Mr Untel / Les Remixes De Mr Untel : Jacques Tati (2002年)

シネマ・フィルム
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パリをイメージさせるジャック・タチのスタイリッシュな映画とユニークな音楽

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Album : Mr Untel / Les Remixes De Mr Untel : Jacques Tati (2002)

Today’s Tune : Playtime Rumba

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少年のころ憧れの街だったパリ──影響を受けたフランス映画と音楽

 

 2024年パリオリンピックの開催が、目前に迫っている。とはいっても、スポーツ観戦をまったくしないぼくには、もちろん一日千秋の思いでそれを待つようなことはない。でも、パリという街にはかねてから惹かれるところがある。だから、開会式がセーヌ川で行われると聞いたときは、ちょっとした驚きもあったけれど、すぐに然もありなんと思ってしまった。選手たちは、オステルリッツ橋からエッフェル塔近くのイエナ橋まで、船に乗って入場行進ならぬ入場航行をするという。法律の番人であるジャヴェール警部がジャン・ヴァルジャンを救い、そのあと自ら身を投げた、あのセーヌ川。1951年の映画『巴里の空の下セーヌは流れる』のタイトルにもある、あのセーヌ川。いやはやなんとも、粋な計らいではないか。

 

 そんなふうに思っているのは、ぼくだけだろうか。いやいや、ぼくのようなかつての20世紀少年だったら、だれもがパリはお洒落な街という固定観念をもっていたのではないだろうか。ぼくなどは、街頭で演奏されるアコーディオンの音色を聴いただけで、お洒落だな──なんて思ったもの。実際、パリの街角などで流れている楽曲は、ミュゼット(アコーディオン・ミュージック)と呼ばれていて、知られざる名曲もけっこう多い。そういう曲をちゃんと採り上げるアコーディオン奏者もいる。たとえばダニエル・コランなどは、フランスを代表するプレイヤーとして、日本でもよく知られている。わが国にも横森良造というスゴイひとがいたけれど、のど自慢番組のアコーディオンおじさんといった印象が強い。

 

 まあ、文化の違いと云ってしまえばそれまでなのだけれど、ごく身近な(ぼくの通っていた小学校にもあった)この蛇腹楽器が奏でる音楽ひとつとっても、フランス人の感覚は粋なものと思えてしまうのだ。思えば、小学校高学年のころから2週間に1回の割り合いで名画座通いをしていたぼくは、すぐにフランスという未知の国に憧憬の念を抱くようになったもの。ジャン=リュック・ゴダール監督の『勝手にしやがれ』(1960年)を観て、もちろんヌーヴェルヴァーグの意味もわからなかったが、単純に主演のジャン=ポール・ベルモンドにしても、ジーン・セバーグにしても、その一挙一動がやたらとカッコよく思えた。同時にモノクロームの世界で映し出されるパリも、ぼくの目にはとてもあか抜けた街として映った。

アコーディオンを弾くねずみの女の子 背景にエッフェル塔と凱旋門

 その後、ルイ・マル監督の『地下鉄のザジ』(1960年)を観て、ぼくのなかには、当時の自分とおなじ年ごろだったせいか、主人公の少女ザジに対してやたらめったら親近感が湧いた。この映画の表現法について語られるとき、シュルレアリスムとかスラップスティックというワードが使われるけれど、当時のぼくはその意味はおろかコトバ自体すら、まだ知る由もなかった。とにもかくにも少年だったぼくは、ストライキでメトロが運転見合わせになって、混乱するパリの街をザジとともに走りまわりたくなったりした。そして、ぼくはこの映画を体験したとき、この冒険の舞台となるパリという街に、まるで淡い恋ごころを抱くように、すっかり目もこころも奪われてしまったのである。

 

