Chad Borja / Show Me The Way (2000年)

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横倉裕が全面的にアレンジとプロデュースを手がけたピノイ・ポップ・シンガー、チャド・ボルハの『ショウ・ミー・ザ・ウェイ』

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Album : Chad Borja / Show Me The Way (2000)

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AORの愛好家たちの間で注目を集めていたピノイ・ポップ・シンガー

 

 この5年くらいの間、1970年代後半から1980年代にかけて制作されたシティ・ポップのアルバムが、世代を超えて再評価されている。実はそれ以前にイギリスやアメリカでは、すでに日本のシティ・ポップが注目されるようになっていた。2000年代初頭のことだったと記憶する。あちらのひとにとって、日本はパワープレイとなるネタの宝庫でありAORの秘境でもあったのだ。日本の音楽が海外でスポットライトを浴びるという現象は、云うまでもなくインターネット環境の普及が大きく影響している。音楽に国境がなくなるというのは有意義なことではあるけれど、そのいっぽうで正直に告白すると、そんな海の向こうでのブームの逆輸入に背中を押されるようなわが国の音楽産業に、ぼくはちょっと不甲斐なさを感じてしまうのである。

 

 シティ・ポップは、もともと欧米の音楽から影響を受けた日本のアーティストたちが、洗練されたアーバンなサウンドを志向して作った音楽だった。あのころのミュージシャンや音楽プロデューサーは、グローバルな視野でミュージック・シーンの動向を常に見守り確認していたように思われる。いまも世界には素晴らしい音楽が、数多存在する。ワールドワイドにアンテナを張り巡らせていれば、自ずといい音楽にめぐり合うことができる。そんなふうに、ぼくは信じる次第である。これはもう20年以上もまえのことになるけれど、ぼくはワーナー・ミュージック・フィリピンスからリリースされた、まさにこころが揺さぶられるような素敵な1枚のアルバムに出会った。ところが残念なことに、それは日本国内で発売されることはなかった。

 

 そのアルバムは、いわゆるピノイ・ポップ(フィリピン・ポップ)というジャンルに属するもので、要はフィリピン産のポピュラー・ミュージック(ムシカ・ナン・ピリピーナス)の1枚。このピノイ・ポップ、いまではK-POPの影響からそれになぞらえてP-POPなどとも呼ばれているようだけれど、もとは1960年代から1970年代に隆盛を極めたOPM(オリジナル・ピリピーノ・ミュージック)という、フィリピンのオルタナティヴ・ミュージックから派生したものである。とはいってもアメリカの音楽全般からの影響が強く、そのサウンドといえばロック、リズム・アンド・ブルース、ジャズなど多種多様の音楽が混在する。その点、日本のシティ・ポップと同様に、ピノイ・ポップにおいても有益かつ貴重な音楽に出会うことがある。

フィリピンの国旗とCD

 様々なジャンルの音楽を包括し、タガログ語ではもちろんのこと英語でも歌われるピノイ・ポップは、まさに百花繚乱と云える。ことに注目すべきは、OPM時代からの王道であるバラード、キャッチーなロック・チューン、あるいは洗練されたジャズ・ナンバーなどをレパートリーとするフィリピンのシンガーたちには、とにかく抜群の歌唱力をもつ実力派が多く存在するということだ。K-POPもそうだけれどピノイ・ポップの魅力といえば、アジアならではのメロディアスな楽曲も然ることながら、クオリティの高いシンギング・アビリティにあると、ぼくは思う。そのことは、わざわざフィリピンから個人輸入までして手に入れたこのアルバムをはじめて聴いたときにも、ぼくが強く感じたことである。

 

 この『ショウ・ミー・ザ・ウェイ』(2000年)という秀逸なアルバムのリード・ミュージシャンであるチャド・ボルハという男性シンガーもまた、優れた歌唱力のもち主。ソフトでのびやかな声質とセンシティヴかつダイナミックな表現力が、甚だ魅力的だ。そのワイドレンジの歌声は、彼の出身地であるセブ島の洋々たるイメージと重なる。セブ島は透きとおる海と真っ白な砂浜が美しい、フィリピン中部のビサヤ諸島にある島。すぐに行けることから、日本でも人気の観光スポットとなっている。ボルハの正確な生年月日はいまもって不明なのだけれど、ジャケットの写真から当時の彼は30代半ばくらいに見えた。そんなボルハは、1992年に「イカウ・ラン」(あなただけ)という曲がスマッシュヒットとなり、フィリピンではすでに名の知れたアーティストだった。

