Jutta Hipp / At The Hickory House Volume 1 (1956年)

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ドイツ出身の薄幸の超幻ピアニスト、ユタ・ヒップが名門ブルーノートに残した佳作『ヒッコリー・ハウスのユタ・ヒップ Vol. 1』

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Album :Jutta Hipp / At The Hickory House Volume 1 (1956)

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彼女は薄幸の超幻ピアニストという異名をとる

 

 昔から美人薄命などと云うけれど、確かに女性ジャズ・ピアニスト、ユタ・ヒップ(1925年2月4日 – 2003年4月7日)は、まずまず長く生きたわりには、音楽家としての活動期間ははなはだ短めで、レコーディングにおいてはおよそ5年ほどで終止符を打っている。戦時中の体験や音楽の世界から身を退いたあと画家として活動したことなどを踏まえると、ヒップは数奇な運命をたどったとも云えるのかもしれないが、美人薄命という俗諺が意味するように、運に恵まれなかったり災難に見舞われたりして、幸せな人生を送れなかったのかというと、必ずしもそうではないだろう。いずれにせよ、ニューヨーク市マンハッタン区グリニッジ・ヴィレッジに所在する、あの有名なジャズ・クラブ、ヴィレッジ・ヴァンガードには、ヒップが描いた絵画が飾られているという。

 

 もともと美人薄命は佳人薄命という云いかたが転じたもの。佳人は容姿端麗の女性のことを示すコトバであるのと同時に、品格や知性を備えた女性のことを指すものでもある。ヒップのクラシック・ピアノをベースにしたかのごときタッチからは、エレガントでインテレクチュアルな雰囲気が醸し出されることもあるが、その点で彼女は佳人と例えるに相応しい人物と云えるのかもしれない。ただヒップが実際、容姿の美しい女性であったかどうかは、ぼくはいまだによくわからない。ぼくがヒップのアルバムを手にした当時といえば、彼女の眉目形を知ろうとするとき、手がかりとなるのはレコード・ジャケットにあしらわれた写真やイラストだけだった。そのころから薄幸の超幻ピアニストという異名をとるだけに、ヒップへの関心は高まるばかりであった。

 

 ぼくがはじめてヒップのレコードを手に入れたのは、1990年代のはじめごろのことだった。いまだったら、ちょちょいのちょいとパソコンでググれば、ヒップのおおまかな経歴はもちろんこと、その風貌にしても造作もなく知ることができる。ところが当時は、一般家庭のネット環境といえばまだブロードバンド化するに至っていなかった。だからそのころのぼくにとって彼女は、峰不二子ではないけれど、謎の女だったのである。おなじころ、とあるジャズ・クリティックが、ヒップのことをリニー・ロスネスに通じる美人ピアニストと云い表していた。ロスネスはカナダ出身のジャズ・ピアニストだけれど、その容貌といえば、あたかもアイルランド人の父とインド人の母との遺伝子が綺麗に混ざり合ったかのごとく、きわめて美しい。

ハート型のドイツ国旗と若い女性

 ドラマーのビリー・ドラモンドやピアニストのビル・チャーラップのハートを射止めたロスネスは確かに美人だけれど、ぼくの感想としては、そのルックスはヒップにあまり似ていないように思われる。敢えてふたりの共通点を挙げるとするならば、外見よりもピアノ・プレイのほうで、漠然とではあるがぼくは両者の力強く明快なタッチに通底するものを感じる。もしかすると、くだんの批評家さんも実はそういうことが云いたかったのかもしれないけれど、ヒップについて語るときわざわざロスネスを引き合いに出す必要はなかったと、ぼくは思う。それともほんとうに、レコード・ジャケットにあしらわれたヒップのハイコントラストなモノクローム写真が、彼にロスネスをイメージさせたのだろうか?真相やいかに──。

 

 まあよくよく考えると、それは瑣末なことである。もちろん、ぼくも美人は大好きだ。とはいってもそもそもぼくの場合、ジャズ・プレイヤーを評価するときに、美人であるかないかということから影響を受けることはまったくない。大衆の偶像であるアイドル歌手ならいざ知らず、ジャズ・ミュージシャンにおいてケイパビリティよりもルックスが重要視されることはないと云っていい。というか、ぼくはそう信じたい。これはまったくの自論だけれど、音楽がキャラクターのイメージに沿って創造されているかどうかを問われるのは、アイドル・ソングにおいてのみだ。昨今の日本のジャズ・シーンでは、みだりに露出度の高い服を着て演奏する見目麗しいピアニストを見かけたりするけれど、そんな売り込みかたは本人にとって却って損になるようにも思われる。