 映画からの影響は、ぼくの音楽体験にまで及んだ。そのころすでにクラシック・ピアノの個人レッスンを受けていたぼくは、明らかに芸術音楽とは違う、銀幕のなかで流れる甘美なサウンドに惹かれていった。ぼくがポピュラー・ピアノを弾くようになったいちばんのキッカケは、やはり数々の素晴らしい映画音楽に出会ったことだろう。なかでもフランスの映画音楽が大好きで、意外に思われるかもしれないが、最初に意識した音楽家は、ジョルジュ・ドルリューだった。フランソワ・トリュフォー監督の映画は名画座の定番だったのだけれど、彼の作品のほとんどを手がけていたのが、ドルリューだった。わかりやすいメロディと温もりのある音色のなかに、ときおり見られる陰りのあるエクスプレッションが、なんとも魅力的だ。

 

 ドルリューにとって、1980年代からはもっぱらハリウッドの仕事が多くなるけれど、ドルリュー節は健在。ただ当時、彼がペンをとったアメリカ映画のスコアは、なぜかサントラ盤として発売されることが少なかった。そのせいで、ぼくが聴いていたのはひとえにフランス作品のほうだった。いずれにしても、ぼくにとってドルリューという作曲家は、映画音楽に対する関心の出発点であり、フランスの作曲家にのめり込む足がかりでもあった。実はフランスの映画音楽作家でぼくがもっとも影響を受けたのは、ありきたりだけれど、フランシス・レイミシェル・ルグランだ。ドルリューは、映像と音楽とのマッチングにおいては卓越した技術を発揮するのだが、サウンドの斬新さという点ではレイとルグランに一歩譲る。

 

 ぼくは、レイとルグランのレコードをとにかく夢中で聴いたし、その楽曲をピアノで弾く機会も多かった。彼らの曲は、当時の日本でも大人気だったから、ポピュラー・ピアノ曲集(楽譜)には必ずといっていいほど収載されていた。それこそかつてパリのテルトル広場界隈でアコーディオンを弾いていたというレイは、シャンソン風のメランコリックな美しいメロディを書くひと。彼の楽曲から匂いたつのは、フランスの香り以外のなにものでもない。ちなみに、レイがよくコンビを組んだクロード・ルルーシュは、ぼくのもっとも敬愛するフランス映画の監督だ。かたやルグランのほうは、天才のひとことに尽きる。書く曲はどれもビューティフル。ピアノもヴォーカルも演る。アレンジは華麗だが乱脈を極めることはない。スゴ過ぎる。

 

リアルなパリを体験──かつてハマったタチの映画とその音楽そのもの

 

 そんなふうに、少年時代に体験した映画や音楽から、ぼくのなかではいつの間にか、フランス、ことにパリという街は、エスプリの効いた独特の文化が深く根付いたところ──というイメージが凝り固まっていた。ひとことで云えば、ぼくは子どもながらに、パリがお洒落な街と主観的に捉えていたのである。無論まだ実際にパリの街を訪れるまえのハナシだ。幸いなことに、それから20余年もあとのことだが、すっかり大人になったぼくはフランスへ行く機会に恵まれた。当然のごとく、パリの街を観光したり散策したりもした。リアルなパリは、想像していたとおり素敵な街だった。ただ、ぼくの心象風景といささか異なるところがあったのも、また事実。パリという街、そこで生活するひとたちは、ただ洗練されているだけではなかったのだ。

 

 ぼくが現実に目にしたパリは、確かにあか抜けてはいるのだけれど、とりすましているのは外観だけで、実際はもっとゆったりとしてこせこせしない感じだった。そして、ぼくがそのとき思い浮かべた音楽は、レイでもなくルグランでもなく、はたまたドルリューでもなかった。なぜかぼくのアタマでは、1971年のフランス映画の『トラフィック~ぼくの伯父さん・交通大戦争~』の音楽が鳴っていた。20代後半に手に入れたサントラ盤は、オルガン、口笛、女性スキャットなどがフィーチュアされた、スタイリッシュでハートウォーミングな1枚。というか、くだけた云いかたをすると、ちょっととぼけたテイストの入ったほのぼのとした音楽だ。作曲者はシャンソン界の大御所シンガー、シャルル・デュモンで、ジャズやロックを含む多様なサウンドを披露している。