 

 そうはいっても、当時ぼくがボルハについて知り得た情報といえば、その程度のものだった。確かこのアルバムがフィリピンでリリースされたころといえば、日本のインターネット接続サービスも、まだ一般のアナログ電話回線が流用されていたとはいえ、とりあえずブロードバンド化されていた。ウェブページの閲覧はもちろんのこと、ネットショッピングも一般家庭に普及していたと記憶する。ぼくがボルハのことを知ったのも、ある個人の音楽通販サイトでのことだった。それはぼくが『ショウ・ミー・ザ・ウェイ』を入手する少しまえのことになるけれど、ボルハはすでにAORの愛好家たちの間で、フィリピンが生んだグッドテイストの実力派のシンガーとして注目を集めていた。

 

 そのサイトではボルハのセカンド・アルバム『ザ・ウェイ・アイ・アム』(1996年)が紹介されていたのだけれど、このアルバム、それこそオトナ向けと云いたくなるような、バラードを中心としたアコースティックで落ち着いた感じのロック寄りのサウンドといい、デニムシャツを着たボルハのバストショットがあしらわれた灰がかった暗い青緑色のジャケットといい、いかにもAORファンから歓迎されそうな1枚だった。実をいうとそのときのぼくは、なんとなくボルハのことをそんな感じで受けとめて、あまり気に留めなかったのだ。でもいまから考えると、ピノイ・ポップがAORの隠れた名盤として採り上げられるというのは、日本のシティ・ポップが海外で注目されるケースとよく似ている。

 

プロデュースを手がけたのは世界にただひとりの音楽家、横倉裕

 

 ボルハのことをぼんやりと記憶に留めていたぼくではあるが、しばらくしてふたたび同じウェブサイトを訪れてみると、今度はくだんの『ショウ・ミー・ザ・ウェイ』が紹介されていた。なおボルハはそれまでに『チャド・ボルハ』(1993年)『ザ・ウェイ・アイ・アム』(1996年)『ソーリー・ナ・プウェデ・バ』(1998年)といった3枚のアルバムをリリースしており、この『ショウ・ミー・ザ・ウェイ』は、彼にとって4枚目のリーダー作ということになる。ぼくはこのアルバムの紹介記事を読んで、思いがけないその内容に年甲斐もなく慌てふためき、このボルハの新譜に激しく興味をそそられたのである。なぜならば、本作のアルバム・プロデュースを手がけたのが、YUTAKAこと横倉裕だったからである。

 

 横倉裕は、アメリカ西海岸を中心に活躍する音楽家。成蹊高等学校在学中に、ザ・マザーズ・ウォーリーを結成。1970年にヤマハ音楽振興会が主催する第4回全日本ライト・ミュージック・コンテストに出場し、自作曲「ジャスト・アフター・ザ・レイン」においてフォーク部門の第1位に入賞した。ただしこの曲、フォークではなく英語詞の爽快なボサノヴァ・ナンバーだ。その後、横倉さんは20歳でプロデビューする。しかしながらブラジリアン・テイストのポップ・グループ、NOVOのキーボーディスト兼ヴォーカリストとして活動するも、1973年に発表したシングル盤2枚を残してバンドは自然消滅。横倉さんが籍を置いていた成蹊大学を中退、単身渡米し活動の拠点をロサンゼルスに移したからだ。

 

 横倉さんは、カリフォルニア州立大学ロングビーチ校で作曲とピアノを専攻するいっぽう、カーペンターズの師であるクワイアマスター、フランク・プーラーからヴォーカルの手ほどきを受け、さらにフュージョン・シーンの雄、デイヴ・グルーシンからアレンジやオーケストレーションを学んだ。1978年にグルーシンのサポートによりリリースされたソロ・デビュー作『ラヴ・ライト』は、アメリカ西海岸のラジオ・ステーションにおいてヘヴィ・ローテーションとなり人気を博した。まもなくレコードが廃盤になると、未使用盤はもちろんのこと、中古盤でさえ高額で取り引きされるようになった。本盤は長い間クレート・ディガー垂涎のアイテムとなっていたが、2年まえ日本において最新のリマスターでリイシューされた。