 

 いささかわき道に逸れてしまったが、前述のようにヒップが実際、容姿の美しい女性であったかどうかは、ぼくはいまだによくわからない。実は後年になって彼女の写真を何枚か見たら、自分にはそのことが余計に判然としなくなってしまったのだ。それなりに顔だちは整っているのだけれど、あまり化粧っ気がないし、装いもそれほど華美ではない。まあドイツ人女性にはスローライフやミニマリズムを嗜好するようなところがあるので、意図してメイクやファッションを抑えめにしているのかもしれない。すっかりあとになったが、ヒップはライプツィヒ生まれのドイツ人である。カメラがとらえた彼女は、微かな笑みを浮かべながらもキリッとした表情が際立っている。ぼくなどは不謹慎なことに、ヒップが相当なじゃじゃ馬ではないかと当て推量をしてしまったくらいだ。

 

 これは偏見かもしれないけれど、ドイツ人女性といえば、感情表現がストレートというイメージがある。そのせいかぼくには写真のなかのヒップが、いかにも好きなものは好き、嫌いなものは嫌いとハッキリ云うような、確固たる信念に基づいて行動するタイプの女性に見えた。彼女がいきなり音楽業界を去り、さっさと画家に転身してしまったというのも、彼女が強い意志のもち主であることのなによりの証拠ではないだろうか。プロテスタント系の中流階級の家庭に生まれたヒップは、9歳のときにピアノを弾きはじめ、10歳から絵画を学ぶようになった。ナチス政権においてジャズを聴くことは認められていなかったが、ヒップは友人の家などでこっそりジャズを楽しんでいたという。やはり彼女は、芯のある女性だったのだろう。

 

 さらにこんなエピソードがある。第二次世界大戦中、ヒップは家族とともに爆撃に備えて地下シェルターで過ごした経験があるが、彼女はラジオのまえに身をかがめて、放送局が流すジャズに耳を傾けるばかりか、その演奏内容を聴きとって譜面に起こしていたという。そのいっぽうでヒップはヨーロッパでもっとも伝統のある芸術学校であるライプツィヒ視覚芸術アカデミーに通い、絵画を学びつづけた。1​​946年にはソビエト軍の侵攻を避けるため、家族とともにミュンヘンへ移住する。食料やそのほかの必需品が不足することが多く、ヒップは栄養失調に苦しんだという。また、彼女は1948年に男児を出産している。父親がアフリカ系アメリカ人のGIだったため、子どもはすぐに養子に出された。子どもの名はライオネルといったが、あのライオネル・ハンプトンにちなんで付けられたのだった。

 

彼女はドイツのモダン・ジャズ史の黎明において一翼を担う

 

 このあたりはヒップの人生において、まさに数奇な運命のプロローグと云えるのかもしれない。このあと彼女は短期間ながら音楽家としての才能を発揮するわけだが、当の本人はそれを天職とは考えておらず、戦後の困難な状況のなかで食べていくための手段と見なしていた節がある。実際ヒップは、ジャズ・ピアニストとしてクラブで演奏していたときも、かけもちで衣料品工場で裁縫師として働いていたのである。彼女は1955年にアメリカに移住していたが、ミュージシャンを辞めたあとは1960年からニューヨーク市の衣料品会社ウォーラックスで働きはじめ、同社に35年間勤続した。と同時にヒップは、もともと興味をもっていたアートの世界にも立ち戻り、画家として活動するようになったのである。

 

 ヒップは2003年4月7日、ニューヨーク市のクイーンズ区サニーサイドにあったアパートの自室で静かに息を引きとった。膵臓癌だったという。ニューヨーク・タイムズは彼女の死亡記事において、彼女の家族で生存するものは誰もいないと報じたが、のちに前述したひとり息子のライオネルがちゃんと生きており、ドイツで暮らしていることが確認された。なおヒップは生涯独身だったけれど、かつてハンガリー出身のジャズ・ギタリスト、アッティラ・ゾラーと婚約していたことがある。ということでここまで述べてきて、あらためて彼女の写真を見つめてみる。ぼくにはヒップが美人であるかどうかはともかく、周囲に振り回されることはあったのかもしれないが、自分の生きかたを貫きとおすような強い意志をもつ女性のように思えてしかたがない。

