラマスペシャル』版(1997年)と上川隆也主演のテレビ東京の『女と愛とミステリー』版(2003年)は、テレビ放送の制約故か2時間サスペンスの域を出ていない。

 

テーマ曲や劇伴もまたシリーズ中もっとも爽やかだった

 

 ただ上川さんの金田一に関しては、気負いのない感じと事件の謎を解明することに専念しているところに好感がもてた。もっとも古い『獄門島』の映像作品は東横映画版(1949年)だが、これは映画としてはスゴく面白い。片岡千恵蔵(1903年3月30日 – 1983年3月31日)が演じるスーツ姿の金田一、ある意味で原作とは違う真犯人など驚愕の脚色が満載だ。とはいっても、本鬼頭家先代、嘉右衛門の幽霊(?)が徘徊するサービス・エピソードがあったりするのに、俳句の見立てのほうはまったく出てこない。この映画は横溝作品とはベツモノとして鑑賞すべき映画だ。ということで、ぼくのもっとも好きな『獄門島』の映像化作品は、やはり石坂浩二主演による東宝映画版(1977年)に落ち着く。ただこの作品、問題もある。それは映画公開の直前に前述の『横溝正史シリーズ』版の放送があることから、犯人(実行犯)が変更されたのである。

 

 犯人が変更されたので、自ずと物語のディテールにも相当の変化が起こらざるを得なかった。いささか論理的に飛躍する部分もある。しかしながら映画は、気の利いたコメディリリーフと歯切れのいい映像シークエンスが際立ち、繰り返し鑑賞しても楽しみ尽くすことのない作品に仕上がっている。メガホンをとったのは名匠、市川崑(1915年11月20日 – 2008年2月13日)で、本作は『犬神家の一族』(1976年)『悪魔の手毬唄』(1977年)につづく、シリーズ第3弾。シリーズといっても作品世界は、それぞれ因果関係のない独立したもの。これは市川流。考えてみれば、市川作品に原作どおりのもは1本もない。監督は生涯多くの文学作品を映像化したが、どれも大胆な改変が加えられていた。原作をしっかり批評しつつ、それに独自の解釈を施すというのもまた市川流なのである。

 

 この『獄門島』も原作がいちど解体され、ふたたび組み立て直された形跡が多々ある。残念なことに、犯人が変更されてしまったことで、陰惨な事件が実は封建的な考えや独自の因習に端を発するという怖さは、いくぶん薄味になってしまった。加えて母娘がお遍路する回想シーンには市川作品にしては濃厚というか、いささかお涙頂戴に走り過ぎのきらいがある。それでもぼくがこの映画に不快感を覚えないのは、やはり全般的には市川タッチの軽妙洒脱なシーンが繰り返されるからであろう。原作では事件が発生するのは秋の気配が深まる季節だが、映画では青い海と空が眩しい夏の盛りとなっている。ときに惨劇の前触れのごとく、天候が急変し暗雲が垂れ込めたりもするが、それもまた夏の空。ふたたび晴天となれば、空気は爽やかで清々しい。

金田一耕助と女祈祷師

 そう、市川版『獄門島』の最大の魅力は、軽やかで爽やかなところだ。本作は原作はもちろんのこと、ほかのどの映像作品よりも鑑賞後にスッキリした気分にさせられる。そんな鮮やかなマジックは、日本映画における最大のスタイリスト、市川崑の面目躍如といったところだろう。監督の美学によって、ヨレヨレの和服にフケ症の蓬髪という金田一でさえも、爽やかな風のような印象を与える。金田一耕助は神様や天使のような存在である──市川監督は折に触れてそのようなことを述べていた。原作の金田一は早苗に恋情を抱き、事件解決後、島を出て一緒に東京へ行かないかと誘う。しかし石坂浩二が演じる金田一は、天使だから恋はしない。だから反対に大原麗子(1946年11月13日 – 2009年8月3日)が演じる早苗が、(島から)連れ出してほしいとこぼすのだ。すぐに冗談ですと取り消すが、実はまんざらでもないと思われる。

 