フィリピンバナナとCD

 ときに横倉さんは、1988年にグルーシンがオーナーを務めるレーベル、GRPレコードと契約する。同レーベルにYUTAKA名義で『YUTAKA』(1988年)『ブラゼイジア』(1990年)『アナザー・サン』(1993年)といった高品質の作品を残した。そのころから、コンポーザー、アレンジャー、キーボーディスト、箏プレイヤー、シンガー、レコーディング・エンジニア、そしてプロデューサーとして、様々なレコーディングでそのクレジットが発見されるようになる。とはいっても、彼はもともと音楽に対する姿勢がストイックというか妥協知らずのひとだから、その仕事量は決して多くはなかった。そのぶん手がけた作品は、どれも極めて完成度が高い。しかも横倉さんがクリエイトするサウンドは極めて個性的で、誰にも真似することができないものなのである。

 

 かけ値なしに云うが、横倉裕は世界にただひとりの音楽家だ。ぼくは彼の音楽をずっと追いかけてきたのだが、残念なことにソロ名義のリーダー作といえばさきに挙げた4枚を数えるのみ。NOVOの未発表音源も2003年にめでたく日の目を見たけれど、それでも感性の渇きが癒されることはない。したがって自ずと、横倉さんがプロデュースやアレンジを手がけた作品にまで手を伸ばすことになる。たとえば横倉さんが敬愛するセルジオ・メンデスの音楽を、その洗練されたアレンジメントでコンテンポラリー・ジャズ風に再現してみせたL. A. トランジットの『ジ・ノヴォ』(1986年)は、彼の音楽を愛するものにとってはマストアイテムと云えるだろう。ロサンゼルスとブラジルとの混合メンバーによるヴェラスの『イーリャ・ドス・フラージス』(1989年)も、また然りである。

 

 さらに挙げると、ニューヨーク在住の日本人ジャズ・ギタリスト、増尾好秋のフュージョン・アルバム『ソング・イズ・ユー・アンド・ミー』(1980)、女優で音楽活動も活発な藤田朋子のファースト・アルバム『ザ・ウーマン・イン・ミー』(1989年)、ハワイ出身のフュージョン・グループ、シーウィンドの女性ヴォーカリスト、ポーリン・ウィルソンのソロ・デビュー作 『愛の瞬間ひらめき』(1992)などは、横倉さんがプロデュースやアレンジを全面的に手がけた作品である。曲単位だとグレッグ・フィリンゲインズ(key)、ケヴィン・レトー(vo)、河合奈保子(vo)、マニアックなところではブレンダ・パターソン(vo)の作品も忘れることができない。ちなみにぼくが横倉さんの曲をはじめて聴いたのは、女性ディスコ・グループ、ザ・ラヴ・マシーンの『恋のショック』(1977年)においてだった。

 

 もしあなたが横倉さんのクリエイトするサウンドに魅力を感じたら、上記のエクセレント・ワークスを差し置いても手にとるべきなのが、チャド・ボルハの『ショウ・ミー・ザ・ウェイ』である。このアルバムでは、楽曲の個性的なコード進行、テンション・ノートを多用した絶妙なハーモニー、効果的なモジュレーション、リズムに対する独特のバランス感覚と、ボルハの柔らかく落ち着いた雰囲気のヴォイス・クオリティが相まって、横倉裕の音世界そのものとも云えるサウンド・タペストリーが織り成されている。前述のヴェラスのヴォーカリスト、ケヴィン・レトーのソロ・デビュー・アルバム『ユア・スマイル』(1991年)は横倉さんが携わった作品だが、発売当初ニュー・アダルト・コンテンポラリー(NAC)と云い表された。ボルハのアルバムもまた、そのフォーマットに属するものだ。

 