 

 ではヒップは、なぜ薄幸の超幻ピアニストなどと云われるのか。数奇な人生というか波乱に満ちた生涯を強く生き抜いた彼女は、決して悲運のひとではなかったと、ぼくは思う。もしヒップの不運を嘆くとすれば、彼女が極度のあがり症だったことが真っ先に挙げられる。ヒップは生来、かなり内気な性格だったようだ。彼女はその短いジャズ・ピアニストとしてのキャリアをとおして、ずっと酷い舞台恐怖症に悩まされていたという。その恐怖を紛らわそうとしたことから、彼女には過度の飲酒とチェーンスモーキングという悪癖がついてしまった。そのいっぽうで、もともと音楽で生計を立てることにそれほど関心がなかったヒップは、常々自分のお気に入り以外の音楽を演奏したり吹き込んだりすることに抵抗を感じており、終いにはすっかりやる気を失ったという。

ハート型のドイツ国旗と油絵を描く女性

 ヒップは小規模のジャズ・クラブで演奏することを、とても好んでいたという。彼女にとってジャズは生計を立てるために公衆の面前でプレイする音楽であったが、かつて密かに地下シェルターで熱心に聴いた音楽でもある。ヒップにとってジャズは、純粋に楽しむものだったのだろう。楽しむことができなくなったから、ヒップはジャズ・プレイヤーとして生きる道をあっさり断念したというわけだ。多才な彼女には、前述のようにほかにも選択肢があったしね──。ただあらためてよくスウィングする彼女のピアノ・プレイに触れると、ちょっともったいない気もする。ヒップのレコードといえば、大まかに捉えるとたったの4枚しかない。ぼくにできるのは、それらの稀少な吹き込みから、彼女の音楽を楽しむ感性が生み出すヴァイブレーションをキャッチすることのみである。

 

 ヒップは戦後、ミュンヘンでジャズ・ピアニストとして活動を開始したのだが、1951年からオーストリア出身のテナー奏者、ハンス・コラーのグループに加入し、ドイツはもちろんのこと海外へのツアーにも同行した。ヒップと同様にコラーもまた絵画を嗜むことで知られるが、もしかすると互いにアートへの関心をもつということが、ふたりを意気投合させたのかもしれない。このころのヒップのプレイは、フランスのヴォーグ・レコードからリリースされた『ハンス・コラーズ・ニュー・ジャズ・スタンダーズ』(1953年)などで聴くことができる。その後ヒップは1954年から1955年まで、自己のクインテットを率いて活動を行う。そんな彼女に惚れ込んだのが、当時ドイツに滞在していたイギリス出身のジャズ・ピアニストであり音楽評論家でもあるレナード・フェザーだった。

 

 フェザーがヒップをアメリカで売り出そうと尽力したことは、よく知られている。一説によるとフェザーはヒップに恋愛感情をもっていたということである。ところがヒップがその思いを拒絶し、実はそのことが彼女の音楽家としてのキャリアを短期間で終わらせる原因だったとも云われている。それはともかくフェザーの肝煎りで、ヒップのレギュラー・グループによる吹き込みが、アメリカのブルーノート・レコードからリリースされる運びとなった。この音源はもともとドイツのコンサート・プロモーター、ホルスト・リップマンのプロデュースにより、1954年4月24日ドイツの中心都市フランクフルトでレコーディングされたものだが、結局ブルーノートの5000番台シリーズ“ニュー・フェイセス・ニュー・サウンズ”の1枚として発売された。

 

 この『ザ・ユタ・ヒップ・クインテット』(1954年)のパーソネルは、ユタ・ヒップ(p)、ハンス・クレッセ(b)、カール・ザンナー(ds)、エミール・マンゲルスドルフ(as)、ヨキ・フロイント(ts)となっている。特にフロントを務めるマンゲルスドルフとフロイントとがアンサンブルやアドリブで繰り出す、ソフトな音色とスムースな弁舌がなかなかいい。ヒップをはじめとするリズム隊のバッキングも、淡白ではあるがバウンシーで心地いい。ここで展開される演奏は、ある意味でドイツのモダン・ジャズ史の黎明と同国の若き才能の萌芽を象徴するものとも云える。それでも概してアメリカのウェストコースト・ジャズを彷彿させる、ほどよいテクニック表現とリズム感覚が冴えるクールなプレイは、気楽に楽しむべきものだろう。