 映画の後半で早苗はある悲報を受けて金田一の胸に飛び込んだり、彼が島を出る日には船着場に見送りに行かず、寺の境内で涙ながらに鐘を撞いたりする。鐘の音は、金田一の耳にも届く。さらに加藤武(1929年5月24日 – 2015年7月31日)が演じる警部の「みんなわしが間違うとった」というセリフが、明るいムードに拍車をかける。なんとも清々しいエンディングだけれど、こういう雰囲気は原作にはまったくない。また本作には、たとえば金田一がニセモノの傷痍軍人(実は事件の引き金となる重要人物)に道を訊くシーンがユーモラスに描かれていたり、金田一が電線にとまったスズメの数から事件を解決するヒントを得る場面が挿入されたり、とにかく監督のモダンな遊びごころが満載だ。そういうアイディアの連続が、作品を爽やかで洗練されたものにしている。そして音楽がシリーズ中もっとも爽やかだったのも、この『獄門島』だった。

 

 音楽は昭和歌謡をはじめ映画やテレビドラマの劇伴など、数多くの作編曲を手がけた田辺信一(1937年10月2日 – 1989年4月29日)が担当した。田辺さんは前作『悪魔の手毬唄』ですでに編曲と指揮を受けもっていたが、その功績が認められて音楽全体を任された。さらに本作のあと『女王蜂』(1978年)『病院坂の首縊りの家』(1979年)の音楽においても、田辺さんが続投した。田辺さんは慶應義塾大学ライト・ミュージック・ソサイェティの出身で、もともとジャズ・ピアニストだった。その楽曲では、ポップなコンポジションとモダンなアレンジが冴える。サウンドトラック・アルバムは、東宝レコードから発売され、演奏は東宝スタジオ・オーケストラ(メンバーは固定ではない)となっている。なお2012年に劇中使用音源で構成されたCD『獄門島総劇伴集』が、富士キネマからリリースされた。

 

 アルバムのオープニング「愛のテーマ」は、チェンバロとピアノ、そしてストリングスによって奏でられるメロディック・ラインが、シネマ・イタリアーノを思わせる感傷的な曲。つづくオルガンとヴィブラフォンがリードをとる「金田一耕助のテーマ」は、ハリー・ニルソンの「うわさの男」を彷彿させる穏やかなナンバー。ストリングスのトレモロとギターのエフェクトとが絡み合う「吊り鐘」は、凄惨な場面をストレートにイメージさせる。メイン・タイトルやエンディングで使用された「船着き場」は、R&B調のベース・ライン、ジャジーなギター、ゴスペル・タッチのピアノなどが光るアルバム中もっともグルーヴィーな曲。フェンダー・ローズと弦のトレモロが効果的な「霧」は、幻想的なムードを醸し出している。オルガンとストリングスがエスプリを効かせる「夏の朝」は、のどかな夏のワンシーンを捉えたもの。チェンバロが使用された「巡礼の旅」は、8分の6拍子のエレジーである。

 

 サイドBの冒頭を飾る16ビートのブラシワークとベースラインが軽快な「獄門島のテーマ」は、潮風が吹いてくるような爽やかさが絶品。マリンバとフルートとによるアクセント、女性コーラスも清涼感に溢れている。ストリングスのアンサンブルが鮮やかな「獄門島の夜明け」は、果てしなく広がる青海原をイメージさせるブライト・トーンの曲。劇中では未使用なのが残念だ。不気味で重苦しいムードから弾けるような爽やかさへと移行し、ふたたび不穏な雰囲気が炸裂する「呪われた島」は、スウィート風のアレンジで聴き応えがある。後半の激しいドラム・ソロも効果的だ。前出の「巡礼の旅」のヴァリエーション「運命」は、さらに悲壮感を漂わせる。ショッキングな「断崖」は、壮大なオーケストラ・サウンドが強烈なインパクトを与える。ラストのアコースティック・ギターによる「鐘桜」は、哀感を漂わせた余韻を残す。本盤を聴くと、ぼくのこころは真夏の孤島へいざなわれるのだけれど、これは原作小説では味わうことのできない体験である。

 

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

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