 

 これはまったくの余談だが、テレビドラマ『ガリレオ』(2007年)のテーマ曲「vs. 知覚と快楽の螺旋」をはじめて耳にしたとき、ぼくは咄嗟にこの『トラフィック~ぼくの伯父さん・交通大戦争~』というLPのB面の1曲目に収録されている「アクシデント」という曲を思い出してしまったのだが、ご存知のかたはいかがなものだろう。まあそれは置いておいて、このアルバムのA面1曲目に収録されている「トラフィック」のような、グルーヴィーななかにもピースフルなムードが溢れる曲調は、パリのライフスタイルによく似合っていると、ぼくは勝手に思ってしまった。つまり思いのほか、パリは鷹揚だった。そこに生きるひとびとは、もちろん繊細さももち合わせているのだろうが、あまり小さなことにこだわらずゆったりとしているように見えた。

コーヒーを運ぶのカフェ店員の猫 背景にエッフェル塔と凱旋門

 それを象徴するような風景をいくつも、ぼくはこころの画布にスケッチしてきたのだけれど、ひとつだけご紹介しておこう。それは、その赤い車体からカー・ルージュと呼ばれるオープントップの2階建てバスに乗って、パリの街を観光していたときのことである。このバスはパリの9つの主要スポットを巡回していて、乗客は好きなところで自由に乗り降りできるので、とても便利だ。ところが、ぼくが乗っていたバスが、まったく観光名所とは思われない場所で停車した。しかし、乗降客はひとりもいない。するとキャスケットとサングラスがイカしたおにいさんが、バスを降りてどこかへ行ってしまった。しばらくすると、紙袋を抱えて戻ってくるおにいさんの姿が──。どうやら、ちょうどお昼どきということで昼食を買いに行っていたらしい。

 

 しかもおにいさん、運転席に戻る直前に偶然にも知り合いに出くわしてしまった。それからまた少しのあいだ、路上で立ちばなしに花が咲く。その光景を見て憤懣ふんまんるかたない表情を浮かべているのは、日本からの観光客のみ。フランス人は、ニヤニヤしている。これはもはや鷹揚というよりは、のんきというしかない。でも、気ままではありながら同時にのんきでもあるぼくは、それが許されてしまうような、パリジャン、パリジェンヌの生活様式あるいは価値観が、ちょっと好きになってしまった。まだまだ、面白いエピソードがあるのだが、また機会があればご紹介したいと思う。そうそう、のんきといえば『のんき大将脱線の巻』というフランス映画をご存知だろうか。アメリカ式合理主義の影響が風刺された、1949年のコメディ作品だ。

 

 ぼくは、この『のんき大将脱線の巻』で、はじめてジャック・タチ(1907年10月9日 – 1982年11月4日)の存在を知った。タチは、パリ郊外、ル・ペック生まれの映画監督であり俳優である。タチはこの作品で、脚本、監督、主演を務めている。俳優としては、効率的で迅速なアメリカ式配達に触発され、フランスの田舎町、サント・セヴェールをものすごい勢いで自転車を駆る郵便配達人、フランソワを演じている。実はぼくは、かつて映画少年だったと自負しているのにもかかわらず、タチの映画作品に触れたのは大学を卒業したあとのことだった。確か1990年代の初頭だったと思う。まったくお恥ずかしい限りだが、それまでぼくはタチのタの字も知らなかった。芸術系大学を卒業した女の子の薦めで、はじめて鑑賞するに至った。そして、ハマった。

 