 

 ここでのヒップのピアノ・プレイはどちらかというと控えめだけれど、抑制の利いた躍動感が知的な印象を与える。ことにピアノ・トリオで演奏したルーブ・ブルーム作曲、テッド・ケーラー作詞による有名ミュージカル・ナンバー「ドント・ウォーリー・アバウト・ミー」における、高速なテンポに乗って彼女が繰り出す端正な即興演奏は、すこぶる軽やかで洗練されている。またやはりトリオで演奏したボブ・ハガート作曲、ジョニー・バーク作詞によるトーチソング「ホワッツ・ニュー」においてヒップは、誰もが知るあのロマンティシズム溢れるメロディック・ラインをすっかり解体し、終始美しくも力強いクラシカルなアルペジオ奏法を展開する。こういうプレイから、元来は内気な性格である彼女にも強い意志があると、ぼくは感じるのである。

 

彼女はチャーミングなミュージシャンだった

 

 おそらく上記のようなクラシック音楽の技法を採り入れた独創的なインプロヴィゼーションと、そこから醸し出される冷静で知的なムードとが相まって与える印象が所以するのだろうが、ヒップは盲目のジャズ・ピアニスト、レニー・トリスターノの影響を受けているとよく云われる。そういう観られかたに対して、ヒップ本人は「トリスターノの音楽が好きなわけではない。もっとスウィングしているもののほうがいい」とコメントしている。実際、彼女はトリスターノからしっかり何某かの影響を受けているのだろう。あの鬼才の音楽に触れて、まったく刺激を受けないミュージシャンはいないだろう。実はぼくもトリスターノに関しては、ヒップと同じような感慨をもつ。そのいっぽうでこの陳述が、そっくりそのまま彼女の演奏スタイルに当てはまるようにも思われる。

 

 ところでヒップは1955年にアメリカに移住するが、結局残りの人生をそこで過ごすことになる。彼女はフェザーの手配でビザを取得し、ニューヨーク市マンハッタン52丁目のジャズ・クラブ、ヒッコリー・ハウスで音楽家としての仕事にありつく。彼女は1956年3月からおよそ半年間、同クラブにおいて専属のピアニストとして演奏した。さらにヒップは同年7月5日、ニューポート・ジャズ・フェスティヴァルでもプレイしたが、その模様は1945年のデモ音源などとともに、ドイツのレーベル、ビー!ジャズによって限定発売された6枚組CD+DVDのボックス・セット『ヒップ・イズ・クール〜ザ・ライフ・アンド・アート・オブ・ユタ・ヒップ』(2015年)に収録された。付属の208ページに及ぶハード・カヴァー・ブックレットには、彼女の貴重な写真も掲載されている。

 

 この1956年は云うまでもなく、ヒップの音楽家としての活動を俯瞰したとき、もっとも重要な年と断言できる。この年、彼女はフェザーの援助によって名門ブルーノート・レコードにおいて、アルバム3枚分のレコーディングを行った。その内訳は、LP2枚に振り分けられた4月5日のヒッコリー・ハウスでの実況録音。そしてニューポート・ジャズ・フェスティヴァルに出演したあとの、7月28日にズート・シムズと共演したスタジオ録音である。なおこのスタジオ・アルバムが、彼女の最後のレコーディングとなった。この“緑のブルーノート”と呼ばれて親しまれる『ユタ・ヒップ・ウィズ・ズート・シムズ』(1957年)は、ぼくも大好きでよくターンテーブルにのせるのだけれど、ブルーノートというレーベルではひときわ異彩を放っている。

ハート型のドイツ国旗とグランドピアノを弾く女性

 ズート・シムズといえば、スタン・ゲッツと双璧をなす白人モダン・テナーの雄。エレガントでクールなセンシティヴィティとサウンドをあわせもつプレイヤーだから、ハード・バップにおいて一強という印象を与えるブルーノートには、かなり似合わない。王道を行くクインテットでの吹き込みではあるが、ユタ・ヒップ(p)、アーメド・アブドゥル・マリク(b)、エド・シグペン(ds)、ズート・シムズ(ts)、ジェリー・ロイド(tp)というパーソネルを観ても、3対2の割合で白人が優勢を保つ。異色の組み合わせであるアブドゥル・マリクとシグペンとが打ち出すファンキーなビートと、フロントが奏でるマイルドでスムースなサウンドとのバランスが絶妙。ヒップの知的なピアノ・プレイとの相性も抜群なのだけれど、どちらかというと本作はシムズのアルバムだ。