 NACはAORやシティ・ポップとしても機能する音楽ジャンルであり、ラジオ・フォーマットでもある。ポップ・ミュージックにジャズ、フュージョン、さらにはブラジリアン・ミュージックのテイストが加味された、よりソフィスティケーテッドなサウンドが広がり伝わる心地いい音楽だ。この『ショウ・ミー・ザ・ウェイ』は現在非常に入手が困難な状態にあるが、昨今のシティ・ポップの盛行に乗じて、わが国でもリイシューされることを切に願う次第である(ワーナーミュージック・ジャパンさん、何卒お願いします!)。ピノイ・ポップの俊傑と唯一無二のサウンド・クリエイターとの出会いが生み出した奇跡的な化学反応を、このまま埋もれさせてしまうのは、あまりにも惜しい。

 

ミラクルの結晶とでも云いたくなるような傑出した作品

 

 ではこのコンビネーションは、どのように実現したのだろうか──。13歳のとき音楽好きの父親を自動車事故で失ったチャド・ボルハは、音楽に慰めを見出した。彼は何度も歌唱コンテストに出場し、シンガーとしてのスキルを磨いた。しかしながら6人の兄弟をもつ彼は家計を維持するため、地元のサン・カルロス大学に入学し会計士を目指した。それでもミュージシャンになる夢を捨て切れず、1984年ごろから音楽活動を開始し1987年には自己のグループC-60を結成。1988年にはフィリピンの首都であるマニラに移り、1989年までザ・ニュー・ミンストレルズ・バンドに在籍した。その後セブ島に戻り、ザ・ジー・バンドに加入し地元のみならず、シンガポール、マレーシア、インドネシアといったアジア諸国や、グアムなどでも演奏活動を行なった。

 

 1991年にこのバンドでの活動が認められて、ボルハはソロ・アーティストとしてレコーディングをオファーされる。その吹き込みはチャド・ボルハ&テア・ハヴィエル名義の『オール・アバウト・ラヴ』(1992年)としてリリースされたが、シングル・カットされた「イカウ・ラン」は、前述したように大好評を博した。すっかりピノイ・ポップの人気アーティストとなったボルハにターニングポイントが訪れたのは、1997年のこと。彼はフィリピンのバコロド生まれの歌姫、クー・レデスマとアメリカへツアーを行なったが、ロサンゼルスを訪れた際ショーを観にきていた横倉裕を紹介された。ボルハの天分を見てとった横倉さんは、彼に一緒にアルバムを制作することを約束したのである。

 

 ちなみにレデスマは、1982年に日本で「夏物語(One Day Soon)」というシングル盤をリリースしたこともあるので、ご存知のかたも多いだろう。この曲は、松任谷由実の楽曲「夕涼み」をカヴァー(というかほぼ同時リリース)、英語詞で歌ったものだ。それはともかく、昔から禍福は糾える縄の如しというけれど、横倉さんとの出会いという幸運に恵まれた直後、ボルハに思いがけない厄災が降りかかる。ロサンゼルスに滞在していたときから身体に違和感を覚えていた彼は、帰国後マニラで精密検査を受けたが、歌手としては命取りとなる甲状腺がんにかかっていることが判明した。結局ボルハは2年間の闘病生活を強いられたが、2000年に奇跡的に音楽活動を再開する。その嚆矢となったのが、まさに『ショウ・ミー・ザ・ウェイ』だった。

黄昏時のロサンゼルスの海岸とCD

 まことにミラクルの結晶とでも云いたくなるようなこの傑出した作品は、カリフォルニア州のアルハンブラ市でベーシックなレコーディングとミキシングが行われ、マニラでオーヴァーダビングが施されたあと、ふたたびアルハンブラでマスターリングされ完成した。全10曲、プロデュースとアレンジはすべて横倉さんが手がけた。さらに吹き込みにおいても、ピアノ、フェンダー・ローズ、シンセサイザー、ヴォーカル、それにドラムとパーカッションのプログラミングと、横倉さんが一手に担っている。ほかには、フィリピンのロック・ギタリスト、ノエル・メンデス、おなじくフィリピン出身のジャズ・サクソフォニスト、トッツ・トレンティーノが花を添えている。バックグラウンド・ヴォーカルズを務めるのも、シルヴィア・マカレイグバブシー・モリーナモイ・オーティスと、フィリピンの名手たちである。