 さすが芸術系だけあって、その女の子は早い時期からタチの作品を高く評価していたようだ。ぼくはちゃっかり、彼女が所持していたタチ作品のVHSビデオを、ぜんぶ借りてきてしまった。結局、ルネ・クレマンが監督し、タチは脚本と主演を担当した『左側に気をつけろ』(1936年)、ムッシュ・ユロが登場するシリーズ『ぼくの伯父さんの休暇』(1953年)と『ぼくの伯父さん』(1958年)を、立てつづけに観た。そしてぼくはたちどころに、ユロ氏の大ファンになってしまった。チロル帽子をかぶり、クロップドパンツをはきアトリエコートをまとっている。吸い口の長いパイプをくわえ、(晴れていても)手には傘をもっている。そんな出で立ちのムッシュ・ユロ。191センチの長身も手伝って、本人の意志とは関係なく、なにかと目立ってしまうのだ。

 

ミスター・アンテル──タチの世界をハウス・ミュージックとして再現

 

 そんなユロ氏は、海を臨む高級リゾート地サン・マール・シュル・メール、パリのモダンな住宅街、高層ビルが林立する近未来のパリ、そしてパリとアムステルダムを結ぶ幹線道路などに現れ、これまた本人の意思とは関係なく、きまって大騒動を巻き起こす。まわりのひとにとっては迷惑千万なのだが、映画を観ているひとにとっては笑止千万。憎めないというか、むしろ愛すべきキャラクターと云える。そんなふうに形容すると、フーテンの寅こと車寅次郎を連想してしまうかたもいるかもしれないが、ムッシュ・ユロは寅さんのように饒舌ではない。というより、無口と云える。そして、かつてパントマイムの道を志したタチが演じているだけに、まるでサイレント映画のように、視覚的にスラップスティックを繰り広げるのである。

 

 ちなみに、イギリスの俳優でコメディアンのローワン・アトキンソンは、あのミスター・ビーンのキャラクターを作るとき、ムッシュ・ユロの人物像にインスパイアされたという。まあ、ユロ氏は飽くまでイノセントなひとで、ビーン氏のように自己中心的で悪知恵を働かせるようなところは、まったくないのだけれど──。それはともかく、すっかりムッシュ・ユロ=ジャック・タチのファンになったぼくはその後、1995年にいまはなきシネ・ヴィヴァン・六本木で日本初公開となった『トラフィック~ぼくの伯父さん・交通大戦争~』(1971年)を、そして遅ればせながら、2003年にTOHOシネマズ六本木ヒルズにおいて、2002年に修復された『プレイタイム』(1967年)と短編『ぼくの伯父さんの授業』(1967年)を、それぞれはじめて鑑賞した。

 

 ということで、ぼくがムッシュ・ユロのシリーズのすべてに目をとおすまで、およそ13年もかかってしまったわけだが、その間わが国でもタチ作品はことあるごとに再評価され、ユロ氏に熱い視線を送るファンもじわじわと増えていった。そんなタチの映画において忘れることができないのは、フィルム・スコアだ。タチの映画ならではの雰囲気や空気を醸成する音楽といえば、いつも軽やかで洒落気があって、こころが温まるようなサウンドをもつ。その劇伴には、いかにもフレンチなカルーセル・ミュージック風の曲もままあるのだけれど、ジャズやロックをベースにした楽曲も満載。作品によってコンポーザーは替わるが、各々の音楽がノスタルジックであるとともにモダンでもあるところは共通する。これは、明らかにタチの意向が反映された結果だろう。