 

 というわけで、ヒップのピアノ・プレイに集中するのなら、やはりハウス・トリオとして演奏したヒッコリー・ハウスでの2枚のライヴ盤に限る。個人的には『ヒッコリー・ハウスのユタ・ヒップ Vol. 1』(1956年)のほうが好みだけれど、疲れているときはなぜか『同 Vol. 2』(1956年)のほうを聴きたくなる。やや甘口だからかもしれない。ユタ・ヒップ(p)、ピーター・インド(b)、エド・シグペン(ds)というメンバーもいい。イギリス出身のインドはトリスターノの門下に学んだひと。シグペンはのちにオスカー・ピーターソン・トリオで名を馳せる。Vol. 1ではフェザーによる意気揚々としたイントロダクションから、アルフレッド・マーカッシュの「テイク・ミー・イン・ユア・アームズ」へ──。凛としたヒップのピアノ・プレイは、滑り出しから好調である。

 

 ヒップ自ら曲紹介するアンダース・フリュクセルの「懐かしのストックホルム」では、北欧の哀愁が漂うバラードがクラシカルなタッチを織り交ぜたピアノによって朗々と歌われる。チャーリー・パーカーの「ビリーズ・バウンス」では、気取り歩きするようなテンポに乗って、ヒップがビバップ・ブルースをクールに演出する。ジーン・デ・ポール「四月の思い出」では、ラテンから4ビートへ移行するアップテンポで、スウィンギーなピアノ、ランニング・ベース、ブラシの4バースとそつなくこなされる。ヒップの曲紹介ではじまるタッド・ダメロンの「レディ・バード」では、軽快なテンポで前曲とおなじ演奏パターンが繰り返される(ドラムスはスティックにもち替えている)。あっさりと力強いタッチを繰り出すヒップが、やたらと涼やかに映る。

 

 ノエル・カワードの「マッド・アバウト・ザ・ボーイ」では、ヒップによって絶え間なく繰り出される感傷的なフレーズがことのほか流麗だ。ファッツ・ウォーラーの「浮気はやめた」では、ユーモラスなムードをヒップはケレン味のないスウィング感覚で消化している。結果、インドのベース・ソロも含めてモダンに響く。ジャック・ストレイチーの「思い出のたね」では、ピアノの淡泊なバラード・プレイが知的な印象を与える。ハリー・ウォーレンの「ジーパーズ・クリーパーズ」では、軽やかで洒落た感じの三位一体の演奏がなんとも清々しい。フレッド・アーラートの「ザ・ムーン・ワズ・イエロー」では、タンゴ調のテーマから4ビートのコーラスへの移行が鮮やか。手で叩かれるドラムス、淀みのなく引き締まったピアノ、しなやかなベース・ソロ、ドラムスの4バースと、本作のハイライトとも云える美味しいピースだ。

 

 興味深いのは、ここでのヒップのピアノ・プレイが、明らかにドイツ時代のそれよりもハード・バップ色を強めているということ。即興演奏における急速で繰り出される長めのパッセージにトリスターノを彷彿させるものがあるけれど、それよりも歯切れのいいブルージーなフレーズやほどよいスウィング感、それにパワフルなタッチが際立つようになった。そんなニューヨークにおける彼女のスタイルとサウンドに、なんとも晴れやかな気分にさせられる。それは同時にヒップに凛とした美しい女性というイメージを与えるものなのだろう。ニューヨーク市マンハッタン区グリニッジ・ヴィレッジのジャズ・クラブ、カフェ・ボヘミアで、ヒップはアート・ブレイキーからの共演の申し出を断ったことがある。そのあと彼女はブレイキーに衆目に晒されてこき下ろされた。ブレイキーもオトナ気ないが、それだけヒップはチャーミングなミュージシャンだったのだろう。美人であるかどうかはともかく、彼女のピアノ・プレイはすこぶる魅力的なのだから──。

 

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

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