 

 アルバムのオープニングを飾るのは、ジミー・ボルハの「クン・アコ・ラン・サナ」(もしも私が)で、タガログ語で歌われる。ジミーはチャドの弟で、シンガーソングライターである。バウンスするリズムとエッジの効いたホーンズ(シンセ)をバックに、ボルハのはじめはセンシティヴで徐々にエモーショナルになっていく歌いまわしが絶品。憂いを含んだテーマから転調して一気に洋々たるコーラスへと移行するところがなんとも爽快だ。つづく「レット・マイ・ラヴ・インサイド」は、シンガソングライターでハーモニシストのトーラック・オレスタッドの曲。キレのいい16ビートと洗練されたハーモニーは、まさに横倉裕の世界。ボルハのパッショネートなヴォーカル、横倉さんのシンセ・パッド、トレンティーノのアルトが都会のデイドリームを描き出す。

 

 フィリピンのシンガーソングライター、ジェイ・デュリアスの「トゥーロ」(眠り)は、タガログ語で歌われる。飾り気のないゆったりした8ビートを背景に、ボルハのジェントル・ヴォイスがそこはかとなくノスタルジアを感じさせる。ラニ・ホール作詞、横倉裕作曲による「サマー・ウィズアウト・ユー」は、センティメンタルなボサノヴァ。過去に(横倉さんがリード・ヴォーカル務めた)L. A. トランジット藤田朋子のアルバムでも採り上げられた。本トラックは藤田さんのヴァージョンをベースにしたものだが、ここではボルハとクー・レデスマとのデュエットが奏でる美しいハーモニーを堪能することができる。ジミー・ボルハ作詞、横倉裕作曲による「パラン・カハーボン・ラマン」(まるで昨日のことのように)は、ケヴィン・レトーの「ショウ・ミー・ザ・ウェイ・トゥ・ユア・ハート」がタガログ語で歌われたもの。ボルハの高揚感に溢れたフロウが感動的な3拍子の曲だ。

 

 ケヴィン・レトー作詞、横倉裕作曲による「ラヴ・レター・フロム・ザ・ハート」は、レトー本人とボルハとのデュエットが楽しい。ヒップホップ・ミュージックのリズムに乗って、横倉さんのローズとスコット・マヨのアルトも小気味よく跳ねる。ここでのバックグラウンド・ヴォーカルズは、ケイト・マーコウィッツヴァレリー・ピンクストンアーノルド・マッカラーといったアメリカ勢によるものである。ビヴァリー・ダーナム作詞、バニー・ハル作曲による「ショウ・ミー・ザ・ウェイ」は、ハートウォーミングなバラード。アルバム中もっともAORなサウンドであり、本来のボルハの魅力がストレートに顕現したナンバーだ。ジェイ・グレイドンマーク・ミューラーロビー・ネヴィルの共作「サムワン」は、エル・デバージの原曲よりもソフィスティケーテッドでグルーヴィー。ボルハのヴォーカルも、バウンシーだ。

 

 シンガーソングライター、デヴィッド・ポメランツの「イフ・ユー・ウォークド・アウェイ」は、スケールの大きなバラード。ボルハのパワフル・ヴォイスによるエクスプレッシヴなパフォーマンスが感動を呼ぶ。ラストの「ウィズ・ユー」は、ふたたびジミー・ボルハの曲。ボルハの芯の強さと優しさとを兼ね備えたヴォーカルが、熱く爽やかな空気を醸成する。それこそセブ島の美しいビーチがイメージされるような、実に清々しいナンバーだ。このあとボルハは体調が悪化したため2002年、シンガーとしての活動をつづけることを一旦断念する。しかしながら沈む瀬あれば浮かぶ瀬ありで、10年のあいだ歌っていなかった彼は、不死鳥のごとく復活する。ボルハは『イカウ・ラン・サ・ハバン・ブハイ』(2013年)という素敵なアルバムを完成させたのである。そう、ふたたび横倉裕のプロデュースで──。

 

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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