ぼくの伯父さんのシルエット

 そういえば、1990年代(正確にはシネ・ヴィヴァン・六本木にて「ジャック・タチの世界」という特集上映が催された1989年)からのリヴァイヴァル・ブームのちょっとあとのことだったろうか──。あのラヴリーな『ぼくの伯父さん』のなかの「アディオス・マリオ」という曲が、キャンベル・スープ缶のCMソングとしてテレビから流れてきたのを耳にして、いよいよ日本でもタチの人気が一般的なものになったなと、ぼくは実感したもの。それと同時に、この1曲を聴いただけで即座にタチの映像世界が脳裏によみがえってくるのだから、彼の作品のフィルム・スコアがいかにファンタスティクなものか再認識した。ただ作品ごとの使用曲は少なめなので、映画が公開された当時のサントラ盤といえば、シングル盤やコンピレーション・アルバムばかりだった。

 

 それでも数多くのレコードが存在するのだから、タチ作品の音楽は映画公開当初から、フランスでは多くのひとに親しまれていたのだろう。もっともよく知られているレコードは、フィリップス盤の『ぼくの伯父さん~ジャック・タチ作品集』(1977年)だろう。人気の4作品『のんき大将脱線の巻』『ぼくの伯父さんの休暇』『ぼくの伯父さん』『プレイタイム』のコンピレーション盤である。1989年にフランスでCD化されたが、にわかにブームの兆しが見えはじめていた日本のショップでも輸入されて、コアなファンにとってはマストハヴなアイテムとなっていた。その後、日本のブームが絶頂となった1995年に『ぼくの伯父さん』からの2曲が追加された日本盤もリリースされた。

 

 このアルバムとあわせて、前述の『トラフィック~ぼくの伯父さん・交通大戦争~』とタチの遺作となった『パラード』(1974年)といった2作品のサントラ盤を手にとれば、おおむねタチの世界を彩る愛すべき楽曲たちを知ることができる。なおこの2作品のサントラ盤は、それぞれ1994年と1999年に日本でCD化されている。音楽は両作とも、さきに述べたシャルル・デュモンが担当している。それから数年後の2002年はタチ没後20周年ということで、前述のように『プレイタイム』の修復版が公開されたのだが、タチ・リヴァイヴァルはそれにとどまることを知らず、翌年の2003年には『ジャック・タッチ・スタイル』(1995年)というCDがリイシューされた。フィリップス盤とおなじ4作品のコンピだが、音楽とともにダイアローグやSEも収録されている。

 

 ふつうだったら困惑するような仕様だが、“ワンワン!”も“コケコッコー!”も音楽のいち部として聴こえてしまうのが、タチ・マジック。可愛さと楽しさがいっぱいの1枚だ。あとになったが、4作品の音楽を担当した作曲家を映画の公開順に挙げると、スウィング・バンドのリーダーでもあるジャン・イアトーヴ、ジャズ・ピアニストのアラン・ロマン、フレンチ・ポップやミュージカルの作曲家として知られるフランク・バルセリーニ、そしてシンガーソングライターのフランシス・ルマルクとなる。彼らの音楽はジャズが基調となっているが本格的なジャズではなく、本場のサウンドが俯瞰されドレッシーに新装された、いわゆるフレンチ・ジャズである。そのあたりは、レイやルグランの音楽とも共通する。フランスは飽くまでフランス流なのだ。

 

 最後になってしまったが、ぜひとも手にとっていただきたいのが『ジャック・タチ・リミックス』(2002年)というアルバム。上記の『ジャック・タッチ・スタイル』が素材とされたリミックス作品。タチの世界がハウス・ミュージックとして、見事に再現されている。パリ在住のプロデューサー、ジェラール・ランジェラと、ニューヨーク在住のアーティスト、ディディエ・クレミューによるユニット(現在クレミューは離脱済み)、ミスター・アンテルの作品。このプロジェクトにとっては『フロム・コースト・トゥ・コースト』(2001年)につづくセカンド・アルバム。デビュー作よりも出来がいいと、ぼくは思う。ジャズ、ボサノヴァ、アフロといったヴァラエティに富んだリズムと、ブライトでカラフルなサウンドが際立つ。リリースから20余年が経つが、いまもって本作にはタチともども、パリという街をストレートにイメージさせるものがある。

 

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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